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今年の課題

今年の練習のテーマは何にしようかと考える。いや実はすでに決まっていてそれをどう研究してゆこうかと考えているのだ。

昨年末に六段に昇段することが出来たが審査員でもあり私の先生でもあるN範士に挨拶にゆくと厳しい言葉をいただいた。その言葉の意味をまだ理解出来ていないのだが、合格した喜びは15分ほどで消えた。どうしようもない悪癖の射から脱しようやくいただいた六段だがいかんせん長くかかりすぎている。私にのんびり楽しむ時間はない。自ら次の課題を定め稽古を積まなければならない。昇段昇格という話でいうなら教士の審査が次の目標だ。だが最近受審規定が変わり教士は六段が受かってから1年は受けられないようになった。ならばその間に徹底して課題に取り組もうと考える。

私の定めた課題は弓手の手の裏の研究と息合を肚に落とす研究の二点だ。

射が息合で行われるのは自明の事でありそんな事も出来ていないのかと笑われるかも知れない。だが息合は難しい。射礼研修や審査に向けての練習で入場から体配をしっかり意識してやる時はしっかり息合を意識している。普段の練習、行射でも射法八節に沿って自分なりの息合を確認したり他人の教える息合を試してみたりする。しかし肚に落ちた息合とそれが離れにどう作用するかを意識的にコントロールするのは容易ではない。武道の修練では意識して練習したものがやがて体にしみ、意識が無意識になるまでやってそのうえで動きにつながるようにする。私の場合まだまだ肚に落ちるのも確実ではない。
かといって全く出来ていない訳でもないだろう。体配の息合が自然に整い射の運行のどこにも無駄な力を感じず静かに収まってゆくとき呼吸も無駄なく行われ殊更に意識せずとも体全体にしみわたっている。この時丹田にすぅーっと落ちる息合を感じる時もあるし硬くしたはずの肚も忘れて体が軽くなっている時もある。どうゆう状態が良いのか私にはまだ判らないがいずれにしても息合が射にしっかりと伝わる。

課題はこの息合をきちんと私のものとして理解し必ず出来、そして意識しないでも出来ているように修練することだ。時々あぁ今のは上手く出来ていたなと思っているようなレベルではまだまだである。

もう一つの課題、弓手の手の裏の研究は長年の私の課題である。四段ぐらいの時は弓がよく落ちるので悩んでいたが特に手の裏が悪いと言われたことも無かった。弓を強く握ったりもしなかったが逆に角見を強く意識したこともなかった。もともと日置流が角見をよく言うのに対し正面打ち起こしの角見の利かせ方は違うと思っているし、正面打ち起こしの場合引き分けて来た時にすでに角見は利いていると考えている。だから本来ならば押し切れば角見は充分働くはずだと思っている。角見を利かせようとして手の裏が崩れる人を見るが道場のS先生は取懸けから残心まで弓手の手の裏が外形上は全く変わってないように見える。そうでいてきちんと角見も働いているのだ。

ところが私の矢の頬摺羽は摺れて傷んでいる。これは恥ずかしい事だ。矢摺籐も傷む。下手な弓引きほど道具を傷めるのだ。
そこで今年は今までの考えを一旦横に置いて(決して間違っているとは思っていないが)自分の弓手の手の裏と角見の働かせ方を研究しようと思った。決して私の矢勢は悪くない方だがもっと鋭い矢勢を出したいとも思う。

この二つの課題に取り組むにあたって読み始めた本がある。『弓道研究 正法流精義』という吉田能安の教えを伝える本だ。すでに『正法流弓道いろは訓―吉田能安先生の教え』や『正法流入門 弓の道―武道としての弓道技術教本』も読んでいる。今回の『弓道研究』も具体的に要点が書かれていて非常に興味深い。吉田能安といえば握る手の裏といって兜も射貫く矢勢の手の裏を考案し阿波研造をして大射道教の手の裏はこれにしようと言わしめた人である。以前講習を受けたH範士も握る手の裏を10年研究してようやく人に話せるようになったと仰っていた。私もH範士に倣いこの手の裏を参考にしてみたいと考える。

さて、今日は引き分けの工夫について練習をしてみた。本の中に「大三の位置にある弓を会の位置に下げて行くのではなく、自らの体を上に伸ばすことで、大三の位置にある弓の方へ体を上げて行くように引取ることを教えられたものである。」と書かれている。私も以前引き分けが上手く出来ず苦労したことがある。手先で引いてしまうのか矢が平行に降りてこない。弓手と馬手の引き分けるスピードの差かとも思って見た事もあるがどうも納得がいかない。
引き分けが平行で均等に降りてこないと会で骨の納まりが悪くしっかりした詰め合いと延び合いをすることが出来ない。さらに言えば大三で整えた弓手の手の裏と馬手のカケと弦の関係も引き分けで変わってしまう可能性が増す。つまり引き分けは手の裏の構成にも重要な影響があるのだ。

そこで今日の練習では大三で整えた形を開きながら降ろすのではなくそのまま左右に開くだけと意識した。もちろん外形的には体に近づいてくるのであるが体を上に伸ばして矢に近づけて行く感じである。この時重心の移動も大切ではあるが今日はそのことは置いて弓手の研究だけを意識した。
この引き分けをすることで弓手も馬手も形が変わることなく矢も平行を維持したまま体に近づくことが確認できた。さらに弓手の手の裏は的方向ではなく的より前に押しながら体に沿ってくるから会の状態でもその働きは変わらない。もっとも大三の位置から会の位置では当然的に近づいているのであるがそれでも的の中央に押しているのではないと思う。それが離れで弦が矢を押し出しながら弓に戻ってゆこうとする働きと角見の働きによって的中央に向かって矢を飛ばせるのだろう。
この弓を押す方向については、『弓道研究』にも弓手が深く入れてはいけないとも書かれている。また以前講習会で講師の先生から会で私の弓手が入りすぎているので少し控えるようにと指摘を受けたことがある。この時の私は会と残心とで弓手の形を変わらないようにするため手の裏を入れて肩根から押し開いていこうと考えていたのである。

こうして課題を決め取り組むと練習が非常に楽しい。今日は道場で私一人の時間が長かったので一射ごと試しながら練習をすることが出来た。仲間と一緒の練習も良いが時には一人で課題に専念する事も大事だ。
日々の練習では毎回今日の課題というのを意識して練習をする。漫然と引いても良い練習にはならない。私は今年一年の課題を弓手の手の裏と肚に息合を下す研究と決めた。しかし今日の練習のように引き分けが手の裏に重要なことも発見としてあるのだから課題研究のために色々なアプローチが必要なのだろうと思う。その様々なアプローチから何かが見え統合されて私の射が作られてゆくことを期待している。

ではまた。

追記)

翌日道場で練習を始めようとしているとS先生がいらした。今思うところの射を見て頂いてどう仰るのか。
先生は開口一番「京都は申し込んだか。」と仰る。これは京都大会に出ろという話だ。私がまだ申し込んでいないと言うと「中てればいいんだから」とこともなげに仰る。先生にこう言われたら行くしかない。
行射を始めると、手の裏を柔らかくしろといつもの指摘。近くに来て見たり離れて見たりしながら「手の裏は悪くないからそれでいい」と。しばらくして馬手を鋭くするようにすれば弓手がもっと楽になると言われたので馬手に意識を強くしカケの残心を心がけるとその方が良いと仰る。このカケの使い方は今私が研究している使い方なので少し心強く思う。
そんな練習を上手くいったりいかなかったりりながら先生に見ていただく。心から嬉しく幸せな練習だ。
その後お茶を飲みながら久しぶりに先生と弓話に興じた。吉田能安の話もする。

弓を引き、先生と弓の話をする。これほどの幸せがあるだろうか。私は本当に恵まれていると思う。


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テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

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