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弓道と楽しく向き合う杣人の弓道ブログ。お気軽にお立ち寄りください。

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終戦記念日の道場

金曜日から連休を利用して道場に通っていた。テーマをもって練習するのはいつもの通りだ。

11日金曜日
練習をしていたら中学生のお嬢さんとお母さんの親子が練習に来た。熱心な親子でいつも一緒に練習をしている。お母さんは春に初段をとったがお嬢さんはまだ審査を受けていない。中学生だから色々なことに興味をもって自分を見つけてゆく時期だ。その一つに弓道があれば良いと思うのと同時に、弓道でのモチベーションも高めてもう少し深いところに取り組んでもらいたいとも思う。
お母さんは初段を受けるのをきっかけに胴着のほかに弦巻やかけも購入した。そこでお嬢さんにも私から弦巻とかけを差し上げることにした。弦巻は友人から貰ったもの、かけは三つかけで経験のためにヤフオクで買ったがサイズの合わないものだ。私は四つがけを使っている。「サイズが合うようだったらあげるよ」と言って渡したらちょうどよいという。
早速そのかけで的に向かうと違和感なく引いている。これは良かったと喜んだ。

初心者は道場の道具で練習を始めるが続ける意思が固まり、審査も受けだすようになると自分の道具を購入する。大抵は先輩が一緒に行って弓具店で買うことになるのだが、かけの場合新品は手に馴染んでくるまで使い難い。中りも悪くなるとかけのせいだと思ってしまう人もあるかもしれない。弓と矢は自分のものを買うのも良いが、かけは古いもので上手な人が使っていた癖のないものを貰い受けるのが良いだろう。

12日土曜日
月例会だったので朝から出かけ参加する。お盆休みで皆家族サービスなのか6名の参加。
私は先日の県支部対抗でふがいない内容だったので、心して臨んだ。監督から大きく引けば中るのだから外れた時は引き分けが小さくなっていると思えと指摘を受けていた。それを心に唱えながら引く。
結果は 
○×○○ ○○○○ ○○○○ ○○○○ ○○○○  19/20  優勝
昨日かけを差し上げたお嬢さんも見ているとちゃんとかけが使えて、中っている。

13日日曜日
午後から出かけ監督に指摘を受けながら練習をする。弓手のブレを徹底して直す練習だがなかなかこれだというものがつかめない。先日の練習で弓手の力がすっかり抜けたのを経験しこの時は肘から先、手の内の形すらわからないくらい力が抜けていて良い感覚をつかめたと思っていたのだが、うまく再現ができない。
練習も終盤、手の力を抜くことに偏り体の開きが出来ていないことに気づき離れで体を割るように開くことを試す。監督もブレがないというし少し感触があったかと喜ぶ。

15日火曜日
朝から道場に行き垜に水をまき、的をかけ練習をする。前日が雨だったので練習をせず体を休めたが、日曜日の感触を確かめたかったのだった。ところが監督いわく体の開きがわざとらしく弓手が体から突っ込んだように見えるという。それでは駄目だ。
練習をしていたら先生がいらした。挨拶をすると、「県大会二人で出たんだって」と笑いながらおっしゃる。三人1チームのところ一人が急遽出られなくなり二人で出場したのだった。それでも予選は通過したいと思って張り切っていたのだがそれも叶わなかったのは自分たちの責任だ。
先生は「お盆なのに誰も来ないな」といつもの様に寂しそうにおっしゃりながらご自分の練習を始める。私は先生の背中を拝見しながら弓手を盗もうと目を凝らすが、先生の弓手は打ち起こしから全く形が変わらず力も見られない。離れでも少しも形が変わることがない。技を盗もうにも技が見えないのだ。

先生が私の射を見てくださっている。心の中で「私は今これをやっています」と唱えながら引くが上手くできたかなと思ったり、大失敗をしたりの練習だ。先生は「引き分けと残心で間がなかったら七段なんだけどな」なんて笑いながら仰る。離れが駄目だということだ。
先生のお話を伺いながらお茶をいただく。「教士受ける前に七段受けたらどうだ。昔はおおらかだったぞ。そのぐらいやって目立ってもいいぞ」なんて話が始まる。先生の言葉は厳しく温かい。六段を受かって報告したとき、「調子の良いうちに教士を受けろ」と仰るので「先生、今は六段とってから一年たたないと教士が受けられないんです」というと残念そうなつまらなそうな表情になる。私が六段に時間がかかったのではっぱをかけてくださっているのだろうと思っている。「先生、本気にして受けちゃいますよ」と私も苦笑いしながらお相手をする。
先生のお話は戦争の思い出に。特攻に出る先輩を見送るのがつらかった話。特攻に向かう飛行機から電信を受け信号が消えると突っ込んで亡くなっているという話。相撲が強かったので佐世保と横須賀の対抗試合に出、大分出身の国体選手に勝ち、お風呂に入りご馳走になった話。部隊に野立ちの弓道施設があり弓も沢山あり、ある士官が「俺がゆるすから引いていいぞ」と言われたが、弓の練習をしていたら殴られるのは必定なので引かなかったという話・・・。

終戦記念日の道場。先生のお話を伺いながら来年は多くの仲間と先生を囲んで練習したいと思った。


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テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

道場でのマナー 3 教える事

前回の話で「道場では教えないのがマナーだ」と書いた。道場が修行の場で一人一人が自分の練習をし課題を乗り越えていく過程で自己を発見し再構築してゆく場と考えた時、他人が口出しすることは修行の妨げとなる事が多いことを思っての話だ。
道場では先生について習い、先生を写すことから練習は始まる。先生は弟子の練習過程を見て適宜指導をするが、基本は本人が壁にぶつかりながら乗り越える様を見守る。
もちろん信頼し合う仲間とはお互いに「見てください」とお願いして指摘してもらうこともあるだろう。だがそれも「今のはこう引いていたよ」と指摘はしても、どう直せこう引けと言う事は無く、後は指摘を受けて自分でどうするかを考え練習を進める。

そうは言っても公設の弓道場で教室から弓道を始めた初心者の方には周りの人がお手伝いをしてあげなくてはならない場合もあるだろう。私はそれまでも否定しているのではない。教室で教えてくださった先生がいつもいるわけでもない。そこで、今回は教える事について、特に初心者に教える事について私の考えを書いてみたい。

まず、教えるにあたって私が最も大切にするのは相手も人格を持った立派な人間であるという事を相互に確認することだ。これは年齢は関係ない。大人も中学生や高校生も同等だ。だから、私は必ず次のような事を話す。
弓道では範士や称号をもった高段者も初心者の人もやる事は同じだ。弓道では上手になるために特別なテクニックがある訳ではない。基本に徹し正しい弓道を実践しようとするだけだ。だから高段者の人も初心者の人も全く同等でそこに差はない。一生懸命向き合う初心者はいい加減な経験者よりよっぽど立派だ。両者に違いがあるとすれば、経験の深い人はその分正しい弓道、基本に向き合ってきた時間が多い。その努力の厚みは尊重し見習わなければならない。

弓道ではひとたび射位に立ったら、あなたは主人公だ。臆することなく堂々と弓を引けばよい。

この事を必ず伝えるようにしている。

実技では見る事の大事を伝える。「先生の射を写す」と先に書いたが弓道の練習はこれに尽きる。だが普段の練習では一緒に練習する仲間の射を見て問題点を見つけたり、良い点を見つけたりと何時も射を見て考える癖をつけるようにする。ただし、初心者は最初のうちどの射の何が良くて何が悪いのか分からない事も多い。そこで実際にやって見せることが大事になる。
例えば手の内を伝える時に取懸けから始めて離れ残心まで段階を追って解説をしながらやって見せる。さらには強く握ったらどうなるのかなど悪い例もやって見せてそこに理論の説明を加える。
私は指導をするときに、基本は何なのか、なぜそれが正しい射なのかを必ず理論をつけながらやって見せる。

時には私独自の言い方で指導するときもある。例えば四重十文字というのは三重十文字と大三での矢の平行をイメージした言葉だ。教本的に言うなら三重十文字と五重十文字の組み合わせがあるのだが、初心者には難しい。ならばせめても矢を平行にしながら(鳥刺しなどにならないように)引き分ける事の大事を伝えるために私が使う言葉が四重十文字だ。
又、「握りは握るな」とも良く言うし、カケは道具だから道具の使い方を学ばなければならないとも良く言う。

こういう風に独自の言い方で説明する時もあるが、あくまで基本に徹することしか伝えない。これには二つの理由がある。一つは何処まで行っても基本が大事で、何が基本かの探究とどのような状況でも基本が出来ることが武道の本意だからだ。もう一つの理由はどんな弓人にも必ず先生がいる。私がたまたま指導したからといってその初心者さんが先生にどう習っているかは分からない。先生なら成長過程を見守りながら指導が出来るが、スポットの私の指導が初心者さんの成長を枝葉に進めては申訳ない。だから基本に徹し幹の指導に徹する。また、私が教えた事で先生の教えと違う事を言っているように聞こえて初心者さんを混乱させてしまってはいけない。同じことを教えていてもかみ砕いて分かりやすくすることに努めている。

こうゆう例があった。
打ち起こしを説明していた時に「打ち起こすと同時に肩が下がるんだよ」と言ったら、「打ち起こしたら上がった肩を息を吐いて下げると習った」と言われた。私は「それは初心者の段階だね。」と言って、私の肩背中に手をあてて触らせながら打ち起こしをやって見せて実際に打ち起こすことで肩が下がる事を示した。
また、引き分けを説明していた時に「馬手を肩にしょうように引くって言われたんです」と言われた。大きく引くための伝統的な説明の仕方で、私もそう教えられた。ただし「しょうように引く」というのは正直なところ分かり難い表現である。私は心の中で古い先生に(悪い意味ではない)教えられたなと思いながら。引き分けの時は簡単に引き下ろすのではなく、大三から左右に押し開いて引いてくれば口割についた時に自然と詰め合が出来、的にも狙いがつく事を説明した。「しょうように引く」という事を否定するのではなく同じことを別のやり方で説明したのだった。

このように練習のやり取り、会話の中からその人がどうゆう指導を受けているのかを感知して、それを否定することなく、常に基本に立ちながら分かりやすい言葉で伝えることが大事だ。また理論と結果は両輪であるから、やって見せる時には必ず理論を説明してなぜこれが正しい射なのかを理解してもらうようにする。

さて最近特に気をつけていることが二つある。
一つは私たちは常に成長の過程にあるのだということ。例えば馬手の飛びなどは良い例だろう。自然の離れという言葉も言葉は素晴らしいがそれが実現するまでは意識下での練習があっての話だ。残心の形をしっかりイメージしてそれが出来るように意識して馬手を飛ばし練習する。意識して何回も練習し、意識しなくても自然に出来るようになるまで練習しなければならない。私たちはいつもその過程にあるのだ。
もう一つは体に触るということ。弓道は体を使った運動である。その指導の中では相手の体に触ることもある。流派によっては「弓をとって教える」という言い方もする。肩に触ったり腰の位置を直したり、大三の形を直したり・・・と弓道でも体に触ることはある。
上手な指導者はすっと触っただけでどのように筋肉や骨を使ったらよいのか射手が自然と分かるように触ることが出来る。会で左腕の下筋に軽く触れられただけで弓手が伸びるのを経験した人もあるだろう。引き分けで馬手肘にすっと触って方向を示唆することもある。上手な指導者は触るのも上手だ。ただし、最近はスポーツ指導の場面にもセクシャルハラスメントの指摘が聞かれるようになった。実際不届きな人もいるのだろうが、多くはそうではない。私は体に触る時は「肩に触るよ」とか声をかけるようにしている。またそう何回も触ったりしない。セクシャルハラスメントに関しては相互の人間関係が出来ていることが大事だが本人や周りにも誤解を与えないよう、きちんとした指導理念のもと体に触ったり触らせたりしなければならない。
ところで、時に触り方の下手な人がいる。引き分けて来ている時に両肩をがっちり抑えるように触ってくる人がいたが、強く触られると当然体は反発してしまうから余計な力が働いてしまう。時には筋を痛める結果になりかねない時もある。習う側としては難しいところもあるかも知れないが、「触らないでください」と言う事も大事だ。指導する側も良く注意しなければならない。

今回は道場のマナーとして「教える」という事について私の経験から書いてみた。もちろん足りないところも多いだろう。すべてを書く事は出来ない。
道場では一人一人が修行者であることを心に刻み、経験者であろうが初心者であろうが、真面目に取り組む人は皆同等に敬意をもって接しあわなければならない。だから教えるという時にも相手への敬意を忘れず、決して段位が上だから経験が長いからといって尊大になることなく、一緒に学ぶ仲間として向き合わなければならない。そうゆう意味ではパワーハラスメントなどは本来あるはずがない。

道場では教えたがらず、求められた時には拒むことなく、自分で考える余裕を残しながら教えるのがマナーだと思っている。
道場で一人一人が自分の弓道を探して練習をしている。その一人一人が仲間となってお互いを見、切磋琢磨して向上していく時間は本当に素晴らしく気持ちの良いものだ。練習の終わった爽快感、満足感は何事にも替えがたいもので弓人の誰しもが経験している。時に教え、指導にあたることがあっても、弓道で学ぶ人間に敬意をもつことを忘れてはならない。



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ジャンル : スポーツ

道場でのマナー 2

前回、思うところがあって道場でのマナーについて書いてみた。最近では個人道場が減りほとんどの方が公設の弓道場を利用するようになったことにより道場でのマナーも誰がどのような基準で教えていったらいいのかという事が曖昧になっているように思う。だがこれも公設の道場がいけないということではなく、利用するグループの指導者が規範を示せばよい事である。公設の道場という事でいうならば、施設管理という問題も関係してくる。前回垜直しや的張りも修行だということを書いた。ところが最近は施設管理を任された業者が垜整備や的張もしてくれる。矢道の草取りや垜整備は時間で道場を利用するものにとっては難しいところもある。だが、的紙も貼ったことが無い弓引きというのもなんだか可笑しい。最近ではテープで張る事も多くなりそれはそれで時代の移ろいなのかとも思うが糊のきいたピンと張った的が出来た時の楽しさはどこへ行ったのだろう。さらに言えば的の表裏や的枠を削る事も知らない方がいる。自分で穴をあける的なのだから的張は弓引きの基本の作業なのだがそれが出来ない道場とはいかがなものかと思う。的張をするごとに的に対する感謝の心が芽生えてくるものなのだが、今の人はどうなのだろうか。

さて、道場でのマナーとして具体的に列挙しながら書いてみようと思う。社会人としての生活マナーは最低限として、前回書いたように道場というのが教えを学び悟道を得るための修行の場所であること。一人一人が自己を解体し新しい自分を造り上げる自己創造の場であることが考え方の基本だ。

道場に来たら、声を出して挨拶をし靴を脱ぎ下駄箱に預ける。下駄箱が無いときは次に来る人の事を考え適当なところに出船に揃えて置く。控えの部屋の位置にもよるが、一旦道具を置き練習をさせて頂きますという気持ちで礼をする。この時上座の順位は神棚、国旗、審査席の上座である。
礼の後はまず弓を張る。最近はグラスの弓など張ってすぐ引き始める向きもあるが、竹弓はこうはいかない。張って形を整えて着替えなどをしているうちに形を馴染ませる作業が必要だ。だから何より先に弓を張る。道具の扱いを学ぶのも修行だ。
既に練習が始まっている場合は立順など流れを確認して仲間に入れてもらうが、自分が道場を開けた場合は雨戸や窓などを開け空気の入れ替えをし、必要に応じて床を掃いたりする。垜に水をかけ均し的をかける。こんなことをしていると30分ぐらいたつからもう一度弓の形を確認したりして胴着に着替える。
最近は更衣室がある処もあるが、古い道場は更衣室がない。私も以前帯を締め直そうとして女性部員に注意されたことがあった。男尊女卑の性差別やセクハラ問題にもなるので、着替え一つも気を使い更衣室の無い道場では「着替えさせてもらいます」と声をかけて後ろの方で手早くやるのが良いだろう。

さて、練習ではその道場の慣習的決まりがある。私が習い始めた道場は五人が立ち大前が矢取に行くと落に新しい人が入る。休みたい時でも必ず矢取に行ってから「休みます」と声をかけて休む。人数が多くなると五人立ちが何組か出来るのだが、立に入らない人は控えに上がり他の人の射を見る。良いところ、悪いところ色々見て考える。だから控えで休んでいてものんびりなどしていられない。人とおしゃべりをしていても目だけは道場を向いて好きな先輩の射を見てこうゆう射をしてみたいと思ったものだ。
ところが当地に越してきたら勝手が違った。立を回してゆくことはあるが何時もという訳ではない。引き終わった人が「私が行ってきます」と言って矢取に行っている。悪い事ではないが毎回毎回「私が行く」と少々騒々しい。その時の利用者の人数にもよるだろうが、立を組んで回ることがないとしても、黒板に名前を書いて矢取の順番を決めておくのも一つだろう。

さて昔私が習い始めた頃は道場で何処に立つかはその道場のルールがあるから注意しろと教えられた。落は先生の場所だから先生が居ても居なくても開けて置くように、逆に大前が先生の位置だから・・・というところもあった。幸い私の道場では五人立ちの全てを会員が使っていたが、今の道場では大前が先生の場所だ。
立を組んでいる場合は問題がないがバラバラに立っている場合に開いているところに入れてもらうのにもマナーがある。立つところの後ろの人が胴造りを始めたら遠慮するべきだ。気息を整えている最中に目の前の入って来られるのはよろしくない。一立見送って次を待とう。

矢取に行ったら道場の方を見て全員が射終わったのを確認してから旗を出し声をかけるなりブザーを鳴らすなりして矢取を行う。安全確認は最低限のマナーだ。矢を抜くときは後ろの方の的から前の方の的に向かって進む。決して的の前から矢を抜く事はない。これは上座にお尻を向けてしまうからだ。抜くときも的に手を添え、矢を矢筋に抜く。立ったまま抜いたりしてはいけないのは矢をななめに抜いてノに負担をかけないためだ。抜き方が雑な場合に筈に土がついて戻ってくるときもある。もし的枠に矢が刺さってしまいその場ですぐ抜くのが難しい場合は的ごと外して看的小屋運び新しい的に交換する。看的小屋でも時間がかかるくらい難しいようだったら遠慮せずその矢の射手を呼び自分で抜いてもらう。ジュラ矢だって無理をすれば曲がるし、高級な竹矢だったら故障させたらお互いに気持ちが悪い。本人の自己責任で対処してもらうのがルールだ。
抜いた矢は地面につけて矢先を揃えたりしてはいけない。矢を拭くときはノだけでは無く矢尻(板付)も丁寧に砂を落とす。この時良く見ようとの気持ちからから矢尻を目の高さに持ってくる人を見かけるが危険だから矢尻は必ず下を向けて拭く。矢は羽を上にして左手でノを右手で矢尻を隠し持ち羽を矢道の方を向けて持ち帰る。決して片手でぶらぶらさせながら持ち帰ってはいけない。矢立てに戻す時も音がしないよう静かに置き、その後筈や羽を確認して仕訳する。筮竹のようにかちゃかちゃ音を鳴らしながら仕訳してはいけない。

控えで休んでいたり射場で順番を待っている時にもマナーは必要だ。畳敷きの控えでは正座とは言わないが体育座りや横になるのはよろしくない。私は風邪を引いた時に思わず横になったら先輩女性に叱られたことがあった。控えで世間話をしてはいけないとは言わない。今の道場は年配者の社交場の様子もある。何がなんでも真面目にということでは無い。しかし下品な話や人のうわさ話など長々として止まらない人もいる。道場が修練の場である事、自分の欠点を見詰め鍛え直すところという事を肝に銘じて、話好きの人なら口を閉じる努力をするのも練習だ。だいたい道場に来るときは今日はこの練習をしようと課題を持ってくる。それを毎回の射で上手く出来たり出来なかったり、意識してたり忘れていたり・・・といつも考えて練習しているから世間話などしている暇がないはずだ。話をしたいときはその話が今道場で相応しいかどうかを一度考えてから話すようにすると良い。
さて、道場で一番困りものなのが教えたがりの人間だ。まず、一人一人が課題を持って道場に来ているのだから(そうでないならそれこそ勝手に引いていれば良いのだ)他人がとやかく言う事ではない。弓引きは先生の射を写すことから練習を始め少しづつ自分の工夫を加えて練習を繰り返す。ところが時々今のはどうだ今度のはこうだと一射ごとに指摘する人がいるがこれは練習の妨げになりこそすれ指導には全くならない。射手は自分の射を自らで考え見つけなければならないが一本一本指摘されていたら考える暇もない。教えたがりの人はその言葉が自分の心のどこから出ているのかを反省するのが良い。自分が段位が上だったり経験があるからと不遜になっていないだろうか。教えることで自己満足になっていないだろうか。だから道場では教えないのがマナーの基本だ。だいたい教えられて上手くなるなんていうのは無い。壁にぶつかり乗り越えて自分で見つけるしかないのだ。
そう考えてくると控えから降りた道場では一人一人が真剣に自分の射に取り組んでいるはずだから道場でおしゃべりが起こる方が不思議だ。

最後に、射手の後ろに立って見てはいけないと教えられる。射手の後ろは何処だろうか背中だろうか。先生と一緒に立って背中から拝見し勉強することは良くある。射手の後ろというのは勝手側で矢筋を見ることだ。もちろん練習で仲間の人に狙いを確認したいから見てくれとお願いする場合はある。この時頼まれた人は弓の弦、矢の筈、弓手の運行と観ながら射手がどのように的に狙いをつけているのかを見て指摘する。しかし頼まれもしないのに矢筋や狙いを見ることは大変失礼なことだ。ところがこれを平気でやる人がいてどうしたものかと思う。
現代の弓道でどう考えるかはあるが、弓矢は戦場で相手を殺傷する道具である。当然射手それぞれに技量があり、その技量を知られることは自らの生死に直結する大事である。強弓を弱弓のように引くというのも技量を隠す技をいったものだ。射手が的に立って引いている時に勝手に狙いや矢筋を見ることは射手の技量を探る事であり生死の首根っこを押さえたに等しい行為なのだ。だから同じ同門の道場であったとしても仲間の射手の後ろに立って見てはいけない大変失礼な行為として教えられ、後ろに立って見るなと言われる。

さて色々と書いてしまったが私も全てを実践出来ている訳でもない。おしゃべりもするし時には指導もする。だがそのベースにあるのは相手への尊敬と正しいことを知って欲しいという願いだ。私が今回書いたことは先生や先輩から習った事ばかりだ。道場の環境が大きく変わりつつある現在ではこうゆう事だよと教えても根底にある理屈が分からないと教えは生き残っていかない。私自身これからも学んでゆくが、同じように学んでいる弓仲間とともに道場をすこしでも清々しい学びの場として造り上げてゆくことを目指したい。

テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

道場でのマナー

最近あることを切っ掛けに道場でのマナーということを考えている。
中学生や高校生のように学校の部活として弓道を始める人は先生や先輩の教えが絶対であるから学生の間はそれに従いつつ考えて行けばよいだろう。私は学生弓道の経験が無いからそれを論じるつもりはない。たまに学生と一緒の射会を経験することがあり注意が必要かなと思うことがあって言う事もあるが、先輩や先生にどう習っているのかを聞きながら話をするようにしている。

今回私が心配に思っているのは弓道教室などで新しく習い始めたり、昔やっていたけどもう一度という方たちの弓道マナーについてだ。もちろん弓道教室でも道場のマナーというのは教えるだろう。服装であったり立ち居振る舞いであったり、練習中のマナーもある。ところが大人になると自分の態度というのはなかなか直すことが難しく、こうゆうものだと教えても教えたすぐそばから悲しい事になっている。人それぞれの性質というのもあるだろうが、私は道場というのがどうゆう所かという根本への理解が出来ていない事と、自分を正しい姿に規制し作り直してゆこうという心構えが無いからだと思っている。

いきなり難しい事を言うようで恐縮だが、弓道を学ぼうと思った人たちは道場という言葉の意味を考えた事があるだろうか。体をつかって弓を引き的に中てる。的中制の競技も盛んだから弓道は中りを競うスポーツだと思って始める方もいるだろう。だが、それは弓道の一面でしかない。私は個人道場で弓道を始めたから全てを道場の先輩に教わってきた。神棚への礼から始まり控えの畳の上での姿勢態度、会話、道場に降りたら会話を慎み、特に射位に立ったら話をしないといった事を教えられた。慣れてしまえばなんでもないことだし道場として理にかなった事だという事が後から分かり納得できることばかりだ。

道場には剣道場や柔道場というように武術を研鑽する場所という意味とお寺で仏教を学ぶ修行の場所という意味もある。特にお寺の道場と比べてみると弓道の道場は近いものがあると私は考えている。仏教が仏の教えを学び悟りの道を得ようと修行するのと同じように、弓道でも相手は的だけで、その的に向かった自分が練習を重ねる中で的さえも忘れようとする。弓矢をもって的に中てるのなら他の競技でも良いだろうが弓道の場合は弓矢も的も自分さえも消そうと努力する。そうゆう射の練習と同時に自分と向き合う修行をするところが弓道場なのだと思っている。道場の掃除をしたり、的張をしたり、垜を直したり・・・というのは全て修行のためにやっていることなのだ。
そうゆう道場の中で、例えばだが大きな声で話したり、射位に立っても話し続けていたりしたら真剣に練習している人の妨げになる。話をしたいのなら畳の控えに上がって声を抑えて話をすればよい。その時も世間話がいけないとは言わないが、品の無い話を長々とするものではない。せっかく道場にいるのだから自分を澄ましの中に置き、心静かになるように過ごすのが良いであろう。
ある道場では矢取から帰ってきた人に「有難うございます」と礼を言っているがこれだって射位に進んだ人間は云う必要は無い。だいたい射位で言葉を発していれば射の呼吸が変わり練習にならない。(もっとも私も射を説明しながら引くことがあるが、これは例外の話)
これから夏になり足袋を履いて練習するのは暑いと思う人もあるかも知れないが汗をかき足あとを道場に付けるのは他の利用者に対して大変失礼な行為だ。靴下を履いて道場に来て足袋に履き替えて練習をするというのは他人に気遣う当然の配慮だ。
道場によっては胴着ではなくティーシャツや運動着でも良いというところもあるかもしれない。初心者ならいざ知らずだが、胴着を着るのが望ましいのは胴着と袴を着用しているから分かる所作というのがあるからだ。帯をしっかり締めることにより体配、呼吸の大事が理解できる。骨盤ではないズボンのベルトでは全く意味をなさない。

このように道場に於いては服装、立ち居振る舞い一つ一つに意味がありそれを習い実践することが自分自身の修行につながる。たとえ私はそこまで弓道を考えていないという人がいたとしても、道場ではそうゆう心で弓道を学んでいる人がいるのであるからその人に迷惑のかかることはしてはいけない。最低限のマナーを身につける必要がある。
道場では自分の欠点を見詰め、正しい姿、正しい心を探して自分を作り直してゆくことが大事だ。その見詰め直し作り直した自分が実生活でも役に立つというのが「射即人生」だ。
正しい道場の使い方、道場のマナーを学び人生を豊かにしてゆきたい。



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『射道芸術の探修』 武市義雄 続

『射道芸術の探修』 武市義雄 を読み備忘録のつもりでその内容について記した。ただし「射芸の修行」に重点が置かれていたので本書の他の部分についてはあまり記すことが出来ていない。そこで今回は審査課題論文のテーマに関係のある部分を中心に記しておきたいと思う。


「無発の発について述べよ」
元来は、術技や心術面の秘伝の中から源流を発し、禅思想の影響によって禅公案の「未発の発」を取り入れ、更に哲学的な観法が加味されるに至ったものである。一方この流れとは別に元禄末期頃に森川香山という弓哲が現われ、神道思想を根底とした弓術一派が竹林系統の別流として誕生した。これが大和流で香山は開祖である。香山が「唯授一人」(唯一人に授く)として遺した『日本流神明射儀』に「此大事を射させんとて、推手は虎尾にさわるごとく、勝手は嬰児を抱がごとしといひ、或は、紅葉がさね、朝嵐、真の角見、高山に車をおす、寒夜に霜をきくなどといふのおしへも、心気のすはりをいさせん為也。其の心気のすはりを安定にせんと思はば、無発の射、無矢の発射をなすべし。」という記述がある。

森川香山の「無発の射」「無矢の発射」と唱えられた射道哲学が阿波研造範士の「無発の発」の思想とどう連がっているのだろうかという点は、私(著者)も判らない。しかし、阿波先生が心師と仰がれた梅路見鸞老師は「無影心月射義」の中で「不発の発」を論じている。森川香山は神道思想を中心に儒仏の思想を織り交ぜて大和流弓術を大成した。梅路見鸞老師は禅家の出でその思想背景は禅に発している。
阿波研造先生は神官職にあったこともあり、思想系統は二人の流れを汲んでいるように思う。


「射品射格の向上を図るためにどのような修練が必要か述べよ」
現代の弓界では「射品」ということが問題になる。「気品の高い射風」「露堂々としたる射風」「格調高く重厚な射容」「蒼勁枯淡の射品」「風格のある射相」とかこれらの語はすべて「射品」という概念の中に含まれる「観る人」の情感である。
五段以上ともなれば指導層に列する人士としての認許審査であるから、その品位が問われるのも当然で、「人の師たるに応わしい品位の有無」が判定認許の一要件となる。そこで正射正中の射業そのものの外に、何が問われているかということを深く省察してみる必要がある。特に「人間評価」の問題として「射品」とか「射格」ということをより一層深く掘り下げて哲究自省するところがなければならない。
射品評価を考える時、一定の「格付け基準」とか「上下の枠」のような具体的な物差しがあるものではない。しかも審査で不合格になったとしても「自分の否をどこにあるのか言ってください」と訴えることは出来ず、結局は本人自身が反求自省し出直すより救いの道はなく、その反求自省の器量に欠け自ら救い上げる力のない者はそこに止まるより仕方ない。そこで大事なのは「心の姿勢」の立て方になり、技の修練向上と共に「心」が錬られ「体」に備わりがついてこなければならない。自分で自分を見詰めて自分を錬り上げて行く気概をもたなければならないのである。「自分で自分の器量に磨きをかける」という心意気と情魂が、直ちに自分の「射品」「射格」の高揚に、ひいては自分の人間性を高める全人格的進展に連がっていることを、自分で見直さなければならない。

射品の錬成の対策として以下にあげる。
「心事(心から事(つか)える)する師のある者は、その師の薫陶を受けるよう、一層心を引き締める」
「師事するに足るような師を持たぬ者は、自分でその心になり、自律の道を行け」
「射道修練に哲学を持て。識見を養え。射道生活に表裏、光影をつけるな」
「日頃の稽古法を見直せ。競射技術の錬磨だけが射道ではない。百発百中の錬度をもつことは、必ずしも射の善たるものではなく、その外にもっともっと修すべきものがあることを識れ」
「独りを慎しむ心を忘れるな」
「無識無学の射に遊ぶな」
「射品というものは、造作造業の、見せようとするつくりごとや虚仮の仕業で飾れるものでない。虚と実ということを識れ」
「射品の本質は実の行より生まれ、誠を追求する心根より実りが出る」
「付焼刃より、しつけが大事。射品は庭訓から胎動を始めるものぞ」
「老犬馴らし難し。自律の心なく力と器量なき者は、長養叶わざるものと知れ」
「人の器は、鋳型にはめて造り上げるようなものではない」
「射礼の稽古を怠るな。礼射は身心技錬磨の最捷径の良策、これで実際的に射品の何たるかを自他共に学ぶのである」
「尊敬する先輩や先覚者の射風から、模索の方途と実際を観て学び取れ」

「射品」というのは外形的なことのようであって実は「心」に本源がある。外見を飾る助平根性は捨て分相応の身なりを整え、弓道人たる気品を内に貯え、露堂々たる風格と気高き心性を常に自ら養い、身に備えることを第一義に弁えることであろう。「自分の射に哲学的美学的感覚を植え込む心情から、射品が醸し出される」ことを深く認識することである。

「君、看よ、双眼の色、語らざれば、憂無きに似たり」


「気迫の錬成について」
「気迫」という言葉は「何ものにも屈せず立ち向かって行く強い精神力」の意である。堂々としてあたりを払う射容が、「射品」を決定する要訣であることは言うまでもない。そうした「気迫」とか「演技の迫力」というのはどこから出るのか。その根元を探りさらにその錬成についてどう考えるべきだろうか。
「気迫の充満」は「素養の充実から来る自信」と「強靭な信条」に発する。自己のもつ「射道修行に関する哲学」に根を張り、「安定したる心」と「自分の技術に対する不安なき心境」が生み出した境涯、これが自信の根元であり、これが陰となり陽となって「気迫」を醸成し、「演技の迫力」を創る。
「強靭な信条」を堅持することも「気迫」の源泉となる。「自分の射業はこうなんだ」という確固とした拠りどころをもって臨むのである。「未完成であるが、自分の持つ射芸の凡てを誠をつくして演技するぞ」という覚悟に立つことである。「自分なりに、自分はここまで修練に修練を積んで来た。天地の鬼神も、幽界・現世の先賢も、眼をすえて自分の射芸を照覧し給え」とでも言うように、自己の心中に内観するのである。これが気迫の根元をなすのであって、その場かぎりで俄か造りの虚仮の身振りや動静などで「迫力」が伴うはずがない。その錬成は、このような確信を持ち得るように日頃から自分自身で養うて行くのである。


「射行の修練が人間形成に及ぼす影響について」
弓道を修めるということは、射という行為を通じて、自己の身心に潜む未熟不備の隙を見詰めて、これを皆無に近づけんとする自己との闘いである。この「われに克つ」という修練が至難の業ごとであるが、それを念じつつ日々の稽古に励むという而今の修行の一瞬が尊いのである。「而今」とは過去、現在、未来のうち、過去から未来への転機の一瞬そのままが現在であるという観じとり方である。
実際の場面に想いを移すと、立居振舞の一瞬一事に、即ち、気おくれ、心気の動揺、妄想雑念、による心の隙や心の弛み、技の停滞遅速、体の不安定、構えの不備による隙などに自分の心眼を向ける。その一切一事に「自分の心眼で隙を咎める修行と稽古を積む」ということになる。こんな考え方で常に弓を稽古するなら、誰であれ、その人間性を向上することになるのではないか。
弓は至高の日本的心の表現芸術である。射は正に「人間形成の学道」であり、「終着点のない修行ごと」である。


以上今回は『射道芸術の探修』武市義雄著から八段、教士、七段の論文審査に出される課題に焦点をあて参考となる処を記してみた。読むほどに自分の弓道への取り組みを反省させられ冷や汗の出る思いであるが、このような教えに接することの出来ることは有り難い。
「気迫の錬成について」というのは審査論文に出ているかどうか知らないが、審査に臨む姿勢として大切な心構えだと私は思っていて、私自身も審査を受ける弓仲間にはいつも言っている内容であるのでここに記した。

さて、二回にわたって『射道芸術の探修』を読み記してみたが、改めて弓道修行の指針となる素晴らしい本だと思う。著者の武市義雄範士は私が弓道を始める前、昭和52年9月に亡くなっているのでお目にかかったことも無いのだが、本書を監修をされた福原郁郎範士は私が東京で弓を引いていた時分に何回かお目にかかったことがあった。小柄な先生だがそれこそ隙のない厳しい緊張感を身にまとっていたのを覚えている。
本書の中に私が通っていた道場の話題が登場し、安沢先生の追悼射会で「無心」という書を染め抜いた弓袋を記念品として出したことも書かれている。この本は私にとって縁のある本だったと読了してしみじみと思った。

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