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「射品射格の向上を図るためにどのような修練が必要か述べよ」

前回八段受審者への論文課題「無発の発について述べよ」について書いてみたが論文である事を考慮していくつかの点について注意を払った。一つは「無発の発」という言葉が誰の言葉または出典はどこにあるのかということ。これをはっきりさせないで論を進めることは無責任な話だ。次にどうゆう思想を源流に持つ言葉であるのかということ。私は阿波研造が学んだ大乗仏教にそれを見出した。そのうえで一元的視点から「無発の発」を理解しようと試みたのであった。
今回、教士受審者に出される「射品射格の向上を図るためにどのような修練が必要か述べよ」という課題について論を試みてみたい。

はじめに
「射品射格の向上」は弓道教本第一巻16頁に登場する。即ち宇野要三郎範士が提唱した①射法、射技の研修、②礼に即した体配の修練、③射品、射格の向上、④人間完成の必要という弓道修練の眼目の一つとして私たちは教えられる。そして「体配と射法射技が渾然一体となり、品格のある射が生まれなければならない。」と続く。
また58頁には「射と体配とは分離した二つのものではなく、一貫されてこそ立派な射となり、風格、品位が現れるものである。心の持ち方、体の整え方、正しい息合い、射法・射技等心・身・弓が渾然一体となってこそ、射の内容は広く、深く、真善美を顕現するものである。」と詳しく説かれている。
ところで品格とはなんであろうか。また私たちは品格が現れるように、または見た目に分かるようにと意図して体配を行い行射をしているのであろうか。私は決してそうではないと思う。射品が現れるようになどと心に思いながら行射をすることはそのこと自体すでに心が偏っていることであり品格を失ったものと考える。
品格という言葉を辞書で引いてみると「節操の堅さや、態度のりっぱさ姿の美しさなどから総合的に判断される、すぐれた人間性。」(新明解国語辞典第六版 三省堂)とある。
そこでもう一度宇野要三郎範士が挙げた四つの眼目をみると、射法・射技、体配は道場で自ら意図して行うものであるが、射品・射格の向上、人間完成は先の二つとは違い道場に限らず生活態度や生き方、思想を練る修行が要求されているように思う。

本論
射法射技と体配とが渾然一体となった射が基本であるのだからまずその修練が出来ていなければ「射品射格」を論ずることは出来ない。
基本となる姿勢と動作を行うにあたり、起居進退しっかりと心に銘じて意識の通じた動作、生気体の動作であることが重要である。体配には気が伴っていることが必須であるがそれは気構えと息合から生まれる。その上で間を感知しはかること道場に統一された空間を生むことが可能となる。特に多人数で行射する場合には自身の間とともに相互の間にも意を払うことが大事でこの気を合わせる作業は相手に対する敬愛や協調の気持ちがなければ実現しない。一緒に行射する仲間と意を通じ合い道場に統一された空間を作り出すことはそれ自体が美しく見る者に感動を与えるものである。
射法射技についても基本を知ることが大事である。即ち①弓の抵抗力、②基本体型、③呼吸(息合)、④目づかい、⑤心・気の働きである。今一つ一つについての詳説は控えるがなぜこのような基本を細かく射術の法則として学ばなければならないのか。それは自然体への理解であろう。「自然体とは人間の骨格の正しいあり方を示すもので、後天的な悪癖とか、誤った訓練による偏奇な姿勢をさすものではない。」(弓道教本第一巻100頁)とある。この正しい骨法を知ったうえで正しい動作を行うことにより自身の癖を規正し理屈に合った動作を修練していくことが武道において重要なのである。
射法八節についても同様に正しい骨法に基づいた体の使い方を学ぶことを要求される。また同時に弓・矢・カケといった道具を使用することからそれら道具に対する正しい知識・使い方の理解も必要となる。そして「会」に至っては「的に対する執着心や欲望、雑念を去り、正しい信念にもとづき克己、冷静、忍耐、決断力等の心気の充実につとめるとともに、疑い、不安、弱気、恐怖、卑下感等の陰性を払拭しなければならない。」(弓道教本第一巻119頁)と射手の心理的働きを説いている。
このように射法射技、体配の修練を見てくると技術にとどまらず、射手本人には自然体への理解と正しい骨法を学ぶ過程で自らを整え直しまた律してゆくことが求められていることが分かる。つまり射法射技・体配を修練する事で自らを解体し正しい摂理を知り身を置き直す努力が必要なのである。私はこの自己解体と再構築の修練こそが私たちを真実に近づけるものだと考えている。

さて私たちは生活の中で美しい美術品や絵画に接し感動することがある。お茶の道具、一幅の掛け軸に心を引かれることもある。一方同じ絵画や道具でも模したものには全く心が動かされないといった経験もあるだろう。本物と模造品の違いは素人にも一目瞭然としている。この違いは何処から生まれてくるのであろうか。私は作者に哲学があるかどうかの違いだと考えている。

窪田真太郎範士は「人は事を極めれば、それなりの風格を具えます。弓道においては射品、射格ですが、その端正な姿は、単に現わそうとしても、表面からでるものではなく、-中略-それは磨きぬかれた体内から自然と湧出されるもので、体配の修練体得によって滲み出て、見る人に深い感動を与えるのです。その体には必ず、射はもとより、基本体、基本動作たる体配の修練に刻苦勉励した、その人の誠意が、裏打ちされているからでもあります。」(弓道教本第四巻231頁)と述べている。
射技や体配の修練を通じて自然の摂理に合致した美しい動きを会得することは大事であり、修練の過程で自らに課したものは必ずや射手を変化成長させる。しかしその変化に射手個人の思想哲学が伴っていないとするとせっかくの体配も形だけの空虚なものにしかならない。どのような思想哲学を身に着けるかは射手の問題でありどのような弓道を目指すのかという射手の修行である。多くの書物を読み、先生、先輩、道場の仲間の話を聞き思索と経験を重ね、自分の考え、世界を作ってゆくことが大事だ。
「射品射格の向上」と挙げられるが、それは結果として具わるものであってこうすれば具わるという技術的な話ではない。弓道の修練において全てに誠実に向き合い反省し自らを変える勇気を持ち、謙虚に学び続けることによっていつしか見られるようになるという事だ。ゆめゆめ射品射格の見える射を行おうなどと思わないことだ。

まとめ
「射品射格の向上」を図るという弓道修練の眼目は射法射技の研修、体配の修練を通じて自己を自然の理に適った姿に作り上げてゆくことで可能となる。しかし姿形や動作の美しさだけではなく内面から滲み出る射手の人格の美しさがなくてはならない。人格を磨くためには広く学び常に反省し自らを変える勇気が必要で、それには先生や先輩、仲間に和敬の気持ちをもって接し謙虚に学び続ける必要がある。こうすれば射品射格が具わるなどという技術は無く、射品射格を求める心すら邪心である。弓道の修練を通じて生き様や哲学を身につけるようひたすらに誠実な心をもって弓と向き合い修行に励むことこそが大切である。
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テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

「無発の発について述べよ」

今月届いた月刊誌『弓道』に八段受審者への論文課題として「無発の発について述べよ」が出され三人の方の論文が掲載されている。
論文課題は教士・七段・八段の術科審査通過者に課せられるもので論文提出(審査)をもって認可を受けることになる。誌を通じて他の方の論文に接することで参考になる事大である。
ちなみに最近の教士審査論文では「射品射格の向上を図るためにどのような修練が必要か述べよ」、七段では「射行の修練が人間形成に及ぼす影響について」という課題が出されている。

さて、このように論文課題が明らかになっているのであるから事前に書いてみるのも学びの一つであろう。
ということで試論「無発の発について述べよ」である。

序論
「無発の発」という言葉は弓道教本第三巻において安澤平次郎範士が表している言葉で、「射道も、一箭に全生命力を傾倒し全霊全我をもって的と一枚たるところに「無発の発」というのが存在するのである。」(24頁)とある。また「円成無発の発境にて、茲に至って始めて大発動の霊箭の射が現出する」「「的と自己」との対立は解消し彼我一体、絶対の境地となるのである。」(146頁)と精神面の働きを図示している。安澤範士は阿波研造範士の弟子であるから思想の骨格は師である阿波研造の教えから受け継いだものと考える。
阿波研造は儒教、道教、仏教などから射学を求め「不発の射」「不射の射」という言葉を残している。また天照大神が威徳をもって須佐之男命を感化し日本建国の基礎とされたとして弓道の開祖は天照大神であるとし、「神武無殺」とし「無発の発」「無発絶対」と表した。(射の道について 国際化時代の弓道を考える 阿波研造遺文をめぐって 桜井保之助「弓道」)
このように阿波研造から安澤平次郎に受け継がれた「無発の発」とは射において身心弓の合一を図り気合の発動と共に発射される離れをさらに深く考え新たな意味を見出したものと考えるのがふさわしい。射に於いては「離れは、自然の離れが理想であることは申すまでもない。自然の離れとは、引き収まって縦横の線正しく伸合い、丹田を中心として全身均等の働きが、精神力・体力・弓力を調和しつつ、最高潮に達した瞬間、無意識のうちに矢が弦をはなれたのが、すなわち理想の離れと言うべきで、しかも無意識のうちにも生命が躍動していなければならない」(高塚範士 弓道教本第三巻 190頁)とあるように「自然の離れ」が射を行ずるにあたって求める離れであることは間違いがない。しかし「無発の発」と「自然の離れ」が同一のものまたは同次元で評されるべきものであるとは考えにくいのである。

本論
会が完成し離れが生じる。離れは発射であり気合の発動とともに矢が離れてゆく。神永範士によると「射においては、常に発動の気がこもっていなければならない。この発動の気が矢を発するのである。」(弓道教本 第二巻 161頁気)とある。この発気を生むために私たちは身心弓の合一を試み呼吸を学び丹田に気を集める練習を重ねる。
ところで、気合が整い澄ましが活きて来た時に私たちは息合を意識したり丹田を意識したりしているであろうか。私は自身の経験を観察すると静かな呼吸とともに気は全身に満ち習い練習した呼吸は自然となって意識することなく忘れ去っているように思う。即ち射技体配は呼吸と共に我身と一体になり意識することも無くなっているのである。これは緊張などによってあがってしまい我を忘れているのとは違う。自分自身はしっかりしていて手足の先細胞の一つ一つまで気が満ちているのが感じられながら行射が終わってみると今何が起こっていたのか分からない感じ、自分ではない誰かが行射したと思わせる感じが残っている。この事実は何を示しているのであろうか。私はこの事実にこそ弓道が立禅と言われる所以があると考えている。
禅は大乗仏教の一つ禅宗であり修行方法に座禅を中心に行う。仏教では禅宗以外でも座禅は行われ基本修養とされているが禅宗でも公案により見性しようとする臨済宗と坐禅そのものが目的であり、坐ることに集中する只管打座を唱えた曹洞宗がある。
私は弓道における禅を考えた時に只管打坐の方がより感覚的に近いのではないかと思っている。

さて、大乗仏教において最も親しまれている経の一つに『般若波羅蜜多心経』がある。お寺に参詣したさいに写経を行った経験の有る方も多いだろう。『般若波羅蜜多心経』は略して『般若心経』と親しみをもって言われるが、空を理解する知識と言い説いても良い。私の手元に一冊の薄い本『生きて死ぬ知恵』(柳澤桂子著 小学館発行)がある。著者は国際的活躍を期待されていた理学博士であったが難病を発症し闘病を続けながらサイエンスライターとして活動している。その彼女が自身の心境を『般若心経』に写し訳したのがこの本である。もともと仏教は因果の教えと言われるくらいだから難解な部分もあるが丁寧に解いていけば分かるのであるが、この本は著者の科学者としての感性と言葉が『般若心経』に非常にマッチして納得しやすい訳となっている。
今、柳澤氏の訳を借りて『般若心経』の大意を表してみる。
宇宙に存在するものの構成要素は全て実体がない。これが「空」ということである。宇宙は実体がなく粒子に満ちているが時々刻々変化していて実体というものがない。実体がなく変化しているからこそ物質であると言える。私たちは宇宙の中で粒子でできていて他の粒子と一つづきだ。だから宇宙も「空」で実体のない私たちと宇宙は一つだ。

阿波研造、安澤平次郎の教えに戻ってみよう。
阿波研造は「真の的中というのは、圓心法、直体整形法、錬技法などの修行を経た上での、無発大團圓をいう。射における大團圓というのは、射中の自己を中心に、天地宇宙に大波紋が充満した時をいう。さらにそれを進むと、俗界から離れて射の妙境に入る。これが正覚であるとともに、自分の振舞はすべて大自然と合致し、天地一枚の境を現わしてくる。これが無発統一の境である。」(桜井保之助著「射聖阿波研造-天地大自然の代言者」)と言う。
安澤平次郎は「円成無発の射と振込の射」として「射法、射の運行は円成-宇宙と瞑合(深く合一)してただ円成(まどかに成立、完成)-した伸展のみで止まるところを知らなければ、無発で、しかも発の機が熟成される。これを円成して無発の発の境地から打ち出された射という。一方、放れの機を作り、的中を求めるとき、伸展は有限となる。これが振り込みの射である。」と『大射道』で表している。(射の道について 国際化時代の弓道を考える 阿波研造遺文をめぐって 桜井保之助「弓道」)

結論
阿波研造は儒学や道教、大乗仏教を学び自身の射を「大射道教」として創始してゆくなかで自己と宇宙との統一という思想が形成された。弟子の安澤平次郎もその教えを引き継ぎ「無発の発」の境地を切り開いたと言える。
私たちは現代社会において自己と他という二元的思考視点で物事を理解することに慣れているが、『般若心経』に説かれているように宇宙という実体がなく粒子で満ちているものだという一元的視点に立てば実は宇宙と自己は一体だという事が理解できる。
射に於いて身心弓の合一を図り気合の充実とともに無念無想のうちに離れが生まれる。それは真実であろう。しかし、安澤平次郎の「的と一枚たるところに「無発の発」というのが存在する」「円成無発の発境にて-中略-「「的と自己」との対立は解消し彼我一体、絶対の境地」という言葉から「無発の発」を一元論的に理解するならば、我は弓であり我と弓は宇宙の中で一体としてある。弓と一体となった自己は同時に的とも一体である。離れも中りもなく我も的もない。その意味において「無発の発」は「自然の離れ」をはるかに超えたものとして存在している。
そして「無発の発」の射をもって私たちが宇宙との統一を試みた時、それは宇宙の一部ということではなく自己と全宇宙との統一が予定されるのである。

おわりに
今回、『弓道』誌掲載の八段の部審査論文に刺激を受け、私なりの試論を試みた。八段の境地にははるかに遠く及ばない身であるから頭だけの言葉だけの試論であることは十分承知である。ただし、この試論を書くにあたって弓道教本その他の書物を読み返したりしながら考えを整理することは出来た。こうした作業が普段の練習や道場での仲間との関係に必ず役立つものと信じている。とはいえ、何年か後私が審査論文で「無発の発について述べよ」と課題を出された時にこの文章を読んでどんな苦い顔をして冷や汗をかいているかと思うと恐ろしい気もする。先輩弓人のご指導を頂きたい。

テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ