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杣人yumi

Author:杣人yumi
弓道と楽しく向き合う杣人の弓道ブログ。お気軽にお立ち寄りください。

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弓を休む

 弓道をしていると忙しい。毎日の練習や連盟の例会、連盟が所属している地区の例会、各種射会。さらに講習会や審査と、スケジュール表の週末は弓道関連の行事で埋まってしまう。家族の理解と協力がなければ続けられるものではない。健康で経済的に安定した生活が送られること、家族の理解があること。これが弓道を続ける重要な要素であると思う。弓道を本当に続けたいと思ったら、仕事をし家庭もおろそかにせず、心置きなく弓を引ける環境を自分で作るよう努力するのも大切な修練だと思う。
 家族の理解を得るには、弓道を見てもらうのが良いと思う。試合の見学や練習している道場を見てもらうことで、理解は深まるだろうし、道場の人たちと挨拶することで、安心もするだろう。各地の神社ではお祭りにあわせて奉納射会も行われるから家族と連れ立って出かけ、地域で活動している流派の射を見学したり、出店での買い物を楽しんだりすることも出来る。地域の故事にまつわる射会などもあるから、家族に弓道を知ってもらう良い機会である。

 
 長い弓道生活のうちには、どうしても弓を引くことが出来ない時期もある。仕事の都合で忙しくなったり転勤したり、また、結婚して生活環境が大きく変わったり、出産と育児という問題もある。そういう弓を休む時に、どう過ごすのかは各自の問題であるが、工夫して続けている弓人もいる。先輩の思い出話に、道場に乳飲み子を連れて巻き藁台に紐でしばっていたなんていうのも聞くが、仲間の理解があっての話だろう。私は道場に赤ちゃんがいても気にならないし、みんなでお世話すればいいと思う。弦音を聞いて育てば良い弓引きになるだろうなどと勝手な想像をするのも楽しい。だが、現在の公営道場では難しい事かもしれない。


 私にも仕事の都合で弓を引くことが出来なかった時期がある。道場に行くことが出来なかったのに加えて、弓に触ることが出来なくなった。庭に巻き藁もあり、練習しようと思えば出来ないこともなかったし、実際、巻き藁練習をしていたこともあったが、あるとき、弓と会話をしていない自分に気づき、弓に触れられなくなったのである。殺伐とした仕事の中で、精神的に疲れていたのだと思う。私は弓を置き、弓道に関する一切、弓道誌をとることも止め、本を読む事すら出来なくなった。正直なところ疲れた心で弓に触るのは弓に対して失礼に思えたし、弓に叱られるように思えた。弓が怖かった。
 ただ、私は弓道で多くの先輩のお世話になっていたし、止める気持ちは全くなかった。なにより、弓を引く清清しさが好きだったから、なんとかして弓道の世界に戻りたかった。そして戻ることが出来た。
 少しずつ、心と体を弓が引けるように準備し、戻ってきた。幸い先輩方は今まで通りに迎えてくださったし、新しい仲間も一緒に弓を楽しんでくださっている。有り難い話である。


 様々な理由で弓を休むことがあると思う。他の趣味と出合ったり、弓道が自分に合わないと感じるようになる人もいるかもしれない。早気が直らず悩み弓を止めてしまったという話も聞くし、道場の人間関係で止めてしまう残念な別れもあると思う。それは、それぞれの人が経験する出会いであり別れだから、他人が口出しできる話ではない。
 ただ、休んでいるときに、もし心の中に弓を思い出すことがあるのなら、自分にとって弓道がどうゆう存在なのかをじっくりと落ち着いて考えてみる事をお奨めする。試合が楽しい人、審査を受けて段位を取りたい人、道場で仲間と練習したい人、いろいろな楽しみがあるが、貴方にとっての楽しみはなんであろうか。そしてどのような弓道人になりたいのか。そんな事をしっかり考えると良いと思う。弓道を再開したとき、その思索の有る無しによって、大きくその後の弓道が違うと思うのである。
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テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

審査を受ける

  【はじめに】
 審査は、日ごろの練習の成果を見ていただくもので、実力と可能性を評価していただくものである。上手に引いたり、的に中てて「これだけのことができます。レベルに達しているから何段をください」といって臨むものではない。 そもそも審査員の先生は、経験も眼力も高く、受審者がそのときだけつくろっても看破する。また、的に中ったからよしとするものではない。もっとも、中らなければ合格させたくても○のつけようがないので、狙いは確実にする必要があるのは当然である。 審査にあたっては、「これが今の自分ですからどうぞ見てください」という謙虚な気持ちで臨むのがよい。


  【澄まし】
  審査の準備として最も大切なのは「澄まし」である。射場に入る前の不安や気負いを取り除き、あるがままの自分を静かに現ずることが重要である。そのためには、道具の準備、服装、学科試験の準備などをきちんと確認することが大切で、チェック項目をつくり心に思い残すことの無いよう準備する。不安や準備不足があっては射に集中できないし、なにより、出来ることをやらずに審査に臨むのは不遜であり油断でありもったいないことである。


  【緊張】
  緊張は楽しむのがよい。そもそも審査に向けて練習し大切な時間と審査料を納めて受けるのであるから緊張しないわけがない。大切なのは、その緊張が「澄まし」とともにある静謐とした良い緊張であるかどうかであり、不安や準備不足からくる緊張であってはならない。適度な緊張のなかで引く射は漫然としたものを排し凛ととしたものを現ずる。 緊張からか受審者どうしでおしゃべりをする者がいるが、これは厳に慎まなければならない。気が乱れて射に影響するばかりか、相手はもとより周りの受審者にも迷惑である。挨拶をしたら、静かに黙して相手からも話しかけられないようにするのがよい。


  【体配・行射】
  射技審査は入場から始まり退場するまでが対象で、逐一見られている。体配の一足一呼吸をおろそかにしてはならない。審査員は射手が息合いで体配をおこなっているかを自ら呼吸をあわせて審査するほどである。審査会場でいきなり出来るものではないから、日々の練習で身に染込ませるのがよい。動作一つ一つは呼吸にあわせ、「決め」をつくり審査員に見てもらいわかってもらうよう心がける。慣れた動作だからといって漫然と流れてしまうとだらしなく見える。 一つ一つの動作に残心があると理解したい。行射では「中てたい」「上手く引きたい」といった気持ちを持つのは仕方のないことであり、欲のないところに工夫や上達はないから、この気持ちはこれでよい。ただ、気持ちにとらわれると汚い射になる。審査ではこのような気持ちを出来る限り腹の底にしまって何も考えないようにするのがよい。 何も考えないというのは、欲を抑え迷いを捨てることである。射法八節にのっとって、足踏みからはじまり、手の内の具合や弽の具合、引き分けでの力の配分、会での詰め合いと伸び合い、と確認しながら引くのがよい。射手が心の中で確認しながら引くと審査員の確認と呼応し、審査員に「わかって引いているな」と伝わる。体配での「決め」(残心)と同様である。高段者・称号者の審査ではその確認がどれほど身に備わって意識下に沁みているかを見られる。高段者になってまで、“私はここを確認していますよ”などと引いているようでは情けない。晴れの舞台である。踊るように引きたいものである。


  【失】
  準備をし、注意をして行射しても、時として筈こぼれや弦切れをすることがある。このような「失」のときでもあきらめてはいけない。「失」をしたら正しい処置をすることが大切で、審査員は処置が正しく行われているかを審査する。なにより、射手が「失」をしたことであきらめてしまうということは、自ら放棄したことであり、審査を受ける態度ではなくなる。退場するまで精一杯のことをするのが誠をつくすということである。 「失」ではないが、甲矢が的に中らなかった場合も同様である。「失敗した」「残念」といった気持ちは態度に表れるとともに、乙矢にも影響する。心の底にとどめ、一箭に集中することが大切である。


  【他の射手の失敗】
 行射では、大前の先導にあわせ射手どうしが呼吸を合わせることが重要である。しかし、他の射手が体配で間違った場合にはこれに合わせる必要はない。呼吸が合わないまま急いで進まれたり、揖をせず射位に進んだり、本座や射位を大きく間違って座った場合には続く射手はこれに習う必要はない。ただし、同じ立ちの調和を乱す事のないよう心がけなければならない。 どのように修正するかも大切なポイントである。高段者の審査でも、肌脱ぎをせずに本座から射位に進もうとしたり、弓を立てるのを間違ったりすることがたまにある。普段の練習を通じて体が自然と動くようにしながらも、意識して確認するようにするとよい。また、他の射手の失敗にもあわてないよう心の余裕を持つことが大切である。


 【学科】
 学科試験は普段から、『弓道教本第1巻』をよく読んでいれば問題はない。射技や体配についての問題にも、普段の練習を思い浮かべながら、教本に書かれていることを思い出して書けばよい。ただ、独自の理屈や意見を書くのはいけない。教本に教えられていること、キーワードを用いて回答するように注意する。
 以前は、『弓道誌』に学科問題が掲載され模範的回答が紹介されていたが、最近は無い。復活を望むところだ。受審者どうし先輩などから情報を集めると出題傾向が分るから、事前勉強をするのも大切である。勉強する際には、問題と回答を何回も紙に書き、書いたら音読するようにする。これを何回か繰り返すと手と耳を使って記憶する事が出来、効果がある。筆記具も試験と同じように鉛筆を使う。


 【まとめ】
 審査は弓道の修練を重ねてゆくための重要な節目である。自分と向き合う武道であるから、段位が高くなったから称号をもらったからといって、他の射手と比べて勝っているわけではない。段位には段位に応じた射があり、それを精一杯行い、自分に目標を課しているかが大切で、その節目に審査を通じて確認していただくのである。 審査は段位や称号をもらうために受けるのではなく、普段の練習の成果、将来への可能性を見ていただき、評価をいただくものである。その意味においても、気負い勇むことなく、ありのままの自分を見ていただくという謙虚な気持ちと、精一杯のことをするという礼を尽くした姿勢が大切である。審査員は、決して落とすために見ているのではなく、射手のよいところを見たいと願って審査している。これに応える意味でも、至誠の心を肝に銘じ、体配行射を行い、悔いのない、自らに恥じることのない審査を受けていただきたい。

テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

十牛図 円相について

ある勉強会の席で円相について話題になった。
いわく、「円相という言葉が弓道教本に出ているのは執弓の姿勢に関してであり、弓構えで円相という言葉を使うのはよろしくない」というもの。私はこの考えに違和感を覚える。
理由として、まず“本に書いてあるのが正しくて書いていないから違う”という趣旨の発想は自らの思考研究をとじるもので、いかにもお粗末なものだと思う。本に書いてあろうがなかろうが、基本にたちかえり正しければ、大いに研究議論するのがよろしい。そこから新しい発見があり発展が生まれる。
つぎに、“執弓における円相”の姿形は筋肉の働かせ方、気構えのありようの両方において、執弓にとどまるものではなく、射場への入場からはじまり、行射の運行、退場にいたるまで続いているものである。円相も続いているのであるから、弓構の場面で使っても問題はないと考える。
さらに、“円相”とは見た目の姿形のことだけではなく、心のあり様をも言い示す言葉である。そう考えてゆけば、“円相”は弓道のすべての場面で使ってよい言葉とであると言えよう。

以下、十牛図を手掛かりに円相について考えてみた。
「杣人のNuages」に書いたものであるので、そこにリンクしてある。


弓道・・・円相・十牛図に学ぶ 2010.3.5

弓道・・・円相・十牛図に学ぶ (その2) 2010.3.6

弓道・・・円相・十牛図に学ぶ (その3) 2010.3.6

弓道・・・円相・十牛図に学ぶ (その4) 2010.3.7



テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

メンタルトレーニング

 メンタルトレーニングへの理解は最近のことで、スポーツの世界ではオリンピックを通じてロシアや東ドイツの選手の活躍によりアメリカやカナダのチームがメンタルトレーニングを取り入れたといわれている。日本では1984年のロサンゼルスオリンピック以降選手やコーチによる個人レベルでの導入が始まりである。最近試合の実況中継などでイアホーンをしている選手を多く見るようになったが、「なんだ、大切な試合の前にたるんでいる。集中しろ。」とは思わないで欲しい。これも重要なメンタルトレーニングの一つで、選手それぞれが緊張を解き競技に集中できる方法を試しているのである。
 では、メンタル(心)をトレーニング(鍛える)するというのはどうゆう事なのか。


 【心】
 心の探求は人間にとって古くからのテーマである。魂や霊魂と同一または呼応するものと考えられ宗教的に把握しようとされたり、行動現象を心の働きによって捉える心理学的理解、近年では脳科学や神経学の発達から心を捉える試みがされている。確かに脳神経による認識や感覚、感情の発生などは心と密接な関係があるといえるが、まだ医学の領域は蓋然的で哲学的アプローチによる理解が必要だと私は考えている。
 心に対する様々なアプローチは心も少なからず肉体と同じように捉える事が出来、理解出来る事を明らかにしてきた。脳神経の研究、薬物治療の研究は心の問題に多くの発見をしているが、重要なのは自分自身でコントロールしトレーニングすることが出来るという事である。実は、私たちは心のコントロールをごく自然に行ってる。笑ったり泣いたり怒ったり・・・これら感情はとても自然な心の調整で、意識的に感情を表出すれば心を動かせるという事でもある。笑って過ごせば幸せになるし、何時も怒っていれば怒りっぽい人になる。時にはわざと泣いて(映画や本を読んでもいい)悲しい気持ちを吐き出させたりもする。心はコントロールすることが出来、コントロールの積み重ねがトレーニングにつながっていくのである。


 【平常心】
 武道では心・技・体の完成を求められ、弓道でも三位一体、身体の安定、心気の安定、弓技の安定が合一して一体となることを修練の眼目としている。では心気の安定(心志の安正)はどうすれば求めることができるのか。よく言われることに平常心がある。試合には平常心で臨めというように、普段の状態の心をさして言うが、怒りっぽい人や気の弱い人の平常心はこれでいいのかというとそうではないであろう。平常心とは常に平らかなる心と理解するのがよいであろう。私は、ニュートラルな心を作るようにと言っている。さらに言えば自然体の心なのだが、喜怒哀楽のどちらかに偏るのではなくニュートラルであれば心は自由で、感情や思考、周囲の状況に支配されることが少なくなる。
 たとえば、嬉しい事があると心は嬉しいと感じその感情を表出しようと働く。この時もし怒っていたら嬉しい事を感じるのに怒りの感情は障害になる。怒りながら食事をしても美味しくないのは、怒りが美味しいという感覚にブレーキをかけてしまっているからである。弓道で言うなら、射の不安は練習で培った自信や中てようという気持ちにブレーキをかけてしまう。もちろん、これを乗り越えて中てるということが大事だが、基本は不安を感じないことである。
 ではどうすれば不安を感じないようになるのか。これには二つの方法がある。一つは練習によって中る実績、経験を心に記憶させる事、もう一つは中てたいと思わない事である。一つ目は自分に安心感を持つことである。実績に裏付けられた自信は安定した心を作る。「勝ち癖」などもこれにあたり、勝った事、ポジティブな記憶は不安を退けプラス思考の連鎖を作る。では“中てたいと思わない”というのはどうゆうことなのか。実は中てたいという思いは、中らないかもしれないという気持ちを反対側に持っている。この心の振幅が不安を作るのである。だがら“中てたい”とか“上手に引きたい”という思いを捨て、やるべき事を丁寧にやって弓を引くのが不安を生まない技だといえるのである。


 【心のキャパシティー】
 では中てたいという気持ちは弓道には必要ないのか。よく的にとらわれるなとも教えられるから、中りを望まなかったり、中る喜びを感じないのが良いのであろうか。私はそうは考えていない。逆に最大に欲張って“中てたい”と思う事が大切で、自分が欲張ったときに生まれる心の変化や不安をしっかり見極める事が重要だと考えている。自分の欲や不安を知れば、それを排除する方法を知ることが出来るからである。
 私は審査や試合でほとんどあがるということがない。もちろん少し緊張はするが、どきどきしたり不安になったりといった事は感じない。これは私が人前に出ることに慣れていること、やるべき事をやるだけと腹をくくっていること、そして弓を引けることに感謝しているからである。健康で戦争や災害など個人の責任を越えた環境によって生命の危機にさらされているわけでもない。少々失敗したとしてもそれによって命を奪われるわけではない。そう思うと弓を引ける幸せに感謝し、自分のやりたいように伸び伸びと弓を引くことが出来る。
 そんな私でも練習での心は何時もぐらぐらしている。仕事や生活の様々なことを引きずりながら射がばらばらになっていることもあり、心の中にざわついたものがあってどうしても取れない時もある。そうゆう時は練習に集中し心を見続けるしかないと自分の未熟さを反省するばかりである。
 心気の安定(心志の安正)は大変難しいテーマである。無の境地などを言い「弓道は立禅」という表現をされることもある。だが私たちは人間である。身の回りのことに気を配り、感じ、感動していいと思うし喜怒哀楽を楽しんで良いと思ってい。その結果様々な感情に揉まれるかもしれない。だが、それを受け入れる大きな器を心に用意し、右往左往しながらも翻弄されることがなければ、感情の起伏は些細なことになってゆく。この心のキャパシティーを徐々に育てて行くことがメンタルトレーニングではとても重要であると私は考えている。

テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

トレーニング

弓道の練習は週に何日ぐらいするのだろうか。私が20代の頃には毎日のように練習をしていた時期があり、年末に手帳を見たら363日道場に通っていたのを知って我が事ながら驚いたことがあった。さすがに現在は週3日ほどだが土日には月例会や射会などがあり、その前後は矢数をかけている。私にとっては適度な練習量である。
 大学の弓道部のように試合で中る事が必須である選手、社会人で国体選手に選ばれた方などは別としても、弓道は個人での練習が中心であるから、時間に余裕がある方はその気になれば毎日のように練習をすることが出来る。練習量は本人次第なのである。ある範士の先生が「会社勤めをしていたころに朝出社し仕事前に20射、昼休みに20射、仕事を終えてからの練習で20射と毎日60射を練習していた」と講習会で練習の大切さを説いていたが、それも志と環境があってのことだろう。以前は弓を引きたいので学校の先生になったとか公務員になったという話を聞いたことがあったが、今、教師や公務員の仕事の忙しさを思うととてもそうゆうことは言えない。
 練習量は上達の要である。だが練習量を維持するためにはスタミナと筋力が必要である。では弓道の上達のためにはどのようなトレーニングが必要なのであろうか。トレーニングについて考えてみたい。


 アスリートは不健康
 アスリートは不健康だと言ったら驚くだろうか。世界的記録を目指すスポーツ選手、トップアスリートと呼ばれる彼らは時に英雄として讃えられ、その姿には感動を覚えるし尊敬をもって競技を見る。もちろん立派な成績の蔭にはしっかりした練習の積み重ねがあるのだが、彼らの肉体は試合やレースに勝つために調整され徹底的に作られたもので一般的に言う健康な肉体というのとは違う。マラソンの選手はフルマラソンが走られるぎりぎりの肉体とスタミナのコントロールをするし、体操の選手は疲労骨折への不安を抱えながら練習し、女子の選手はホルモンバランスが崩れることに注意しなければならない。競技の日に向けて体を仕上げながら精神のバランスを保つことにも注意をはらわなければならないからメンタルトレーニングはトップアスリート必須の課題である。 
 私は健康維持のためにスポーツジムに通っている。あくまで年齢に応じた運動を心がけているが、それでも時として体を絞りすぎると疲れやすくなって昼寝が必要になったり、栄養補給に食事の回数が増えたりする。健康な体と疲れやすい体の境界は近接していて、体を維持するためには注意とメンテナンスが必要不可欠である。スポーツトレーナーなどの協力者がいなければ、普通の生活ではアスリートのようなトレーニングは困難であるし、決してアスリートが健康的とは言えないのである。
 弓道でも審査や重要な試合を目指して練習しているときには、普段以上に健康管理に気を使う。人それぞれ練習の組み立て方や本番に向けた気合の高め方など工夫があることだろう。だがそれも日常の生活を送りながらの事である。また、日常の生活とともにあってこその弓道であろうから、弓道においてはトップアスリートのような練習は弓道の本旨と違うのではないかと考えている。


 スタミナ
 弓道の練習の場合アスリートのような記録を出すための体作りというのは必要無いと考えている。もちろんトレーニングを否定しているのではない。安定した射が出来る練習量と、一日の試合と競射に耐えられるスタミナ管理、そしてメンタルトレーニングが重要と考えている。弓道では瞬発力を必要とした筋力は使わないが、体幹を鍛え維持する筋力は必要であり、集中力と緊張を自らに要求するからスタミナは重要である。体のエネルギー、スタミナというのはあるレベルを超えるとストンと切れるように無くなるから、どんなに本人が“こうしたい”と思っても一旦スタミナが切れると体は動かなくなる。集中力もスタミナの消耗とともに低下するので、気持ちと体とはかみ合わなくなり事故や怪我を起こしやすい。精神論では体は動かないのである。
 トレーニングで大切なのはスタミナ管理を知ることである。自分の体力がどのくらいあり、どれだけの練習をしたらスタミナが切れだすのか、補給のタイミングは何時か。練習や試合経験の中から自分にあった食事の時間と量を知ることが大切である。私の場合は軽い朝食を必ずとる。試合で午前中に一手引くとして午後は立ちが遅いから、たいていは一手引いたら昼食をとるようにして午後引き始めるころには消化が終わっているようにする。早弁当に見えるだろうが気にしない。少なくても立ちの1時間半前には昼食は終えているようにしている。大抵はおにぎり。米のでんぷん質は消化吸収が早いから胃腸に負担をかけない。お餅はさらに良く、まさか控え室でお餅を焼くわけにはいかないが脳の働きを助ける糖分が摂れるからお汁粉などは理想的である。ちなみにお餅100gあたり235kcal、ご飯100gは168kcal。チョコレートやお団子などの御菓子も効果的である。


 筋肉トレーニング
 筋肉トレーニングは必要かと聞かれたら、私はほどほどにと答える。筋肉は体を支える大切なもので年齢とともに落ちやすくなるから、普段から筋肉を刺激し鍛えるのは良いことだし、筋肉トレーニングをしていると怪我や事故の予防に役立つ。腹直筋や広背筋、上腕三頭筋や三角筋、大臀筋などは弓道に関係する筋肉である。しかし弓道で筋力をトレーニングするのは体幹を支え筋バランスを良くする為で、腕や肩の筋肉を鍛えたから弓が引きやすくなったり、強い弓が引けるかといったらそうではない。肩関節のインナーマッスルを鍛えるのもよいし、骨盤から脊椎につながる脊椎起立筋を鍛え、胴造りの安定を図るのも弓を引くには効果的である。骨法をいうまでもなく、筋力で弓を引こうとすると筋肉を傷め結果として弱いところを庇ってバランスを崩し射が変わってくる。高段者の方でも年齢とともに筋肉の疲労はとれにくくなる。練習量を維持したいという気持ちはあるだろうが、無理をすると弊害が出てくる。休むことも練習だと心得ることが肝心であろう。
 日常的に軽い筋肉トレーニングをするのは良いが、試合前の筋肉トレーニングはいけない。筋肉は細胞が破壊されて回復するときに増強されてゆく。普段の練習で作ってきた筋肉もトレーニングで壊され、増強の際には硬い筋肉になってしまう。結果伸合いが狂う。特に三角筋や上腕筋のトレーニングは控え、どうしてもやりたい場合は腹直筋や広背筋、大腿四頭筋などの筋肉トレーニングをするのが良い。
 私も利用しているが、スポーツジムにあるマシーンによる筋肉トレーニングは注意が必要である。マシーンで負荷をかけながらトレーニングをしているとついつい強い負荷をかけたくなる。負荷を強弱織り交ぜながらトレーニングをする場合もあるので強い負荷を否定はしないが、往々にして間違った筋肉を使ってしまうケースもあり、ジムでトレーニングをされる方はスタッフに時々見てもらい、フォームチェックをしてもらう事が必要である。慣れてきたらマシーントレーニングよりも自分の体重を使った筋肉トレーニングをするようお勧めする。
 筋肉トレーニングをした後はきちんとアイシングをして熱を冷ますことも大事である。疲労物質が溜まると故障の原因になる。
 よく誤解するのにストレッチやマッサージがある。筋肉トレーニングの後のストレッチやマッサージは硬くなった筋肉を柔らかくするのに効果があり筋肉も伸びやすくなる。しかしこれも程度の問題で、やりすぎたストレッチは筋肉に疲労を与える。間違ったストレッチをすると筋肉を痛めるから、やはりスポーツジムなどのプログラムに参加して憶えるのが良いと思う。マッサージも刺激の伝わり方が変わり、弓を引くときの筋肉の働きや感覚が変わってしまう。私は試合の3日前ぐらいからは強いストレッチや全身のマッサージはしないようにしている。


 メンタルトレーニング
 弓道は心と技とのバランスが大切だと考えている。アスリートのメンタルバランスにも通じることであるが、弓道では心気の働きによって体が動き射が活きてくるのであるから、心を知る深い洞察が必要であると考えている。自分の心の中を読み、整え、心を働かせるトレーニングが必要である。
 弓道におけるメンタルトレーニングについてはページを新たにして考えてみたい。


テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

澄まし

 射を行うには、気構えが必要である。これを澄といい、三つの場合がある。実射にうつる以前の澄を「前の澄」といい、短くいえば数分または数時間、長くいえば数日或いは数ヶ月前から潔斎するとか、道場内で態度精神を整え落ち付けることであり、実射の時の澄を「中の澄」といい、最も心身の調和統一のとれた状態である。射終わって退場するまでを「後の澄」といい、やはり態度気構えを乱してはならない。そして前後の澄は狭義には射の前後の場合であるが、広義に解すれば、日常の生活にもこの澄が必要なのである。ここに「射即人生」の意義がある。(教本2巻p53千葉胤次範士)


 行射に際しては、美しく整った正しい姿勢で臨まなければならない。弓矢を手にした執り弓の姿勢が先ず第一に凛然たる姿であり、内心を正しくして射位に立つことが肝要である。そして、行射の進行につれて三つの澄しを忘れてはならない。執り弓の姿勢で控え、射位に至って跪坐するまでは初めの澄しであり、足踏みから弓構え・打起し・引分け・会に至るは中の澄しであり、心身ともに十分伸合って遂に自然の離れを導き出し、弓倒しを終り、退坐するまでを後の澄しと考えるのである。かくの如く、外は体姿従容として迫らず、内に精神の澄しが伴って射が行なわれるところに、弓道としての真髄がある。(教本3巻p27高塚徳太郎範士)


 いきなり、教本から「澄まし」について引用紹介させていただいた。審査の学科試験で「心を澄ます方策について述べよ」という設問があり、私はこの問題に少々悩んでいるからである。学科で「澄まし」が出題されると、上記の千葉範士、高塚範士の教えを記することになるが、実は設問は「方策について述べよ」であり、教本には方策については記載されていない。「射における澄ましの重要性と三つの澄ましについて」というような設問なら教本の内容でも良いのであろうが、方策を問われた場合にどう回答するのがよいのか・・・審査では書けない私の回答を考えてみたい。


 実は、私は「澄まし」が好きである。気持ちがいいからであるが、家を出て道場に向かうとき、道場に入って挨拶をし弓を用意しているとき、行射のとき、いたるところに「澄まし」はある。弓道ではないが、職場などでも一つの仕事を終え、次の仕事に移るときに机の上を片付けて新しい仕事の準備をする。これも「澄まし」の一つだろう。
 「澄まし」とは心を整える作業である。色々な思考思惑を整理し、自分の心の在りようを感じられるようにする作業だと思う。自分の心の中を見、射に不必要なものを排すること。慢心を押さえ、不安を除き、修練を確認すること。これが「澄まし」の一つである。「審査を受ける」の項で、「澄まし」には学科や道具の確認が大事と書いたが、これら一つ一つの確認は心を整えて行く作業なのである。
 「澄まし」の二つめは、道場との対話である。射はたとえ射場に自分ひとりだとしても、勝手に引いていいものではない。道場内にゴミや行射に障害となるものはないか、的や垜はきちんとしているか、そうゆうことを確認する作業、道場と会話する作業が必要である。道場は射手が心と体を用いて射を行う舞台である。その道場と射手が気持ちを通わせないで射はありえない。だから、弓を張ったら垜や矢道に水をまいたり、草をむしったりしながら道場と会話をする。道場は建物であるが、そこには明らかに気がある。毎日の練習をしている弓人達の気、先生の気が残って満ちている。そうゆう気に守られていることを感じ、感謝できるように心を整えること。これが「澄まし」の二つめだと考えている。
 三つめの「澄まし」は無と自己との対話だと考えているのだが、これはまた別のところで書くことにしたい。
 

 ある初心者講習会で、「澄まし」が大切ですという話をしたところ、「澄ましはどうしたらできるのですか」と質問を受け、一緒にいた方が「座禅の呼吸をするといい」というアドバイスをされた。確かに、呼吸を整えるのは重要である。弓道の練習に座禅を取り入れている学校もあると聞く。だが、私の考えている「澄まし」は少し違う。
 私は「澄まし」が自然に出来るようになるには、掃除をする習慣を身につけることが良いと思っている。玄関や部屋の掃除、机の掃除・・・、掃除はものを奇麗にすると同時に自分の心を奇麗にする。子供なら、部屋をかたずけたり玄関や庭の掃除を手伝い褒められながら掃除を覚えてゆく。手伝いをするうちに、掃除をすると気持ちがよく楽しいということを覚え、親に言われなくてもするようになる。人の目に触れないところも掃除するのは、自分が納得し楽しむためで、汚れを残しておけばたとえ見えなくてもその汚れは心に残り清清しい気持ちにはなれない。汚れを落とし奇麗にし、在るべきところに物を置く。掃除は「澄まし」と同じだと思う。


 『テーラ・ガータ』(長老偈経)という仏典にチューラ・パンタカという出家の話がある。憶えの悪い彼に、仏陀は「なにも憶えることはないから、布切れをもって人々の履物を浄めることに専念しなさい」と命じたという。そして彼は教えを受けにくる人たちの履物を拭うことに専念し、とうとう仏陀の教えを会得することが出来たというのである。それは「人の心も汚れやすいもので浄めることは難しい。だからこそ、心を清めることに専念しなければならない」という教えであった。


 私が名古屋で審査を受けた時のことである。学科審査の担当をされていたK範士から「今、手洗いに行ってきたらサンダルが脱ぎ散らかっている。礼を重んじる弓道で審査を受けようとする人がそのようなことではいけない。」と注意があった。実は私も手洗いでそのことに気づいていたが、自分のサンダルはそろえたものの他を整えるまではしなかったので、反省を深くしたのを憶えている。心に従い動けるようでなければいけないと思った。


 「澄まし」に関連して仏典と私の経験から記させていただいたが、掃除をしたからといって弓が上手になるわけではない。だが、掃除、身だしなみ、言葉使いを整えることは全て自分の心を整えることであり、邪心を排し心に隙を作らないことである。これをいい加減にして、弓道の時だけ「澄まし」をしましょうといっても出来るわけがない。心の動きは射に現れるのである。弓道のために「澄まし」をするのではなく、自分の姿形、心を正しく整えるために普段から「澄まし」が出来るように心がける。そうゆう日々の心がけが弓道にも活かされてくると考えている。
 だから、「心を澄ます方策について述べよ」と問われたら、私は迷わず「掃除をしましょう」と回答するのである。

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リンク集【その他】

リンク集【その他】

【1】 素材


【2】 iya式


【3】 ゲーム


【4】 弓道


【5】 弓道シミュレーションゲーム


【6】 その他


【7】 工房いるか


【8】 島津家伝統弓


【9】 弓祭り


【10】


ここをクリックすると→ リンク集目次へ 行きます。

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リンク集【流派】

リンク集【流派】

【1】 小笠原流弓馬術礼法

【2】 小笠原流鎌倉古式弓道保存会

【3】 武田流弓馬道

【4】 ようこそ流鏑馬の世界へ

【5】 heki_to_ryu ~日置當流の歴史~

【6】 由美ごころon line

【7】 日置流弓術印西派(大洲系)

【8】 日置流腰矢指矢

【9】 浦上同門会 北九州支部

【10】 鳥取藩 一貫流 弓術

【11】 本多流(財団法人 生弓会)

【12】 朝嵐 弓道・本多流を求めて

【13】 古流探訪

【14】

【15】


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リンク集【実業団】

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【1】 愛知県庁弓道会~Aichi Prefectural Government Kyudo Club~


【2】 弓道部|クラブ活動|アスモ株式会社


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【4】 宇和島市役所弓道クラブ


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【6】 大阪府庁弓道部


【7】 キヤノン弓道部


【8】 高知県庁弓道部


【9】 四国郵政弓道会


【10】 全自衛隊弓道連合会ホームページ


【11】 ダイキ株式会社 弓道部


【12】 弓道部 中国電力


【13】 東海郵政弓友会


【14】 東京都弓道連盟第二地区郵政支部


【15】 北海道中央地区教職員弓道連盟ホームページ


【16】 前澤病院弓道部


【17】 ◎よんでん弓道部◎


【18】


【19】


【20】


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リンク集 【連盟・協会 等】 【北海道・東北】

リンク集 【連盟・協会 等】  

【北海道・東北】


【1】 北海道弓道連盟
【2】 中央地区
【3】 西部地区
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【5】 東部地区
【6】 中部地区
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【8】 青森県弓道連盟
【9】 青森県弓道連盟・八戸弓道協会
【10】 南部町弓道協会
【11】 岩手県弓道連盟
【12】 紫波弓友会
【13】 宮城県弓道連盟
【14】 中新田弓道会
【15】 秋田県弓道連盟
【16】 21会にようこそ!!

【17】 山形県弓道連盟
【18】 山形県 長井弓道会
【19】 福島県弓道連盟
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リンク集 【連盟・協会 等】 【九州・沖縄】

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【九州・沖縄】

【1】  福岡県弓道連盟
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【4】  久留米弓道連盟 青年部
【5】  桃弓会
【6】  福岡中央弓道クラブ
【7】  福岡南区弓道部会
【8】  福岡西弓道クラブ
【9】  福智町弓道連盟
【10】  的場弓友会
【11】 佐賀県弓道連盟
【12】  佐賀市弓道連盟
【13】 長崎県弓道連盟
【14】  弓道クラブ・長崎北辰会
【15】 熊本県弓道連盟
【16】 大分県弓道連盟
【17】 宮崎県弓道連盟
【18】  日南市弓道連盟
【19】  弓道(日向支部活動を中心に)
【20】 鹿児島県弓道連盟
【21】 沖縄県弓道連盟
【22】  沖縄弓道連盟(非公認)
【23】  宮平弓道クラブ
【24】

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リンク集 【連盟・協会 等】 【四国】

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 【四国】

【1】 徳島県弓道連盟
【2】  徳島県弓道連盟那賀支部
【3】 香川県弓道連盟
【4】 愛媛県弓道連盟
【5】 高知県弓道連盟
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リンク集 【連盟・協会 等】 【中国】

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【中国】

【1】 鳥取県弓道連盟
【2】 島根県弓道連盟
【3】 岡山県弓道連盟
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【6】  玉野市弓道連盟
【7】  御津弓道会
【8】 広島県弓道連盟
【9】 山口県弓道連盟
【10】  防府市弓道連盟
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リンク集 【連盟・協会 等】 【近畿】

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【近畿】

【1】大阪府弓道連盟
【2】  加支多八幡弓友会
【3】  交野弓技連
【4】  大阪・弓道 『真和弓友会』
【5】  住弓ドットコム 住吉弓友会 大阪市住吉区弓道倶楽部
【6】  別冊住弓 住吉弓友会
【7】  大阪高津弓友会
【8】  万博弓友会
【9】  八尾市弓道協会
【10】 兵庫県弓道連盟
【11】  尼崎弓道協会
【12】  兵庫姫路白鷺弓友会(弓道)
【13】 京都府弓道連盟
【14】   宇治市弓道協会
【15】   京都弓友会
【16】   三心会
【17】  十三棋道舘道場
【18】  審正館弓道場
【19】 滋賀県弓道連盟
【20】  おうみはちまん弓の広場
【21】  大津市弓道協会
【22】  長浜弓道場
【23】 奈良県弓道連盟
【24】 和歌山県弓道連盟
【25】


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リンク集 【連盟・協会 等】 【東海】

リンク集 【連盟・協会 等】

【東海】

【1】 愛知県弓道連盟
【2】  安城市弓道会
【3】  岡崎弓道会
【4】  尾張旭弓道連盟
【5】  蒲郡市弓道協会
【6】  桜町弓道部
【7】  知多市体育協会弓道部
【8】  名古屋弓道協会
【9】  愛弓連日進支部・日進市弓道部
【10】  宝弓クラブ
【11】  名古屋北支部 北辰弓友会
【12】 岐阜県弓道連盟
【13】  可児市弓道協会
【14】 静岡県弓道連盟
【15】  清水町弓道連盟
【16】 三重県弓道連盟
【17】  弓道玉城
【18】  名張市弓道協会BLOG
【19】
【20】


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リンク集【目次】

リンク集【目次】 

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連盟・協会

 【北海道・東北】 【関東】 【信越・北陸】 【東海】 【近畿】 【中国】 【四国】 【九州・沖縄】


 実業団  【実業団 五十音順】  


 大学・高専

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 高校・中学

 【北海道・東北】 【関東】 【信越・北陸】 【東海】 【近畿】 【中国】 【四国】 【九州・沖縄】 
 
 
 個人  【個人 五十音順  あ~な】 【個人 五十音順  は~わ


 流派 【流派 五十音順】  


 弓道場

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 宿泊

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 その他  【その他】

 

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リンク集 【連盟・協会 等】 【信越・北陸】

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【信越・北陸】

【1】 新潟県弓道連盟
【2】  一箭会 
【3】  雪嶺会
【4】 長野県弓道連盟
【5】  茅野市弓道協会
【6】 富山県弓道連盟
【7】 石川県弓道連盟
【8】 福井県弓道連盟
【9】   越前市弓道協会
【10】  小浜市弓道協会
【11】  坂井弓道協会
【12】

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リンク集 【連盟・協会 等】  【関東】

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【関東】

【1】 東京都弓道連盟
【2】 第一地区
【3】 第二地区
【4】 東京都弓道連盟第三地区
【5】 荒川弓道連盟
【6】 弓道 江戸川支部
【7】 葛飾区弓道連盟
【8】 江東区弓道連盟
【9】 武道館弓友会
【10】 ゆみびより -弓道連盟・大田第一支部- 
【11】 射学林弓道場
【12】 世田谷弓友会
【13】 文京区の弓道
【14】 目黒区弓道連盟
【15】 昭島市弓道協会
【16】 久留米弓道連盟 
【17】 小平市弓道連盟
【18】 調布市弓道連盟
【19】 西東京市の弓道
【20】 東大和市弓道連盟
【21】 府中市弓道連盟
【22】 福生市弓道連盟
【23】 町田市弓道連盟
【24】 三鷹市弓道連盟
【25】 神奈川県弓道連盟
【26】 厚木市弓道協会
【27】 伊勢原弓道協会
【28】 横須賀の弓道クラブ 小原台弓道クラブ
【29】 横浜の弓道
【30】 埼玉県弓道連盟
【31】 朝霞市弓道連盟
【32】 川島町弓道会
【33】 川越市弓道連盟
【34】 新座市弓道連盟
【35】 日高市弓道連盟
【36】 松伏弓道連盟
【37】 千葉県弓道連盟
【38】 浦安市弓道連盟
【39】 木更津弓道会
【40】 佐倉市弓道連盟
【41】 白井弓友会
【42】 成田市弓道協会
【43】 船橋市弓道協会(私設)
【44】 三芳村弓道会
【45】 八千代市弓道連盟
【46】 茨城県弓道連盟
【47】 牛久弓道会
【48】 亀城弓道会
【48】 桜一射会
【49】 取手市体協弓道部 @Wiki
【50】 栃木県弓道連盟
【51】 大田原弓友会
【52】 群馬県弓道連盟  
【53】 板倉町求道会(弓道)
【54】 太田市弓道連盟
【55】 弓を引こうよ!境支部&伊勢崎市境弓道クラブ
【56】 山梨県弓道連盟


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教本を読む

 弓道には素晴らしい本が沢山あり、本を読むことが好きな人間にはとても楽しいものである。全日本で活躍する先生や範士の先生の書かれた本などそれぞれの弓道への思いを知る事ができるし、射技についても練習の工夫などを知って参考にすることも出来る。古い本を武道関係を得意とする古書店巡りをして買い求めるのも楽しいし、ネットオークションに時々古い弓術書が出てくることもある。弓道の本というだけで色々な楽しみ方がある。ただしネットオークションの場合、法外な値段がつけられている事も多いから、安易に飛びつかないほうが懸命だろうが、どういう経緯で出てきたのか想像するのも楽しい。


 さて、私たちは全日本弓道連盟が編纂した『弓道教本第1巻(射法篇)』を参考書として読み、学科試験のある六段審査までここから出題される。まさに基本中の基本の教本である。
 ところがこの教本、私が最初に読んだときにはなんて読みにくい本なんだろうと思ったし、今でこそあまり感じなくなったが決して分りやすい本だとは思えない。内容が難しいのは仕方がないのであるが、読みにくいと感じているのは私だけの感想であろうか。


 『弓道教本第1巻』は射法篇となっていて、口絵写真で射法制定委員の紹介と伊勢神宮、明治神宮、京都済寧館の各弓道場の紹介があり、礼記―射義―、射法訓(吉見順正)が書かれている。さあ、此処で困る。編纂当時の弓道界では知っていて当たり前のことだったのかもしれないが、射法制定委員の先生方がどのような方なのか全く紹介がないのである。あとがきにも無い。これは『弓道教本第1巻』の特徴であり、射法制定時の困難を示しているとみるのは深読みだろうか。二巻目以降は、射技詳説の項で、各先生の名前とともに射技の説明がされているし、あとがきに先生の弓歴も紹介されているから、先生がたの書かれた本文を読むときに大変参考になる。


 次に、『礼記射義』と『射法訓』であるが、これも現代の初心者には不案内である。
 まず『礼記射義』。今の若い人たちで、『礼記』が儒家の書とすぐ分る人はいるだろうか。「儒教」を確立した孔子(紀元前551年‐紀元前479年、春秋時代)は『論語』でよく知られているが、『礼記』は儒教の根幹である「礼」について書かれた書でその成立は孔子より古い。そして清朝まで中国の国教として人々の生活とともにあった教えである。科挙(598年~1905年、隋から清の時代に行われた官僚登用試験)では儒教の知識を問い、試験には弓術もあり孔子もまた弓の名手であったと伝えられている。『礼記射義』は『礼記』49篇のうちの46篇にあるが、なぜその「礼」を説く『礼記』に「射義」が書かれているのか、実はこのことが重要である。
  『射法訓』、こちらは教本を読み進むと、『射法篇』で宇野要三郎先生の三位一体の項で吉見順正の遺訓として解説されている。宇野先生の解説はそれ自体理解を深く読まなければならないのだが、書物の構成としてはいかがなものかと考えるのである。
 『礼記射義』と『射法訓』の解説をもうけていただいたほうが、背景とともに理解しやすいのではないかと思う。


 さて、書物の構成という点でこの『弓道教本第1巻』を読み難くしている点を考える。教本は序論と射法篇で構成され、射法篇の最初にある宇野先生の三位一体と礼記と射法訓の解説に続いて基本体について書かれている。基本体は重要であり、姿勢、動作と詳細に書かれているのはいいのだが、突然、肌ぬぎ、肌いれが書かれ、読むほうとしては戸惑う。しかもその後に、矢番えが続き、射法・射技の基本と続く。肌ぬぎ、肌いれは後に来る射礼のところでも良いであろうと思うがいかがなものであろうか。また、射礼は射法篇の中に置くのではなく、射礼篇として射法と同格に上げるほうが射礼の意味としても教本の構成としてもよいのではないかと愚考する。
 

 『弓道教本第1巻』は、戦後日本の武道がGHQの管理のもと一時活動を停止させられるなど、時代の混乱と反省をばねに弓道界の先輩方によって作られたものである。そこには、これからの日本の弓道をどう発展させてゆくのかという切実な思いが読み取れるし、そのための一つとして流派の事を少しでも抑えながら弓道界としての道を示したいという試みの書でもある。そして『弓道教本第1巻』が成功したのは、改訂されながら今に生きていることで証明されていると思う。


 問題と感じるところを書いたが、教本を否定しているものではないし、多くの弓道人に第1巻はもちろん第4巻まで、また、『介添え』や『襷さばき』などの副読本もよく読んでもらいたいと思っている。
 そして、教本を読むときには、誰がどのような思いで書いているかをよく考えて読んでいただきたい。たとえば、第1巻は流派の事を抑えながら書かれているが、第2巻以降は各先生の弓歴を参考にしながら読むと明らかに流派による違いが見えてくる。そこには、先生方の教えを伝え残したいという強い願いがあるように思う。現代の教本の意義をよく考える必要があるのではないかと思うのである。さらに言えば、どのような弓歴をもち、流派を学ばれた先生であるかを理解しないと、書かれている教えが正しく読み解けないということもある。私たちは、教本を読むときにそのような事情をよく注意する必要があると思う。
 浅学の私が、大先輩の先生方が書かれた教本について、意見を言うのは失礼な話かとも思うが、敬意をもつことと、問題意識を持つことは別の事であると考えるので、あえて恥をさらした。お叱りを受けることが出来れば幸甚である。


 『礼記射義』と『射法訓』については、故松井巌先生により研究がなされており『道の弓』として出版されています。

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基本体

 どのような世界にも理念に基ずく基本がある。弓道でも「射の眼目は、自然の理を動作の上に表現することである。故に自然を無視して射は成り立たない。したがって体の構えも、動作も合理的な運びでなくてはならない」(弓道教本第1巻射を行う態度)と教えている。自然体であること、無駄の無い事を求められているのである。だが、自然体といっても、それは規正され鍛えられた体であり心である。私たちは弓道に適した体と心を日々の練習を通じて練り上げていかなければならない。


 弓道では、「基本体」を「基本の姿勢」と「基本の動作」に分け、さらにそれを細分して説明している。私はあるとき道場で先生に「今立つことを練習しています」と話したところ、「私は歩き方を練習しているよ」と即座に返事されたことがあり、恐れ入った事があった。先生にして尚、基本動作に日々心を配り練習しているのである。そのくらい「基本体」とは奥の深いものなのであろう。道の長きを思いながらも嬉しく感じた会話であった。


 実際、私たちの体は自然なようでいてずいぶんと不自由になっている。足の大きさ長さは左右で違うし、腕も同様である。立てば腰は曲がり筋肉もあちらこちらが凝っている。これを弓道に適した体に作り直さないといけない。
 私は以前腰を故障し左足が不自由になったことがあった。そのとき、治療のためにスポーツジムに通い、水中歩行を繰り返して腰から下の足の痺れを取るよう訓練するとともに、筋トレメニューを作り弱った筋肉を鍛えて体をサポートすることにした。3~4ヶ月たって左足が動くようになったころ、水泳の先生に誘われて水泳を習いだしたが、水泳の基本はストリームラインと言われる水中姿勢である。水面に伏せたときに、後頭部、肩、お尻が水面に浮かび、力むことなく伸びた体である。ストリームラインが出来ていないと、水の抵抗を無駄に受け、手足が伸びず体は沈んでしまう。私は水泳は手足ではなく胴体で泳ぐのだと知った。
 この経験は弓道にも大変参考になっている。もし皆さんが立つ姿勢に悩みがあるなら、両腕を頭の上に伸ばしバランスをとりながら爪先立ちで伸びをしてみるといい。腰や背中が曲っていたり、出尻になっていたりすると伸びは上手く出来ない。これを規正し、重心を真直ぐ受けられる伸びの姿勢位置を見つけそのまま足を下ろして踵をつけるのである。重心は頭の天頂、つぼでいう百会から入り、尾骨に抜けているのを感じられると思う。さらに骨盤の位置、仙骨の調整などもあるが、先ずはこの伸びで「胴造り」の第一段階はスタートできる。


 スポーツジムの話を続けよう。筋トレを何種類かのマシーンを使ってやるうちに、スタジオでエアロビクスやヨガをやっているのが目に入ってくる。もともと好奇心があるからいくつか初心者向けのプログラムに出て、ヨガに驚いた。ジムでは一般的なヨガもあったが、私の参加したハリウッドヨガの先生は徹底して体幹を意識し鍛え、最初の頃はたいして動いていないのに腹筋が痛くなるほどであった。私のインナーマッスルへの関心の始まりである。
 インナーマッスルは最近注目であるが、体の外側から見ても分るアウターマッスルに比べ、関節の比較的深い部分にある筋肉である。しかし、このインナーマッスルを鍛えることにより、体幹をバランスよく制御できるようになる。腹横筋などは背骨をささえ、腹式呼吸にも関連があると言われている。
 弓道でのインナーマッスルの効果はいたるところにある。「胴造り」や「打起し」はインナーマッスルの働きで行うのが良い。また、跪坐や蹲踞の時にはインナーマッスルを意識しながら、顎をひき頭の頂点から糸で引っ張られているように脊椎を伸ばすと、お腹に支えの力が働きだしお尻が軽く浮き、脚に体重をかけることなく姿勢が活きてくる。インナーマッスルが使えるようになると、そのうちに体が内側から引き締まってくるようになる。腕や足腰に余計な緊張が無くなり、体が軽くなったように感じられ、動作が滑らかになってくる。私は道場での練習でも体配で心がけるようにしているが、糸で引っ張られる感じは姿勢を整える良い方法だと思っている。
 介添えで蹲踞の姿勢を保たなければならないときには、是非インナーマッスルを働かせていただきたい。足腰を鍛えて頑張る方もいるが、インナーマッスルを意識することで、介添えの姿勢、動作が楽に出来るようになる。お試しいただきたい。
 

 このように、一見弓道とは関係の無いような水泳やヨガであるが、「基本体」に深く関係する要素を発見することが出来たのは幸いであった。もっとも全てのスポーツで真髄は同じだなどと言うつもりはない。使う筋肉も呼吸も違うし、瞬発力を求められるスポーツも多い。それでも、他にもスポーツをされている方はぜひ共通する事や応用できるものがないか考えて見ることをお勧めしたい。新しいスポーツの楽しみを発見できる事と思う。


 「基本体」で大切なのは姿勢や動作であるが、心も重要である。心は体に現れるので、「目づかい」や「呼吸(息合い)」を通じて心の制御を「基本体」では教えている。気構えを正し心の在りどころを確認し、意識の発動によって体は動いて行かなければ形だけの動作になってしまう。初心者は形から真似てゆくが、心を使って体を動かすようになったら形からという訳には行かない。
 道場で他の人の射を見ていて「気が入っているな」とか「離れで気が抜けてしまった」などというのはよく分る。体配を見ても気の入っていない体配は見苦しいものである。自分の姿もこのように見られているのかと思うと恥ずかしくなるし、それこそ練習で気が抜けないと思うのである。ましてや自分の心は繕うことができないから、真っ先に自分自身が分ってしまうのも弓道の厳しさといえよう。
 日常の生活はもちろん道場での練習では特に意識して心の在りようを見るようにし、気を入れて練習する。気を感じ整え動かすのは難しく長い修練が必要である。それには呼吸法の修練が大切だと思っている。生活では意識せず行っている呼吸であるが、弓道では心と体をコントロールする重要なポイントである。私はまだまだ呼吸が下手で意識してやっても上手に出来ないことが多く、ぎこちない呼吸を繰り返している。深い呼吸が静かに出来て気が集まってきたなと思っても、ふっと逃げてしまうことの方が多いのである。何時の日か呼吸が上手に出来るようになって、意識しないでも自然に心と体が調和されてゆくことを目指している。基本体の修練の困難で奥の深いことを痛感する練習の日々である。


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教える

 教えるということはつくづく難しいことだと感じている。私は、弓道の世界ではまだまだ駆け出しの若造だし、ある範士の言を借りると「60歳はひよっこ」で、「70歳になって脂がのってくる」そうだから、私は卵にもなっていない。国体や全日本の経験もないから、そうゆう経験を聞きたい方には何も教えることは出来ない。だから、ここでお話する【教える】とは私の教えられた経験と、一緒に練習する人たちとの試行錯誤をご紹介することになるがご容赦願いたい。


 よく聞く言い方に「教えることは自分の勉強になる」というのがあるが、私はこの言い方が嫌いである。「自分の勉強になるので教えさせてください」とは言えないのだから、教わる人に失礼な言い方であると思うし、こんな考えで教えられたら、教わるほうは迷惑な話だろう。私はこれまで何かしらを教えて「自分の勉強になった」と言える気持ちになったためしがない。教えようとするといつも自分の未熟さや伝えたいことのわずかしか伝わらない事に悔しい思いをする。教える技術が上手になったからといって弓が上手になるわけでもないとも思う。弓が上手になるのは、自分が一生懸命に心と体を鍛錬し、練習するからであって、教えることとは違う話だ。
 教えるということは、身を削り血を流しながら自分の全てを見せ伝えることで、なまはんかな事で出来ることでは無いと思っている。しかも、教えるということは責任の伴うことで、信じて教わる人に間違ったことを教えてしまったらその人の正しい成長の邪魔をしてしまうし、悪い癖が残ったりしたら取り返しのつかないことである。そう考えると、教えをいただく先生がたには心底頭の下がる思いになる。
 しかし私たちは審査を受け段位をいただき、それを励みに練習もする。段位が上になってきたり、称号をいただいたりすると役割として後輩のお世話をするようになる。それは自然のことであり、教えるのはいやだとか出来ないとは言ってられないのである。そう考えると昇段や昇挌には覚悟が求められるのだと思う。心して受審しなければならない。


 さて、教えるということにも段階があるように思う。中学生や高校生は好奇心のかたまりである。興味をもったことには“なぜだろう”が尽きないし、質問も率直である。なにより結果を求めてくる。だから基本を繰り返し教えることと、その基本がどのような理屈からなりたっているのかを具体的に示して伝えることが大切である。基礎的理論と小さな結果の積み重ねが信頼を作り楽しい練習につながってゆく。基本の練習は時として単調に感じられるかもしれないが、その結果的中が高まるのを知れば、喜びにつながるものである。そうゆう繰り返しを通じて基本の練習が大切であることをしっかり体で覚えることを教えるのが中学高校の時期は大切であろう。彼らの笑顔が励みである。
 大学生になり、学生弓道を経験しだすと、それぞれが工夫しながら仲間と切磋琢磨し勝ち抜いてゆく喜びを見出す。自分の射を見つけようと実に様々な工夫をし楽しくてたまらない、と同時に競技や人間の苦労もする。それでも、この時期は中りへの自信と弓道の楽しみを見つける時期であろう。そうゆう時期を見守り、大きな成長につながるように準備してあげるのが教える側の務めだと考える。
 さて、社会人になってからの弓道はどうであろうか。学生とちがって、弓道経験のあるなしに関わらず相手は大人である。社会経験もあるから、その人なりの考えや癖もある。本来はそういうものを全部捨てて道場に入って欲しいのだがなかなかそうはいかない。そこが社会人に教えるところの難しさであるように思う。


 私の道場では社会人が多く通っていたが、改めて教えるという光景は少なかった。私はよく教えていただいたほうだが、いつもは、先輩の練習を見てひたすら真似をしていた。すると、「おぅ○○の真似をしているな」と声がかかる。そのうちに「背中を使ってみろ」とか「足を締めて」と言われる。見よう見真似でやってみると「出来るじゃないか」とか「ちょっと違うな」とか言われ、先輩どうしで自分達が教えられたときはどうだった、先生にこう教わったということを話している。こちらは、声をかけていただいた点をもっと聞きたいし、これでよかったのかどうか教えて欲しいのだが、禅問答のように投げかけられて、試行錯誤しながらひたすらに弓を引き、謎を解くために先輩を見るという練習がつづく。時には何ヶ月も指摘されたことを考えながら練習する。今にして思うと、見て真似ること、思考することを徹底して教えられたと思っている。


 普通道場で練習している人を見ていると、何を練習しているのかがよく分る。“あぁ、勝手の使い方を練習しているな”とか“重心のかけ方を工夫しているな”といった具合に分るから、求められれば、そのポイントに加えて、全体を整えることを指導するようにしている。しかし、見ていて何を気をつけているのか、どこを練習したいのかが見えてこない人がいる。これは指導している人にも問題があるのだろうと思う。漫然と練習するのではなく、“今日はこれを練習するぞ”と思い定めてその日の練習に取り組めばそれは形となって見えるものである。そういう練習の姿を指導者は後輩に示してほしいと思うし、私自身もそういう練習が出来ているかどうかと反省する。
 口で言っても、人の受け売りで自分がやらなかったり出来なかったりしたら誰も信頼はしてくれない。口で教えるのではなく、見せて教えるのが大切と思う。もっとも、後輩から見たい、参考にしたいと思われる射が出来なければもともこもない話である。


 教えるということは相手のあることで、同じ事を言うのでも、相手の技量を理解していなければならないし、時には時間をおいたり、言葉を変えて伝えることも必要である。だが、何よりも大切なのは、自分の練習を通じて示すことであろう。自らが正しい射を求めて修練する姿を示すことで、弓道を通じて己と闘う姿を見てもらう事。これに尽きるのではないかと思う。自分の練習を見せて教えるということは隠すことの出来ない自分を見せることである。正直な自分を鍛えていかなければ恥ずかしい思いをすることになる。教えるということは本当は命がけのことなのかもしれない。

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講習会

 【初心者講習会】
 昨今は講習会やカルチャー教室がひろくあって、色々な方が習いに来る。市や町のスポーツ行政でも、地域の連盟に委託して弓道教室を開催している。そういうところには、“弓道に興味をもっていたけれども何処で教えてくれるのか分らなかった”という全くの初心者から“都合で休んでいたけれど再開したい”といった様々な理由の人が来て一緒に習い始めるので、普段の道場とは違った空気があり新鮮である。私は、人が何かを始めるときの縁、興味を持つきっかけに関心があるから、初心者講習会に来る方の気持ちの有り様に興味がある。
 初心者向講習会には弓道を習いたいという人だけではなく、“弓道ってなんだろう”という興味で来る人も多いようで、“テレビを見て興味をもった”とか“袴姿がかっこよさそう”とか“集中できそうだと思った”という声もあり、中には“子供がやりたがったので一緒にやってみようと思った”という方もいて親子一緒に通ってくるケースもある。微笑ましいものである。
 こういう人達は弓に触って体験してみたいようである。そういう気持ちを大切に受け止め、弓道を紹介することも大切なことだと思う。時々、初心者講習会でお世話する方から「せっかく講習会をやっても、残って続けてくれる人が少ない」「15人ぐらいの講習会で残るのは2~3人しかいない」という声を聞くが、習いごとを始める前の覚悟が昔とはづいぶん違うようであるから、仕方がないのかもしれない。
 もちろん教える側からすれば、せっかくだから続けて欲しいと思うし、弓道の良さをアピールしたいのであるが、経験者とまだ初心者とも言えない人では、どうしても温度差がある。一人でも多く続けてもらいたいという願いも、そのための工夫も大切だが、私は残った人を丁寧に育てることが多くの入門者を迎えることにつながると思っている。


 弓道の経験者は自分なりの楽しみをもっているし、“弓道はこうゆうもんだ”とか“弓道の心構えはこうだ”という考えをもっていらしゃる方も多い。教本にも“弓道の理念”や“眼目”といったことが書かれていて弓人それぞれが修練しているから、弓道の基本として初心者に伝えなければならないと思う。しかしこれも段階を経てのことだろう。いきなり初心者に講義したり、「弓道はこうゆうものだから目指してください」と教えても伝わるものでは無いと思う。『風姿家伝』年来稽古条々七歳に「ふと仕出ださん懸りを、うち任せて心のままにせさすべし。さのみに、善き悪しきとは、教ふべからず。余りにいたく諫むれば、童は気を失ひて、能物ぐさくなりたちぬれば、やがて能は止まるなり。」とあまり口うるさく言えば、やる気を失ってしまうということが教えられている。弓道の眼目とするところを伝えるのは基礎においても大切なことだと思うが、頭でっかちの弓道入門になっては弓道の魅力が失せてしまう事にもなりかねないだろう。正しいことを伝えるにも段階があると思うから、教える方の注意の必要なところである。
 ただ、初心者の中にも武道を通じて礼儀や精神的厳しさを学びたいという人もいて、安易に入口は優しく・・・とか、早く的に立たせて当てる喜びを・・・とやっていると入門者を軽んじる結果となるから、個々人の希望や様子をきちんと把握することが大切である。


 【有段者への講習会】
 入門者向け初心者向けの講習会に加えて、有段者への講習会が盛んである。段位別に分かれて経験豊かな範士・教士の先生に教えていただける機会は嬉しく、先生の人柄に触れることも勉強になる。ある講習会に参加した折「○○範士に教えていただくのは初めて」と喜んでいる方がいたが、地方ではなおさらのことであろう。
 講習会の機会が多くあることには感謝するし、講師の先生方の熱意には頭の下がる思いであるが、受講する側の問題を少し考えてみたい。


 もともと私は講習会に参加することに積極的ではなかった。道場の先生、先輩が講習会で講師や指導者を務めるような方々であったためで、外の講習会に行かなくても充分に勉強する機会に恵まれていたからである。それに加え、私は習った事を練習し、体が覚え自然に動くようになるまでに何ヶ月も何年もかかるし、そのうちに忘れたりして自分勝手になって、また思い出して練習し直して・・・と不器用な練習を繰り返しているからでもある。
 しかし私は、不器用でいいと思っている。器用に習うことをとても警戒するからである。もちろん講習会の先生の言葉でふっと分ることがある。言葉が変わることで“あぁそうだったのか”と理解できたり、納得できたりすることが講習会ではよくある。しかし、それで出来たり分ったつもりになるのは大変危険なことで、講習会で分ったつもりになっても、道場に戻るとさっぱり出来ないということは多くの方が経験していると思う。習ったことを自分のものにできるかどうかは日々の練習しかないのである。
 講習会に参加することは良いことである。それを否定はしない。だが私たちは、日々の練習で何を注意し何を習得しようとしているのかをよく心に刻み、今習い練習していることが充分に出来ているのかを反省することが大切ではないのだろうか。よく分らないから、上手に出来ないからといって安易に講習会に出かけているようでは、なんとも情けない気がする。道場での先生は私たちを修練の過程の中で見ている。焦る必要は無い。今やるべき練習を一つ一つ丁寧に重ねて、安心して練習していればいいのだと思うのである。


 よほど、講習会で教えていただく先生が毎回同じなら話は違うだろうが、自分の道場で受ける指導とは違い成長経過を見ていただきながらの指導にならないことを受講する側は理解しておかなければならないと思う。もっとも、講習会で講師をされるような先生方はさすがに素晴らしい方ばかりで、棋士が対局を覚えているように、受講生を見て“あぁこうゆう射をする人だったな”と過去に見た射を覚えていてくださることも多いからあまり杞憂することも無いのかもしれないが・・・。
 毎回のように講習会に出かけている方はどのような思いで行かれているのであろうか。考えを聞きたいと思っている。
 

 私は不器用に習うことを大切にしたいと思っている。一人の先生からの教えもまだまだ身についていない未熟者であるから、多くの先生に習うことに不安のようなものを感じてしまう。自分の練習や心がばらばらになってしまうのではないかと心配するのである。
 多くの素晴らしい先生の経験や言葉、人柄に接し、吸収したいという気持ちは分る。しかし山を登るのに、一時にあちらこちらのルートから登るようなもので、それでは迷子になるのと同じで、そういう練習には害のほうが大きいと思う。“この先生はこう言った”“あの先生はああ言った”ということになり、先生の言葉が言葉だけになってしまう。文献資料を読みしらべ、知識を増やすのとは違い、自分の体で実践して教えられた言葉の意味が身に沁みてくるようになるまでには時間がかかるものである。先生の教えが問題なのではなく、教えられる私たちの技量の問題である。一時に多くの先生に習うと、与えられた知識、借り物の知識になってしまい、技術も小手先のものになってしまうと思っている。
 講習会も数多く出れば勉強になるというものでもないであろう。普段の練習をじっくりとやって、その上で、自分がどこまで成長しているのかを見ていただくようにしてはいかがであろうか。射にはその人の心構えや練習が映し出されるし、自分自身にもその前の講習会と比べて成長の差が感じられ、意義のあるものになると思う。

テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

発心と初心

 発心とは、出家し仏門に入ることであり、四国の霊場八十八箇所を巡るお遍路の旅に出ようと心に決意することです。信仰心に篤い人が、様々な思いや事情のなかから決意するとはいえ、今の生活や人々との縁を断ち、仏につかえる身になるのですし、お遍路の旅に出たりするのですから、それこそ命がけの思いだったはずです。発心とはそういう決意を含む言葉なのでしょう。
 私はとても興味をもって考えることがあります。「なぜこれに興味を持ったのだろう」「いつから、これが好きなんだろう」といった何かが心に芽生る(もしくは宿る)瞬間を考えることです。人は、あるときふと何かに興味をもったり、気になりだします。時にはだんだん興味が大きくなるときもありますが、興味を持ったことに気づかず胸の奥に眠ってしまって、長い時間忘れていることもあります。ところがその興味の種はちゃんと根付いていて、あるとき、心の中から芽を出して伝えてくれるのです。「これが好きだったんだよね」って。
 もって生まれた縁が結ばれ動き出すのです。何かのきっかけで動きだすときもあれば、種が自然に大きくなってきて動き出すときもあります。その種はいつ私の心に埋め込まれたのでしょう。私にとって、それを探る思索は冒険小説のようにわくわくする楽しいものです。


 弓道についての私の最初の種は、バスの中からでした。町の高校に弓道部があり、バスの中から道場の白壁が見え、瓦葺の屋根が、とても清清しく見えたのを記憶しています。ただ、その当時小学生だった私は、高校生の弓道を見ることもなく、見るすべも知りませんでした。結局、白壁の道場は弓道という言葉を私に残しただけで、私の中で眠りについたのです。でもその最初の種は、よほど上手に私の中に蒔かれていたのです。
 弓道についての二回目の種は、学生のころ。仏教書を読んでいた私は、立禅という言葉に出会います。ただ、弓道をまだ始めていない時です。それでも、弓道には武道としての心の働きや、仏教的解釈や座禅と対比する視点があり、立禅と呼ばれる精神的要素へのアプローチが強くあるのだということは理解できました。行射における心の在り様や働かせ方を考えると重要な種だったといえます。
 そして、三回目の種。就職した年、仕事で外周りをした時に、弓道具店に立ち寄り、「弓道を習いたいのですがどうしたらいいのでしょう」と尋ねたのです。店の方は、「何処に住んでいるの?」と私の住所を聞き、「それなら、Jという道場があるから訪ねてごらんなさい。良い道場だよ」と教えてくれました。今思うとこれが私の種の発芽の瞬間でした。お店の人と話しているとき、私は自分の心の中で「あっ始まったな」と感じたのを憶えています。


 人は、どうして何かに興味をもつのでしょうか。まるで出会うのが当然だったかのように、引き込まれてゆくことがあります。少し考えて見ると、呼応するなにかがその人に宿っていることがわかります。私には白壁の弓道場だったのでしょう。今でも、道場の風景が眼に浮かびます。でも、もっと深く心を中を見てゆくと、どうしてその種が私に宿ったのかはやはり分りません。なぜ、白壁の道場に心惹かれたのでしょう。不思議です。種子が散歩の途中で服につくように、いつの間にか、運ばれてきて私に付いたのかもしれません。そう考えると、種は向こうからやってくるものなのでしょうか。でも、私という畑で、種は根を張り芽を出したのです。私にも発芽させる土壌があったのでしょう。縁の糸が弓道と私と互いに伸びてつながったのでしょう。
 発心は心に宿った思いが芽を吹く事だといえます。縁が動き出すことだといえましょう。私達に宿った弓道との縁を丁寧に守り、素直な芽を育てたいと思います。


 初心とは、習い初めで充分に慣れていないことや、最初のころの気持ちを言います。世阿弥の『風姿花伝』にある初心は「初心を忘るべからず」という言葉で有名ですが、これは別紙口伝にある言葉で、芸の奥深さにふれる内容が書かれています。世阿弥が言う初心のころとは、7歳にして練習をはじめ、24・5歳になり、声や姿もしっかりし、芸も身について評判も上がってきた頃のことを言っています。決して習い始めの気持ちや、最初のころのひたむきに熱心な気持ちを言っているのではないのです。私は能や日本舞踊も好きでよく見ますが、門外漢ですので、世阿弥の初心について語ることはできませんが、現在の弓道でいうなら、五段か錬士ぐらいになり、中りもあり、地域でも活躍しだした頃の人に相当するのかな、と想像します。でも、そうゆう時にこそ、自分の理想を高くもち、道の遠き事を思い、習い、練習に励む必要があるのでしょう。
 世阿弥は、「たとひ、人もほめ、名人などに勝つとも、これは、一旦めづらしき花なりと思ひさとりて、いよいよものまねをも直ぐにしさだめ、名を得たらん人に、ことこまかに問ひて、稽古をいやましにすべし。」と言っています。
 ある講習会で、範士の先生が、「山に登ったら下りなければ次の山には登れない。おうおうにして、今自分はこのレベルだから次はこうすれば上にいける、と思ってしまうが、登った山は一旦下りて基本から確認し直すことで、次の山に登ることが出来る」という話をしてくださったことがあり、感銘を受けたことがありました。
 私達は、練習でコツをつかんだり、中りが安定してくると、これでいいと思います。自信は励みにもなりますから、練習の中で自分が今工夫していることや、得意としていることを確認することは大切です。でもそこに止まったり、安心してはそこまでです。今の自分を捨て、基本と照らしてみること、“今自分のやっていることは、基本に則ったことなのだろうか”と自問してみることが、次の成長のための重要なステップなのだと思います。私は、これを自らを殺すこと、“自殺”と言っていますが、基本に照らすことの難しさは練習すればするほど、強く感じるようになります。
 初心は、私達の練習を導くかけがえのない言葉なのかもしれません。個性だ特徴だとか言う前に、基本は何かを求め続ける心に立ち返る重要な言葉だと思っています。

テーマ : 武道
ジャンル : スポーツ

息合いと間

 「息合い」を考えるときに、呼吸法について解説されているのをよく見る。腹式呼吸であったり丹田呼吸であり、その違いや効能が多くの書物やサイトで説明されている。実際、私も呼吸によって血圧を整えたり、疲労を取ったりして呼吸法の恩恵に浴している。仰向けに寝て軽く眼を閉じ、両腕両足をリラックスさせながら呼吸をする。このとき、左足の裏から血管一つ一つに意識をつなげる気持ちで上げてきて、左腕、左手先に行って戻り右に移し・・・と体の中に意識をめぐらしながら呼吸を続けてゆくと疲労がとれ、頭や目がとてもすっきりする。横になるスペースがない場合は正坐や椅子に腰かけていてもいい。自立神経を調整しストレスや冷え性、動脈硬化などにも効果があるというからお勧めするが、私はこの呼吸をしていると気持ち良く眠ってしまうことがあるので、試される方はお気をつけいただきたい。また、リラックスし過ぎるとしばらく体がぼーっとしているから、足や手の指を開いたり閉じたりして体の隅々に意識を取り戻してあげなければならない。試合の前などにおこないタイミングを間違うと眠たいまま射場に出ることになりかねない。
 身体に効能のある呼吸法であるが腹式呼吸や丹田呼吸、足心呼吸などさまざまな呼吸法が紹介されているから興味のある方は是非研究してみることをお勧めする。

 
 この項で私が考えたいのは、呼吸と意識の働かせ方である。私は日本舞踊が好きでよく見るが、踊り手の鍛錬された体は意思によってコントロールされ表現される。踊り手の意識が芸に溶け込んで渾然一体となっているのがよく分る。姿形の美しさは当然ながら、踊り手の意識の静謐とした緊張とそれを楽しむ境地を見るとき、その芸のすごさに感動を得るのである。弓道も同様であろう。


 私たちは意識の働きによって体を動かす。このとき意識を整え研ぎ澄ましていくのが「息合い」なのだと思う。「息合い」は単に吸って吐いてという呼吸のリズムをつけるのではなく、呼吸の一つ一つにより体の隅々まで気を充満させていく作業である。「息合い」により体に意識が伝わりやすくなり、自然な動作につながっていくのである。
 普段私たちは呼吸をするときことさらに意識することはない。だが、弓道における呼吸は意識によって行い、これによって動作を呼び起こす。つまり、呼吸を介して意識と動作を連動させているのである。もちろん習熟すれば呼吸を意識することは少なくなるが、試合などいざというときには呼吸を意識し直すと、落ち着いて日ごろの射をすることが出来る。
 武道は心身の鍛錬によって心に感じるように体が動くことが大切であり、体が感じたことを心が受けとめることもまた大切である。心の働きによって呼吸をコントロールし意識が研ぎ澄まされていったとき、体は意識とともに無駄のない動き、隙の無い動作を得るのである。
 私たちの日常の動作というのは癖や無駄が多い。呼吸を意識のもとでコントロールする訓練をし、意識によって動作を制御する癖をつけ、無駄を排し意識と動作がすばやく連動するように訓練する。そこに心気の働きが生まれてくる。訓練の始めのうちは、意識した呼吸と動作はなかなか上手く連動せずぎこちないものである。しかし諦めず、毎日の練習で心がけていると必ず出来るようになってくる。先生や高段者の方と一緒の立ちに入り「息合い」を感じながら、映して真似るようにするといい練習になる。
 私は、大前で入場するときの「息合い」を練習で毎回意識している。入口に立ち呼吸を整え、自分の心の中から“入るぞ”という気が生まれてくるのを確認する。一歩踏み出し、体を整え礼をして・・・と入場する時に「息合い」とともに気の働きによって動作が出来ているかを確認する。心と体が一緒になり動作が出来たときはとても気持ちのいいもので、まるで踊りを踊っているような軽い動作になっている。心気の働きの神秘なるところである。


 「息合い」は「間」と密接な関係がある。たとえば人が興奮して話している場合にこちらが深い呼吸でゆっくり話をすると、相手は次第に落ち着きを取り戻すがこれは「息合い」を使った「間」のとり方である。また、仲のよい夫婦が居間でくつろいでいるときのお互いの距離は45cmぐらいがちょうど良いというが、これも「間」であり、相手の呼吸を感じられる距離なのであろう。
 弓道でも、「息合い」により射手同士の「間」を感じる。大前の先導で入場し射手同士が「息合い」を合わせるのは当然である。調和の美、協調の精神であり、射手同士が尊敬しあうことであるから、「息合い」によって「間」をはかることは弓道の真髄につながることだと思っている。大前はさらに全体特に落ちの射手に気を配り、射手同士がそろうように配慮しなければならない。もし大前が「自分は息合いで動いているから合わせてくれなければならない」などと考えているようでは情けない。大前はその立ちの先導役として射手の調和を図らなければならない。「息合い」による調和に心がけ、「間」を感じながら体配を行っていれば、落ちを感じるのは難しいことではない。眼には見えないけれど、後ろの動きは後頭部や背中で感じることが出来るし映像のように頭の中に見えるものである。「自分が何歩で此処だから、続く射手は此処だ。」などと計算で理解するのではなく、射手同士の気を伝え合い相手を知る訓練が必要であり、それが「息合い」をあわせながら「間」をはかることなのだと思う。相手を理解し協調しようとする姿勢なのだと思う。
 持ち的の練習もいいが、時には一つ的の練習をすると「息合い」と「間」の関係が良く分り楽しいから、あらたまった練習という事でなくても、時々道場の仲間で一つ的の練習をすると良いと思う。


 最近は射会や審査も参加人数が増え、進行では必ずのように間合いの説明がなされる。ある射会でゆっくりと体配を行い注意されている人たちがいた。本人達は丁寧な体配に心がけているからこれでよいと思っているのかもしれないが、全体の「間」を乱すことになり大変見苦しいものである。「息合い」による体配というのはゆっくりやることではない。射場の空間や行射の時間配分などを理解し、その場にあわせて行えないようでは体配が身についているとは言えないし、自分勝手な射ということになるから、本人も気持ちの良いものではないであろう。「息合い」による体配が大切だと思っているのだろうが、修練が出来ていいれば、「息合い」を活かしながら早い動作でも丁寧な体配が出来るものである。
 弓道における体配行射の「息合いと間」が和敬、協調の精神に欠かすことの出来ない重要なことであることを理解し、日ごろの練習を通じて私たちの身についてくるよう願っている。

テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

習う

 習うということの難しさは習うほどにその難しさを増すように感じる。先生について習うということは、先生を見て真似て自分に映すのだから、これで良しというものが無い。先生の良いところを吸収しようなどという考えは良くない。人の良し悪しを判断するというのはその人を評価判断することで、先生に対して失礼不遜であり、その時点で習う心と大きく離れているように思う。全部を映すのが習うということだと思う。
 先生を映す以上、自分を残しておいてはならない。自らの全てを排し、真っ白な姿になって映さなければ先生を映すことは出来ない。この自分を消し去り真っ白になる事が習うということで、難しい事である。ともすれば「先生はこう言ったが、こっちのほうが良いのでは」「先生はこう言ったが、別の先生はああ言っていた」などと自分の判断が入ってしまう。邪魔で愚かな事であるが、そのときはなかなか気付かず、最短最善の答があると思い、先生の言う意味が届かない。分からないときは、言葉をそのまま腹の底に仕舞っておくと、何年かたって自分のなかから染み出してきて、「あぁこのことだったのか」と分かったり、出来たりしていることがある。習うとは恐ろしいものである。


 先生に教わるときには「出来ません」「難しくて無理です」という返事はありえない。先生は私たちの進む先を見て今を指導しているのだから、生徒が拒否したら教えることが出来なくなってしまう。別の教え方をして欲しいなどというのは無いのだと思う。ときどき自分の出来ないことの言い訳をしながら、練習を続け、「先生は私に教えてくれない」と愚痴を言う人を見かけるが、愚痴を言う前に自分の姿勢を反省してみるべきであろう。
 いい矢が出たときに、「今のは良かった」と言われることがあるが、「そんなことありません・・・」とか「でも、○○がこうなんです・・・」などと返事をしている人がいる。これもおかしな態度で、遠慮か謙遜か仲間のてまえの気恥ずかしさか知らないが、先生に対して失礼である。良かったと言われたら、「有難うございます」と礼を言い、何が良かったのかを必死で考え出来たことを逃がさないよう繰り返し練習しなければならない。遠慮しているひまなどないのである。


 さて、先生との出会いは縁である。先生とめぐりあうことは習い事において最も大切なことであるが、 縁であるから「誰々先生が良い」という評判を聞き、出かけて行って先生を選ぶという事は出来そうでいて実は出来ない。もちろん立派な指導者のもとには多くの人が集まる。門下生になることは出来るかもしれないし、「私は○○先生に習った」と言うことが出来るかもしれない。しかし、「この方が私の先生でした」と言えるのとは意味が違うように思う。先生との絆というのは深いものだと覚悟しなければならないと思う。
 出会いはその人のもって生まれた運命の力に負うところが大きい。子が親を選べないように、先生との出会いを選ぶというかたちから得ることは出来ないと思うのである。
 時々「良い先生に習いたい」とか「先生が欲しい」という方がいる。地方の称号者も少ない町で一生懸命練習をしている方がそういう願いを持つのは分る。ところが、称号者も多くいる都会でも「先生が欲しい」という方がいる。それなりの思いや事情があるのだろから、否定するわけではないが、あまり言うのはいかがなものかと思う。今自分の道場で教えてくださっている方に失礼であろうし、言うひまがあるなら練習しろと思う。何より、「先生が欲しい」といい続けているとその思いにとらわれてしまい、せっかく教えていただいていてもその事に気づかず、自分を見失うことにつながる。
 先生との関係は、習うほうが先生を求めるのではなく、先生のほうが弟子を見つけるのではないだろうか。ひたすら練習し勉強していると、どこかで絆がつながって、気がついたら先生が前に立っている。先生が私を見つけてくれる。そうゆうものなのではないかと思うのである。


 先輩や同門の人たちから習うというのはどうであろうか。 こちらにも、先生に習うのと違った難しさがある。人間どうしの関係が発生するからだが、だからといって逃げてはならない。弓道は人間の世界のことだからである。道場内の人間関係をとやかく言う人があるが、この世界に生きているのだからこれも縁なのである。
 先輩や同門にも色々な人がいて、教えたがる人、知ったかぶりを言う人がいる。しかし、本当に相手を思って教えたり話をする人は少なく、教えたがる人ほど、自分の事、持論自説を言いたがっているのであって注意警戒が必要である。ひどいのになると、人が教えている横で教え始めるのがいる。こうゆう人は、自分も教えられるんだぞ、知っているんだぞということをアピールしたいのであって、相手のことを考えていない。相手を思い相手にあった内容、話し方、タイミングで教えられる人かどうかを、聞くこちらが見極めることが大事である。ここが先生に習うことと根本的に違うところである。 先生にはひたすら習えばよいのであるが、先輩同門には習うこちらの力量が必要となるのである。


 この人と話をしてみたい、アドバイスをもらいたいと思う先輩がいる。普段からその人の様子を見て、この人の話を聞きたいと思ったら、素直に聞いてみることである。「私はこうしているよ」「私は今ここに注意して練習しているよ」といった返事が自分の工夫実践を通して返ってくるようだったら良い先輩であり指導者であろう。そういう人は普段は黙って自分の練習をしていながら、人のことがよく見えていて、でも分をわきまえているのであって、そういう人こそ教えを請うと丁寧に教えてくれるものである。
 そうゆう先輩と同じ立ちで練習すると、息会いや体配にしろ、射技にしろこちらの肌にびしびし触れてくるものがある。ついて行くのが楽しかったり、レベルの差を感じて恐縮したりするが、とても良い練習になる。初心者や低い段位の人も遠慮なく一緒に立ちに入って練習すると、上達が早まる。そうゆう良い先輩は、後輩が一緒に練習してどんどん上達するのを楽しんでくれるから、遠慮はいらない。積極的に習うのが良い。


テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

道場

 道場とは仏道を修行する場であり、仏の供養をする場所です。武道ではやはり武芸・武術を修練する場所です。ですから、単に広いスペースがあって練習ができればそこは道場かというと、これは根本から違うといわなければならないでしょう。スポーツの世界でも、伝統のある試合が行われるところとか、歴史のあるチームがホームグラウンドにしているところなど、人々の思いがこもった場所があり、練習にしろ試合にしろ、感慨深く接する競技場があります。とても大切なことですが、道場という意味とはやはり違うように思います。
 私が通った道場は、先生の遺影が飾ってあり、ご縁のある先生方の書や写真が飾ってありましたが、街中にありながらもとても静かな道場で、弓の練習をしているうちに自然と集中でき、気持ちも落ち着いてくるところでした。
 道場主である先生は、私が入門する前年にお亡くなりになり、門弟の会が日常の運営をしていましたが、皆さん先生を慕い尊敬し、日々の練習の中で先生を追い求めて、自分の射を探していらっしゃいました。門弟の方のなかには、自分の地元の道場にも籍を置き、地域のリーダー的役割を担っている方も多く、道場は“弓の大学院”などと言われたりもしていました。私は他の道場は存じ上げませんし、経験も僅かですが、道場のことを考えてみたいと思います。

 
 道場に入ると、下駄箱に靴を揃えて置き、静かに挨拶をして入ります。審判席に供えてある神棚に礼をし、弓を張るなど準備をします。この間、弓友の様子を感じ、練習の集中度合いなどを肌で感じます。控えに親しい仲間がいても、いきなり世間話を始めたりなどはしません。練習中の気を乱さない大切な心得でしょう。
 私は、道場とは人の集まるところ、先生の居るところと考えています。人は道場に集まりますが、それは、目指す弓を練習し刺激しあう仲間がいるからでしょう。何時も一人で練習しているようでは寂しい道場です。そういう意味で、道場を道場たらしめるのは、そこに通ってくる人達で、門人そのものが道場だと思っています。
 弓道を専門にする道場は明治になってから建てられるようになったそうですが、三人立ちぐらいの小さな道場もあれば、ゆったりと10人が立てる広い道場もあります。でもそれは建物の大きさでしかありません。たとえば、全国にある高校の中には、道場を持たない弓道部もあります。体育館やグランドの隅で安全に気をつかいながら練習し、週に何回か市や町の道場を借りて練習に出かける。そんな練習を重ねて立派な成績を出している学校もあります。そういう生徒達にとっては体育館やグランドでも立派な道場です。建物としてしっかりした道場が無い分、一緒に練習する仲間との絆が道場としての重みを増していくと言えるのではないでしょうか。
 ある方から、高段者の方が自分の練習に集中したいあまり、他の門人をシャットアウトして道場を一人で使って練習したという話を聞いたことがあります。確かに集中したい、自分の練習をしたいという気持ちは分りますが、その方は大切なものを勘違いしているのではないかと哀しく感じました。練習時間は自分で作るものですし、高段者、称号者はいつも人に見られることをもって後輩に教え示し、またそれを自分の練習に課してゆく度量が求められていると思います。一緒に道場を利用する人たちに遠慮をさせて、その方は納得する練習が出来たのでしょうか。弓道は仁の道です。人と和してこその弓道で、どんなに称号や段位が高くても、一緒に練習する道場の仲間に助けられているという気持ちを忘れてはならないと考えます。


 さて、人が集まるには、教えをいただける先生がいることが大切です。先生という存在を論ずることはできませんが、指導を受けることの出来る喜び、見ていただいている安心感というのは、かけがいのない事だとつくづく感じています。
 私が通った道場では、門人達がひたすらに練習をしていましたが、先生への畏れ、尊敬があり、先生以外の方を決して先生とは呼びませんでした。教士や錬士が何人もいましたが、皆、○○さんと呼び合い、先生と教えを受ける者の厳格な違いがそこにはありました。
 最近では先生という言葉の意味が変わってきたように思い、残念でなりません。
 そのように大切な先生が道場そのものだと私は思っています。弓道の世界で尊敬できる先生を慕い、教えを受ける場所。それが道場でその道場を守り作って行くのは、そこに集う門人の務めなのだと考えています。先生と門人が両輪となって道場は作られていくのだと考えています。
 私達が生活している家も、住んでいる人の趣味が現れてそれぞれの個性が出てきます。道場も同じで、そこに通う人たちが、道場をどうしたいか、この道場で先生にどう教わるのかをしっかり考えていれば、思いは道場ににじみ出てくるのではないでしょうか。射会に伺った道場や、旅行をしているときにふと眼にとまった道場で「あぁ素敵な道場だな」と思うことがあります。そうゆう道場との出会いは弓人の楽しみの一つです。矢道や垜の整備が行き届いていて弓など道具が整理されて並んでいる。門人の方々が静かに楽しそうに練習をしている。そうゆう道場に出会うと、「此処の人たちは道場を大切にしているな」と嬉しくなります。
 先生が居て、慕い教えを願う弓引きが集まるところ、そこが道場です。生徒、門人は先生の教えを深くうけとめ、弓友の和を願いながら自分の射を研鑽することが大切でしょう。一人一人が道場を大切にすれば、仲間や新しい人たちも道場を大切にし真剣に向き合ってくれると思います。そうであるよう願っています。

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はじめに

 「杣人の弓道 年々歳々」にお立ち寄りいただき、有難うございます。
 当ブログは2007年春よりホームページで開設していた「弓道 寄り道 まわり道」をブログ版に移行させたものです。
 ホームページ開設後1年もしないうちに他県に転居することになり、弓道においてもそれまで経験しなかった新しい世界との出会いが始まりました。
 現在は地元の道場、各支部の弓人さんたちに指導をいただきながら時には審査や大会でお手伝をするようにとお声をかけていただいております。まさに私が入門した道場の師が「独り立ち出来る弓引き」と言われた言葉を追いかけて、弓を絆として地域の方と交わっております。

「杣人の弓道 年々歳々」はそんな私、杣人(そまびと)の弓道をブログでご紹介していくものです。ベースとなる「弓道 寄り道 まわり道」を残した部分には一部改訂加筆をしております。また、日記のようにアップ出来るブログの利便性を生かし、射会や大会、審査といった弓道生活も随時ご報告していきますので、ご笑覧いただけましたら幸甚です。

 「杣人の弓道 年々歳々」は杣人が皆様と弓道を考え楽しむために開設しております。気軽にお立ち寄りください。

 「杣人の弓道 年々歳々」は、“弓道とはこうゆうものだ”とか“弓道はこうあるべきだ”といった主張をしているブログではありません。杣人は未熟者ですので、とても人様に何かを言える人間ではありませんし、人にはそれぞれの弓道があると思っています。弓道に親しみながらも、寄り道をし、まわり道をしている杣人が、日ごろの生活や練習を通じて反省していること、思っていることを書いております。まだまだ修行途中ですから、声を小さく書いています。ある意味、自身の備忘録として書いているブログといえます。 

  「杣人の弓道 年々歳々」は、大きくは三部構成になっております。
 一部は【花相似】と題して杣人が日頃から思っていることを書いています。恥ずかしいのですが、射法射技に関することも書いています。練習で試していること、心がけていることなどを書いています。経験の深い高段者や称号者の先生方からみれば、拙いレベルにお叱りの言葉があるかもしれません。杣人を知る人が読んだら、「なんだ、あんな射をしていて・・・」とか「未熟者のくせに・・・」と渋い顔をされるかもしれません。それもこれも、杣人の弓道修行の過程とお許しいただき、お笑いいただきたく存じます。

 二部は【人不同】と題し日ごろの練習や射会、大会に参加してきた様子をご報告いたしております。地域にはさまざまな射会があり、多くの弓引きが楽しんでいます。そんな射会の様子もご紹介できたらと思っております。

 三部は【リンク集】です。弓道関係のサイトは実に数多くあります。2006年には国際弓道連盟も発足しました。海外の弓友の活動をインターネットを通じて知ることが出来る時代です。日本国内はもとより世界中で弓道を修練し、楽しんでいらっしゃる方々の活動をサイトを通じて知るのは楽しく、勉強になることも多々あります。これら、弓道に関係したサイトを可能な限り集め、整理してご紹介しております。弓道関系のサイトの総合案内としてご利用いただけましたら、大変嬉しく思います。案内サイトとしての【リンク集】ですので、掲載させていただくそれぞれのサイト様には可能な限りご挨拶のメールを差し上げる所存です。各サイトさまからも相互リンクをいただけましたら幸いです。


 どうぞ、「杣人の弓道 年々歳々」をご一緒にお楽しみください。

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