プロフィール

杣人yumi

Author:杣人yumi
弓道と楽しく向き合う杣人の弓道ブログ。お気軽にお立ち寄りください。

カテゴリ
カレンダー
10 | 2014/11 | 12
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
FC2カウンター
Google
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

練習の楽しさ

1週間ぶりに道場に出かけた。所用が重なって練習が出来なかったのだが、その間に季節はますます冬の様子を深めてきている。雪こそ降らないが、当地は空っ風が強く、道場に吹く風は冷たい。

練習が出来ないでいた間もイメージは持ち続けていたから、すぐ的に立ち練習を始める。しばらくすると道場整備の時間になったので、弓を持ち歩き方から体配の所作を練習する。動作と呼吸が乱れることなく合っているかの確認。意識することなく出来るようになることが肝心だが、練習は意識しながら。この動作の時にはどうゆう呼吸をしているのか・・・と確認する。歩きながら呼吸がきちんと腹に落ちているかをみるが、なかなか難しい。練習が必要だ。

的がかかると、練習再開。大三にもって行く時、大三から会に入る時の肩の使い方を意識し、会でちゃんと肩から押せているかを確認する。弓手を感じないくらいに押せていれば肩の位置も正しいのだろうと思うのは前回書いたとおり。弓手の研究はその先にあると思っている。
次の練習は腹の有り様。引き分けてきて会になり、肘肩が伸びてゆくとき、腹はどう使っているのだろうか。呼吸はおちて収まり、体の中心として働いているだろうか。会でそれを確認する。腹を感じ腹を忘れ、肘肩が伸び開き肘肩を忘れてゆく。会で腹を意識していると自然と会が長くなる。深い会になるかどうかは腹の収まり具合だろうが、その端緒にはつく事が出来るはずだ。だが発が来るというのはどうゆう事だろう。そこはまだあまり意識していない。ある教士の方が講習会で「発が見える」と指摘され考え込んでいたのを思い出した。

左肩と腹の練習を続ける中、時々矢飛びの弱いのが出てきた。的の6時に矢が行く。体が慣れてきて伸び合いがいいかげんになっているのだろうか。そう反省し的のその先を意識するようにする。飛中貫で言えば貫くなのだが、まだまだそんな大それたことは言えない。それでも、中りのための的ではなくなったのも確かだ。

今日の最後の練習は、勝手の飛び。実はここまで勝手の飛びを考えないでいた。意図してのことだからいいのだが・・・。
残心は自然な離れから生じる無作為のものでなければいけない、というのは理想のこと。練習では残心での勝手の飛びはイメージしておく必要があると思っている。肩甲骨が開き胸が割れたとき、弓手と勝手はどこに飛んでいるのか。離れが出ればそこにあるだろうではいけない。結果をイメージしそこに近づける方が練習としては正しいアプローチだ。何回か練習しているうちに、勝手の飛びが軽くなり、弓手にもいい影響が出ていると思えるようになった。手ごたえを感じる。

今私は一回の練習に長い時間を使うことが出来ない。せいぜい2時間半だ。気合や体の調整のため休憩もいれる。だから射位に立つときは今何を練習しているのかはっきりとした目的意識をもって臨む。一射一射今何が足りなかったか、何を忘れてしまったかを反省する。そして、出来たことを次回の練習につなげる。その繰り返し。

今日も練習は楽しかった。
スポンサーサイト

基本ということ

先日久しぶりに道場で会った女性に「きれいに引き分けていたね」と言葉をかけたら、以前どう引いていいか分からないくらい落ち込んでいたときに「基本に帰るのが大事」と私が言ったのを励みにしたと返事があった。嬉しいのと同時に、相変わらず同じ事を自分は言い続けているんだと思った。

時々「どう引いていいか分からない」とか「以前はどう引いていたっけ」という言葉を聞くことがある。何かをきっかけにこれまでと違う悪さが出たり直したりしているうちにますます迷路に入ってしまう事も多い。道場で仲間と練習しているときや親切な先輩がいたりすると尋ね教えてもらう人も多いことだろう。それは悪いことではない。ただし何かを直すとき部分的に気になるところを直してゆくことが多く(手の内を直すとか胴造りを直すとか)、切り張りのような修正になってしまい、結果的に直したつもりでも長続きしない事が多いようにも思う。
もともと自分で納得しないと人から聞いた言葉も素直に受け止めることをしない性格だから、先輩に教えられてもそれはどうしてだろうとまず考えてしまう。だがそれも悪い事ではない。無条件に人の言葉を信じるのではなく基本に照らしてみてどうなのかと考えるからだ。ではその基本とはなにか。

武道は心の働きに即して体が自由に動くように鍛錬する。心の働き(心気の働き)の無い動作は抜け殻の空疎なもので見ていてもそれははっきりと分かる。体の働きは合理的で無駄の無いものであるようにするが、それを整理していったものが型であり弓道では射法八節である。つまり体の働き動作だけに関して言えば、基本というのは合理的で無駄の無い動きと言う事が出来る。
では無駄の無い動きとはどうゆう動きか。一言で言うならばよけいな事をしない動きと言ってよいだろう。
たとえば、弓手で弓を運ぶ時、打ち起こしから大三、会と進むにしたがって弓はひねられてくる。それは弓の運行と形の変化によって生ずるものであって決して弓手でひねるものではない。弓を持つところを握りというが、弓手で弓を握ると運行から離れに至り、弓が復元するまで弓の働きを阻害することにつながる。弓は握ってはいけない。会にあっても肩根から押せていれば弓手は受けるだけで力を抜いていることが出来る。逆に言えば会で弓手に力が入っている場合は正しい肩根の働きが出来ていないという事である。

このように体の使い方のあらゆるところで弓を引くのに必要のない無駄なことをしていないか、邪魔になることをしていないかを考えてゆく。シンプルで道理の伴った動きを基本の動作と言っていい。

数年前、教錬士会での講習会だったと思う、範士の先生方による講話を聞く機会があった。ある先生が、「錬士になった六段になったといって、階段を登るように上手くなるものではないし、錬士の練習六段の練習というのがあるわけでもない。山を登り、次の山に登るときには一度ふもとまで下りなければならない。弓道も同じ。いつも基本に返ることが必要だ。」という話をされた。この話はすとんと私の腹に落ちて忘れられないものとなった。それと同時にならば技術を求めるより基本は何かをいつも考え求めていればいいのだと自分で納得し心に決めた。

一年近く弓を引けない状況にあったときも頭の中で基本は何かを考えていたし、先生の言葉を思い出してその言葉の意味を考えていた。
道場に戻り、弓に触れることの幸せを感じながら、私は基本は何かを探す練習をしている。

テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ