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杣人yumi

Author:杣人yumi
弓道と楽しく向き合う杣人の弓道ブログ。お気軽にお立ち寄りください。

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読書

練習で少しづつ良い感触を得てきたのだが、肘を傷めた。しかも左腕の肘。打ち起こして引き分けてくるまでは問題はないのだが、離れて残心となると痛みが走り弓倒しが出来ない。マッサージをしたり湿布をしたりして痛みを和らげるのだが、すっきりと直ることは無い。サポーターをして練習を続けたが症状は悪化する一方なので思い切って練習を休むことにした。傷めた肘をかばいながら引いて変な癖を付けるのは避けたい。
肘の故障は弓の練習が原因ではない。スポーツジムで筋トレをすることがあるが、そこでいためたものと思われる。体の様子を確認しながら練習しているつもりだったが落とし穴があったようだ。
道場で練習は出来ないし素引きも無理だが、ストレッチに使うゴムチューブを使いゴム弓のように引き分けから離れまでの練習をする。呼吸を付けるから家の中での練習はこれで充分だ。

練習が出来ない時にも弓の事は頭から離れない。図書館から本を借りて読むことにした。

『弓道研究 正法流精義 正射のための射士論考』
弓道研究 正法流精義 正射のための射士論考弓道研究 正法流精義 正射のための射士論考
(2014/02/19)
吉田レイ、寺田隆尚 他

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吉田能安先生の本は『正法流入門 弓の道―武道としての弓道技術教本』『正法流 弓道いろは訓―吉田能安先生の教え』を読んだが、『弓道研究』は未読だったので図書館で借りられるのは嬉しい。

続けてケネス クシュナーというアメリカ人が書いた『一射絶命―禅、弓道、そして日々の行』も借りる。ハワイのホノルルにある超禅寺という禅寺で精神医学を学ぶ青年が禅と弓道の修行に接し鎌倉の閻魔堂でも修行を続けた体験を書いた本だ。本が出版された当初、一射絶命というタイトルが大げさに思えて購入しなかったのだが、読んでみるとなかなか良い。

一射絶命―禅、弓道、そして日々の行一射絶命―禅、弓道、そして日々の行
(1997/02)
ケネス クシュナー

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さらに続けて小沼 英治範士による 『英文版 弓道 - Kyudo』も借りる。英語版の弓道指導書といえば、全弓連が出している KYUDO MANUAL Volume 1 があるが、私の記憶では小沼英治先生の本のほうが早く出版されていたのではないかと思う。今回 『英文版 弓道 - Kyudo』を借りてはじめて読んだが、内容はとても親切だ。弓道の歴史、文化的視点が解説され、射法八節、射技が説明されているが、分かりやすい英語だ。矢飛びと引き癖の関係が整理されていたり、失の処理が図解で説明されていたりと先生にすぐ教えてもらえる環境にない外国の人がこれを読めば分かりやすいだろうと思う。英語で書かれているから外国人向けだと思うのではなく、日本人も読んで参考にしてみるとよいだろう。高校生などこれ一冊読めば弓道への理解と英語の本を読む達成感を得て一石二鳥だろう。

英文版 弓道 - Kyudo英文版 弓道 - Kyudo
(1993/01)
小沼 英治

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図書館で借りた本は『弓道 その歴史と技法』 松尾 牧則著、『弓道その魅力』岡村 豊太郎著と他にもあるが、『一射絶命』にも出てくる『弓と禅』を読む。オイゲン・ヘリゲルの有名な本だが、私は1987年に改版第6刷を1300円で買っている。弓を始めて一年目で読んでいた。この本で日本の弓道を知る外国人が多いと聞くが、武道としての弓道、禅を体現する弓道を経験することが出来るだろうか。私自身を振り返り反省し心を引き締めなければと思わされる本だ。

弓と禅弓と禅
(1981/11)
オイゲン・ヘリゲル

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弓道に関係する本は様々で弓道教本から始まって多くの先生が優れた本を書いている。それらの本を読み、自らの練習と比べて反省するのも良いことだろう。それぞれの人にそれぞれの弓道がある。本を通じて先人の経験、考えに触れるのも自分の弓道を豊かにする道だと思う。

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テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

狙わない練習 続

先日から狙わない練習を続けているがやはりなかなか難しいものである。巻き藁でその日の練習のテーマを心に思い描きながら20分ほど練習し、その後的前練習に移る。最初は座射、入場から体配をつけて一手を行うようにしているが、これだって呼吸の確認などをしていると頭の中が思考でいっぱいになる。そして立射での的前練習になるが、課題を意識しながら練習をしていると次第に中りがついてくる。すると課題を意識しながらも中ることを欲するようになる。試合のときのように“中てるぞ”とか“中れ”と思って離すわけではないが、“こうすれば中るだろう”とか“中って欲しい”という気持ちがあって、中るように引いている自分がいる事が分かる。狙いを直したり弓手の手の内を操作してみたりと忙しい事をしている。

先日先生の許しを得て、一緒に練習している人の形を直した。すぐ矢は的に向かってまっすぐ飛ぶようになり、小柄な女性で弱い弓なので、別の人が狙いをすこし上げるように言うと、矢は的の中心近くに中った。私は直すべきところを伝えると付きっ切りにはならず、本人の練習に任せるようにしている。女性は私が指摘したところは意識して練習をし、矢飛びも中りもすこしづつ良くなっていった。しかし、しばらくすると射が形だけになっているのが分かった。直すべきところを指摘した当初は一生懸命直そうとするので、射に気持ちが入る。しかし修正が上手くいくと今度は同じ事が出来るようにしようとし中りを判断の尺度にし、結果中りを意識するようになり、射が形だけの止まったものになってしまうのだろう。

私は女性に「中りは結果であり、的のその先まで飛ばすことをやろう」と伝えた。周りにいた人に「哲学的だな」と笑う人もいたが、私は決して哲学や禅問答をするつもりはない。もちろん的がある以上それは中るためにある。だが、中れば良いという事ではなく、中りの内容が問われる。的に中ってそれで良いならそれは終わった射、終わった矢ということだろう。私は活きた矢が的に中り、さらに活きていることを求めている。中りのその先にあるものは何だろう。自分から離れて飛んで行った矢がどこまで飛んでゆくのか見てみたいと思う。

人にそうゆう指導をつける以上自分もやらなければ口先だけの人間になってしまう。自分の練習で、会でしっかり納めたら中てることも離れることも考えず、両肩根を左右に開き続け弓手をひたすらまっすぐ押していった。そのとき私は的を狙っていなかった。ぼんやりと的は見えているが的は重要ではなくなっていた。そして矢は離れ的に中った。

いつも上手く出来る訳ではない。それでも的を狙うのではなくまっすぐ押し開いて離れがおきた時に感じる何かを探して練習を重ねてゆきたいと思うし、そうゆう練習に私を向かわせてくれる道場の仲間に感謝したい。


追記)
審査を受けるとき、私たちは適当には引かない。“このぐらい引けば的に中る”とか“こう引けば綺麗に離れる”などと余計なことは考えないで一生懸命に行射する。中には練習を思い出しながら引く人もいるかも知れない。緊張してどう引いたのか分からないという人もいるかも知れない。だが大抵の人は、精一杯の射をしようと集中し一生懸命に引く。
練習ではどうだろう。色々と注意点を確認しながら引き矢数をかけ反復練習をして体に覚えこませようとする。もちろんこれは大事なことだ。だが、ある程度その日の練習が積み上がってきたら、一生懸命になる練習をしてみることも大事だ。一生懸命になることに集中すると技術的なことは頭から離れ、仕舞いには自分自身の姿も薄くなる。この一生懸命に集中する練習こそが私たちに弓道の何かを教えてくれるのではないだろうか。