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杣人yumi

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弓道と楽しく向き合う杣人の弓道ブログ。お気軽にお立ち寄りください。

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道場でのマナー

最近あることを切っ掛けに道場でのマナーということを考えている。
中学生や高校生のように学校の部活として弓道を始める人は先生や先輩の教えが絶対であるから学生の間はそれに従いつつ考えて行けばよいだろう。私は学生弓道の経験が無いからそれを論じるつもりはない。たまに学生と一緒の射会を経験することがあり注意が必要かなと思うことがあって言う事もあるが、先輩や先生にどう習っているのかを聞きながら話をするようにしている。

今回私が心配に思っているのは弓道教室などで新しく習い始めたり、昔やっていたけどもう一度という方たちの弓道マナーについてだ。もちろん弓道教室でも道場のマナーというのは教えるだろう。服装であったり立ち居振る舞いであったり、練習中のマナーもある。ところが大人になると自分の態度というのはなかなか直すことが難しく、こうゆうものだと教えても教えたすぐそばから悲しい事になっている。人それぞれの性質というのもあるだろうが、私は道場というのがどうゆう所かという根本への理解が出来ていない事と、自分を正しい姿に規制し作り直してゆこうという心構えが無いからだと思っている。

いきなり難しい事を言うようで恐縮だが、弓道を学ぼうと思った人たちは道場という言葉の意味を考えた事があるだろうか。体をつかって弓を引き的に中てる。的中制の競技も盛んだから弓道は中りを競うスポーツだと思って始める方もいるだろう。だが、それは弓道の一面でしかない。私は個人道場で弓道を始めたから全てを道場の先輩に教わってきた。神棚への礼から始まり控えの畳の上での姿勢態度、会話、道場に降りたら会話を慎み、特に射位に立ったら話をしないといった事を教えられた。慣れてしまえばなんでもないことだし道場として理にかなった事だという事が後から分かり納得できることばかりだ。

道場には剣道場や柔道場というように武術を研鑽する場所という意味とお寺で仏教を学ぶ修行の場所という意味もある。特にお寺の道場と比べてみると弓道の道場は近いものがあると私は考えている。仏教が仏の教えを学び悟りの道を得ようと修行するのと同じように、弓道でも相手は的だけで、その的に向かった自分が練習を重ねる中で的さえも忘れようとする。弓矢をもって的に中てるのなら他の競技でも良いだろうが弓道の場合は弓矢も的も自分さえも消そうと努力する。そうゆう射の練習と同時に自分と向き合う修行をするところが弓道場なのだと思っている。道場の掃除をしたり、的張をしたり、垜を直したり・・・というのは全て修行のためにやっていることなのだ。
そうゆう道場の中で、例えばだが大きな声で話したり、射位に立っても話し続けていたりしたら真剣に練習している人の妨げになる。話をしたいのなら畳の控えに上がって声を抑えて話をすればよい。その時も世間話がいけないとは言わないが、品の無い話を長々とするものではない。せっかく道場にいるのだから自分を澄ましの中に置き、心静かになるように過ごすのが良いであろう。
ある道場では矢取から帰ってきた人に「有難うございます」と礼を言っているがこれだって射位に進んだ人間は云う必要は無い。だいたい射位で言葉を発していれば射の呼吸が変わり練習にならない。(もっとも私も射を説明しながら引くことがあるが、これは例外の話)
これから夏になり足袋を履いて練習するのは暑いと思う人もあるかも知れないが汗をかき足あとを道場に付けるのは他の利用者に対して大変失礼な行為だ。靴下を履いて道場に来て足袋に履き替えて練習をするというのは他人に気遣う当然の配慮だ。
道場によっては胴着ではなくティーシャツや運動着でも良いというところもあるかもしれない。初心者ならいざ知らずだが、胴着を着るのが望ましいのは胴着と袴を着用しているから分かる所作というのがあるからだ。帯をしっかり締めることにより体配、呼吸の大事が理解できる。骨盤ではないズボンのベルトでは全く意味をなさない。

このように道場に於いては服装、立ち居振る舞い一つ一つに意味がありそれを習い実践することが自分自身の修行につながる。たとえ私はそこまで弓道を考えていないという人がいたとしても、道場ではそうゆう心で弓道を学んでいる人がいるのであるからその人に迷惑のかかることはしてはいけない。最低限のマナーを身につける必要がある。
道場では自分の欠点を見詰め、正しい姿、正しい心を探して自分を作り直してゆくことが大事だ。その見詰め直し作り直した自分が実生活でも役に立つというのが「射即人生」だ。
正しい道場の使い方、道場のマナーを学び人生を豊かにしてゆきたい。



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『射道芸術の探修』 武市義雄 続

『射道芸術の探修』 武市義雄 を読み備忘録のつもりでその内容について記した。ただし「射芸の修行」に重点が置かれていたので本書の他の部分についてはあまり記すことが出来ていない。そこで今回は審査課題論文のテーマに関係のある部分を中心に記しておきたいと思う。


「無発の発について述べよ」
元来は、術技や心術面の秘伝の中から源流を発し、禅思想の影響によって禅公案の「未発の発」を取り入れ、更に哲学的な観法が加味されるに至ったものである。一方この流れとは別に元禄末期頃に森川香山という弓哲が現われ、神道思想を根底とした弓術一派が竹林系統の別流として誕生した。これが大和流で香山は開祖である。香山が「唯授一人」(唯一人に授く)として遺した『日本流神明射儀』に「此大事を射させんとて、推手は虎尾にさわるごとく、勝手は嬰児を抱がごとしといひ、或は、紅葉がさね、朝嵐、真の角見、高山に車をおす、寒夜に霜をきくなどといふのおしへも、心気のすはりをいさせん為也。其の心気のすはりを安定にせんと思はば、無発の射、無矢の発射をなすべし。」という記述がある。

森川香山の「無発の射」「無矢の発射」と唱えられた射道哲学が阿波研造範士の「無発の発」の思想とどう連がっているのだろうかという点は、私(著者)も判らない。しかし、阿波先生が心師と仰がれた梅路見鸞老師は「無影心月射義」の中で「不発の発」を論じている。森川香山は神道思想を中心に儒仏の思想を織り交ぜて大和流弓術を大成した。梅路見鸞老師は禅家の出でその思想背景は禅に発している。
阿波研造先生は神官職にあったこともあり、思想系統は二人の流れを汲んでいるように思う。


「射品射格の向上を図るためにどのような修練が必要か述べよ」
現代の弓界では「射品」ということが問題になる。「気品の高い射風」「露堂々としたる射風」「格調高く重厚な射容」「蒼勁枯淡の射品」「風格のある射相」とかこれらの語はすべて「射品」という概念の中に含まれる「観る人」の情感である。
五段以上ともなれば指導層に列する人士としての認許審査であるから、その品位が問われるのも当然で、「人の師たるに応わしい品位の有無」が判定認許の一要件となる。そこで正射正中の射業そのものの外に、何が問われているかということを深く省察してみる必要がある。特に「人間評価」の問題として「射品」とか「射格」ということをより一層深く掘り下げて哲究自省するところがなければならない。
射品評価を考える時、一定の「格付け基準」とか「上下の枠」のような具体的な物差しがあるものではない。しかも審査で不合格になったとしても「自分の否をどこにあるのか言ってください」と訴えることは出来ず、結局は本人自身が反求自省し出直すより救いの道はなく、その反求自省の器量に欠け自ら救い上げる力のない者はそこに止まるより仕方ない。そこで大事なのは「心の姿勢」の立て方になり、技の修練向上と共に「心」が錬られ「体」に備わりがついてこなければならない。自分で自分を見詰めて自分を錬り上げて行く気概をもたなければならないのである。「自分で自分の器量に磨きをかける」という心意気と情魂が、直ちに自分の「射品」「射格」の高揚に、ひいては自分の人間性を高める全人格的進展に連がっていることを、自分で見直さなければならない。

射品の錬成の対策として以下にあげる。
「心事(心から事(つか)える)する師のある者は、その師の薫陶を受けるよう、一層心を引き締める」
「師事するに足るような師を持たぬ者は、自分でその心になり、自律の道を行け」
「射道修練に哲学を持て。識見を養え。射道生活に表裏、光影をつけるな」
「日頃の稽古法を見直せ。競射技術の錬磨だけが射道ではない。百発百中の錬度をもつことは、必ずしも射の善たるものではなく、その外にもっともっと修すべきものがあることを識れ」
「独りを慎しむ心を忘れるな」
「無識無学の射に遊ぶな」
「射品というものは、造作造業の、見せようとするつくりごとや虚仮の仕業で飾れるものでない。虚と実ということを識れ」
「射品の本質は実の行より生まれ、誠を追求する心根より実りが出る」
「付焼刃より、しつけが大事。射品は庭訓から胎動を始めるものぞ」
「老犬馴らし難し。自律の心なく力と器量なき者は、長養叶わざるものと知れ」
「人の器は、鋳型にはめて造り上げるようなものではない」
「射礼の稽古を怠るな。礼射は身心技錬磨の最捷径の良策、これで実際的に射品の何たるかを自他共に学ぶのである」
「尊敬する先輩や先覚者の射風から、模索の方途と実際を観て学び取れ」

「射品」というのは外形的なことのようであって実は「心」に本源がある。外見を飾る助平根性は捨て分相応の身なりを整え、弓道人たる気品を内に貯え、露堂々たる風格と気高き心性を常に自ら養い、身に備えることを第一義に弁えることであろう。「自分の射に哲学的美学的感覚を植え込む心情から、射品が醸し出される」ことを深く認識することである。

「君、看よ、双眼の色、語らざれば、憂無きに似たり」


「気迫の錬成について」
「気迫」という言葉は「何ものにも屈せず立ち向かって行く強い精神力」の意である。堂々としてあたりを払う射容が、「射品」を決定する要訣であることは言うまでもない。そうした「気迫」とか「演技の迫力」というのはどこから出るのか。その根元を探りさらにその錬成についてどう考えるべきだろうか。
「気迫の充満」は「素養の充実から来る自信」と「強靭な信条」に発する。自己のもつ「射道修行に関する哲学」に根を張り、「安定したる心」と「自分の技術に対する不安なき心境」が生み出した境涯、これが自信の根元であり、これが陰となり陽となって「気迫」を醸成し、「演技の迫力」を創る。
「強靭な信条」を堅持することも「気迫」の源泉となる。「自分の射業はこうなんだ」という確固とした拠りどころをもって臨むのである。「未完成であるが、自分の持つ射芸の凡てを誠をつくして演技するぞ」という覚悟に立つことである。「自分なりに、自分はここまで修練に修練を積んで来た。天地の鬼神も、幽界・現世の先賢も、眼をすえて自分の射芸を照覧し給え」とでも言うように、自己の心中に内観するのである。これが気迫の根元をなすのであって、その場かぎりで俄か造りの虚仮の身振りや動静などで「迫力」が伴うはずがない。その錬成は、このような確信を持ち得るように日頃から自分自身で養うて行くのである。


「射行の修練が人間形成に及ぼす影響について」
弓道を修めるということは、射という行為を通じて、自己の身心に潜む未熟不備の隙を見詰めて、これを皆無に近づけんとする自己との闘いである。この「われに克つ」という修練が至難の業ごとであるが、それを念じつつ日々の稽古に励むという而今の修行の一瞬が尊いのである。「而今」とは過去、現在、未来のうち、過去から未来への転機の一瞬そのままが現在であるという観じとり方である。
実際の場面に想いを移すと、立居振舞の一瞬一事に、即ち、気おくれ、心気の動揺、妄想雑念、による心の隙や心の弛み、技の停滞遅速、体の不安定、構えの不備による隙などに自分の心眼を向ける。その一切一事に「自分の心眼で隙を咎める修行と稽古を積む」ということになる。こんな考え方で常に弓を稽古するなら、誰であれ、その人間性を向上することになるのではないか。
弓は至高の日本的心の表現芸術である。射は正に「人間形成の学道」であり、「終着点のない修行ごと」である。


以上今回は『射道芸術の探修』武市義雄著から八段、教士、七段の論文審査に出される課題に焦点をあて参考となる処を記してみた。読むほどに自分の弓道への取り組みを反省させられ冷や汗の出る思いであるが、このような教えに接することの出来ることは有り難い。
「気迫の錬成について」というのは審査論文に出ているかどうか知らないが、審査に臨む姿勢として大切な心構えだと私は思っていて、私自身も審査を受ける弓仲間にはいつも言っている内容であるのでここに記した。

さて、二回にわたって『射道芸術の探修』を読み記してみたが、改めて弓道修行の指針となる素晴らしい本だと思う。著者の武市義雄範士は私が弓道を始める前、昭和52年9月に亡くなっているのでお目にかかったことも無いのだが、本書を監修をされた福原郁郎範士は私が東京で弓を引いていた時分に何回かお目にかかったことがあった。小柄な先生だがそれこそ隙のない厳しい緊張感を身にまとっていたのを覚えている。
本書の中に私が通っていた道場の話題が登場し、安沢先生の追悼射会で「無心」という書を染め抜いた弓袋を記念品として出したことも書かれている。この本は私にとって縁のある本だったと読了してしみじみと思った。

テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

『射道芸術の探修』 武市義雄

『射道芸術の探修』武市義雄著を図書館から借りて読んだのでその感想を記しておこうと思う。この本は1979年に初版が、2001年に新装版が出版されているが、まだ入手していなかった。先日審査論文の「射品」について参考にしようと思い読んだのだが、内容がとても深いので何回も読み返している。そこで今回は本書の要旨を記して備忘録とする。

本書は著者がご自身の弓道を研鑽されるなかで得た要点や出会った資料を省察し著者自身の「射道哲学」を組み立てたもので特に射法よりも心法に重きを置いたものである。その意味において弓道初心者が読んでも果たして理解が十分に出来るかどうか難しいところがあるだろう。だが弓道の奥深く幅広い教えの一端でも知ることが出来るという意味で弓道に志す者は是非とも読んで欲しい本であり現代弓道の指針となる書であると信じる。

以下本文を参考にし一部写す形で要約してゆく。その一つ一つに引用であることを記さない。

現代の日本弓道は古来伝承の源流に根を持っているが、昔のままの受け取り姿勢であってはならない。現代弓道は射行、射技、体配等の修練の外、射品、射風、気迫、礼威の感覚、重厚性など身心を挙げての修行と「芸ごと」一切を総合した、美学的に高雅な芸術である。この身心を挙げて修練する姿勢を「修行」と観るがこれこそ「射道芸術の探修」である。弓歴を積むことでおのずと向上する技術よりも少しでも自分を伸ばそう高めようとする向上心が人間性を造り向上させることになりそこに弓道を習う本質がある。

「弓を習うということは自分の人間を創り直そうとする修行ごとだ」

将棋や囲碁に定石があるように弓道にも定法弓理がありこれを「射学」という。現代の弓道は昔の射法から相当に変遷してきているが根源的道理、心気の配り方、心得など心法の数々は哲学が含まれていて現代人も学ばなければならない。現代人の知性、科学の知識を加えて射学哲学を拡充させることを「新射学」と呼ぶ。

「人、学ばざればすなわち暗し」

射技、体配等修行の基底は「心法」の立て方が重要で、昔から修技の根幹は「心の姿勢」にありと言われてきた。初心の間は「学ぶ」(まねぶ)「見習う」「模倣する」でも良いが中級以上となればそれではいけない。
心法の基本を挙げると。
①「礼の心に徹する」という心構えに終始する。②「自律」「自制」「自敬」「自励」「自師」の心を定める。③「理」を重んじ、「理」に順う心構え。道理に外れて射芸とはならない。④「観法」を自らの心によって定めること。一心に悟道を思い念づる法を言う。⑤「無心」「夢想」の射境を拓く、自己との闘いに打勝つ心の構えを練る心法。

「弓道というのは、弓矢という道具を使って自分の人間を形成して行く悟道であり、学道である」

射芸の修行(修業ではない)は「心の姿勢」にかかってくる。ここでいう芸とは単に修練によって得た技術とかわざと言う意味ではなく、射業の芸術、「射という業(わざ)ごとの芸術的表現」を意味するものである。つき詰て言えば「射という技巧方式による美の創作表現」の意をもつ言葉である。

射芸修行の実際。その理念に基づき実技演習の場にあってはどうあるべきかを見る。まず、基本的な「心の姿勢」の在り方であるが、何の意識も加えずに心と体に躾込め、融け込ませなければならない。つまり「造って芸をする」というのではなく、演者の「人間」「人格」の表れとして自然に顕れ出るものが本当の「芸」であるとの観方に立って、自らを創って行く心根であらねばならない。そして演者自身で気づかぬところは、師事する人とか気を許し合った同志の者に見て貰って、その指摘を貰うというような謙虚な心を持たねばならない。
この姿勢に立って配慮すべきことは①「起居、立居振舞に一切の無駄を省き去る」②心気の「張り」を始終失わないという「習い」を身につける。③始終、気品ある動作に留意し「気韻生動」の心を失わぬこと。「姿勢端正」に保つことが大事である。④射道は武道であり、武であるからには、「逞しさ」「鋭さ」技の「冴え」切れ味の「小気味良さ」が生命となる。⑤見せんとする虚飾、作りごとを極度に嫌う。⑥「後見の見」という心を忘れてはならない。この言葉は世阿弥の訓える言葉だが、自分の後姿を見ている観衆の目に自分の目をうつして、自己を凝視することを言う。自分の射行姿をこの心眼で見詰める心を失ってはならない。⑦稽古の場に於いても機を求めて道場周辺を掃き清め衣類を着替え心気一新して演習し、心身を鳴らして置くことが切要である。

「射芸」が射の技であることは当然だが、「芸」という言葉を持ち得るには「美と理を実地に現わす手段」との謂が含まれる。真の意味で「人間の芸」とは心の作用を伴い「理に合った美意識を表現する手段」である。こうした考えに立って射芸の修練をするには一連の動作に心の作用(はらたき)が主体となっていることが必要で、心の裏付けのない芸の修練は真似事に過ぎない。模倣は「他人のもの」を真似ることであり、自分の「芸」にはならない。


『射道芸術の探修』では、射法や体配などの修練とともに心の育成が大切である事を重ねて説いている。しかも審査課題論文に私が試論を書いた「無発の発」と「射品射格」のテーマについてもかなり詳しく書かれている。ところが筆者は本書の終盤で「これはどうやら独りよがりの思い過ぎのようで、発展途上の生の弓人方には、道場稽古の合間などでは話しても通ぜぬ繰り言に過ぎぬのではあるまいかと、切に感じた」と書かれている。一見私はおやっっと感じ、これまで見識の深い教えを説きながらどうしたことだろうと思う。
しかし、これこそが著者の弓人に対する最大の示唆なのではないかと私は感じる。私たちは弓道の世界に接する縁を持った。技術を学び昇段試験に臨み経験とともに段位も次第に上がってゆく。技能の優秀な者は国体や各種全国大会などにも出場し名を知られるようにもなる。それは喜びであり楽しい事であるに違いない。
しかしながら、弓道に悟道の道があることに気が付き、それを求めようという自らの発心が起こらなければ誰が何を教えようとも学びの道を歩き出す事は出来ない。かろうじて道のあることを知っても発心の無い人も多い。発心がどのようにして生まれるのか、これを私は言えない。ただ、己の姿を見て深い反省を思い、もがき苦しむ中で藁をもつかむ思いで祈るとき発心の種が見えてくるように私は思っている。

今回この備忘録を記すにあたって『射道芸術の探修』を再度読み返した。とはいえ本書の骨格をつかむためにキーワードとなる言葉を探しながら急ぎ足で読んだに過ぎない。そこで目次によって私の興味のある処を示しておくと、「「離れ」の妙境と活箭の味」、「弓哲弓言注解」これは安澤平次郎範士の『射道精神抜萃』からの注釈。「無発の発」に関する部分では大和流開祖森川香山の「無発の射」「無矢の発射」や「無影心月射義」を編んだ梅路見鸞老師、そして阿波研造から安澤平次郎範士への流れを提している。他にも「先賢の遺墨に想う」「「射行隙なきこと」の意義」「射品の錬成策」「気迫の錬成について」など興味のつきない見出しが並ぶ。こうゆう本は手元に置いていつでも読めるようにしたい。

テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

「射品射格の向上を図るためにどのような修練が必要か述べよ」

前回八段受審者への論文課題「無発の発について述べよ」について書いてみたが論文である事を考慮していくつかの点について注意を払った。一つは「無発の発」という言葉が誰の言葉または出典はどこにあるのかということ。これをはっきりさせないで論を進めることは無責任な話だ。次にどうゆう思想を源流に持つ言葉であるのかということ。私は阿波研造が学んだ大乗仏教にそれを見出した。そのうえで一元的視点から「無発の発」を理解しようと試みたのであった。
今回、教士受審者に出される「射品射格の向上を図るためにどのような修練が必要か述べよ」という課題について論を試みてみたい。

はじめに
「射品射格の向上」は弓道教本第一巻16頁に登場する。即ち宇野要三郎範士が提唱した①射法、射技の研修、②礼に即した体配の修練、③射品、射格の向上、④人間完成の必要という弓道修練の眼目の一つとして私たちは教えられる。そして「体配と射法射技が渾然一体となり、品格のある射が生まれなければならない。」と続く。
また58頁には「射と体配とは分離した二つのものではなく、一貫されてこそ立派な射となり、風格、品位が現れるものである。心の持ち方、体の整え方、正しい息合い、射法・射技等心・身・弓が渾然一体となってこそ、射の内容は広く、深く、真善美を顕現するものである。」と詳しく説かれている。
ところで品格とはなんであろうか。また私たちは品格が現れるように、または見た目に分かるようにと意図して体配を行い行射をしているのであろうか。私は決してそうではないと思う。射品が現れるようになどと心に思いながら行射をすることはそのこと自体すでに心が偏っていることであり品格を失ったものと考える。
品格という言葉を辞書で引いてみると「節操の堅さや、態度のりっぱさ姿の美しさなどから総合的に判断される、すぐれた人間性。」(新明解国語辞典第六版 三省堂)とある。
そこでもう一度宇野要三郎範士が挙げた四つの眼目をみると、射法・射技、体配は道場で自ら意図して行うものであるが、射品・射格の向上、人間完成は先の二つとは違い道場に限らず生活態度や生き方、思想を練る修行が要求されているように思う。

本論
射法射技と体配とが渾然一体となった射が基本であるのだからまずその修練が出来ていなければ「射品射格」を論ずることは出来ない。
基本となる姿勢と動作を行うにあたり、起居進退しっかりと心に銘じて意識の通じた動作、生気体の動作であることが重要である。体配には気が伴っていることが必須であるがそれは気構えと息合から生まれる。その上で間を感知しはかること道場に統一された空間を生むことが可能となる。特に多人数で行射する場合には自身の間とともに相互の間にも意を払うことが大事でこの気を合わせる作業は相手に対する敬愛や協調の気持ちがなければ実現しない。一緒に行射する仲間と意を通じ合い道場に統一された空間を作り出すことはそれ自体が美しく見る者に感動を与えるものである。
射法射技についても基本を知ることが大事である。即ち①弓の抵抗力、②基本体型、③呼吸(息合)、④目づかい、⑤心・気の働きである。今一つ一つについての詳説は控えるがなぜこのような基本を細かく射術の法則として学ばなければならないのか。それは自然体への理解であろう。「自然体とは人間の骨格の正しいあり方を示すもので、後天的な悪癖とか、誤った訓練による偏奇な姿勢をさすものではない。」(弓道教本第一巻100頁)とある。この正しい骨法を知ったうえで正しい動作を行うことにより自身の癖を規正し理屈に合った動作を修練していくことが武道において重要なのである。
射法八節についても同様に正しい骨法に基づいた体の使い方を学ぶことを要求される。また同時に弓・矢・カケといった道具を使用することからそれら道具に対する正しい知識・使い方の理解も必要となる。そして「会」に至っては「的に対する執着心や欲望、雑念を去り、正しい信念にもとづき克己、冷静、忍耐、決断力等の心気の充実につとめるとともに、疑い、不安、弱気、恐怖、卑下感等の陰性を払拭しなければならない。」(弓道教本第一巻119頁)と射手の心理的働きを説いている。
このように射法射技、体配の修練を見てくると技術にとどまらず、射手本人には自然体への理解と正しい骨法を学ぶ過程で自らを整え直しまた律してゆくことが求められていることが分かる。つまり射法射技・体配を修練する事で自らを解体し正しい摂理を知り身を置き直す努力が必要なのである。私はこの自己解体と再構築の修練こそが私たちを真実に近づけるものだと考えている。

さて私たちは生活の中で美しい美術品や絵画に接し感動することがある。お茶の道具、一幅の掛け軸に心を引かれることもある。一方同じ絵画や道具でも模したものには全く心が動かされないといった経験もあるだろう。本物と模造品の違いは素人にも一目瞭然としている。この違いは何処から生まれてくるのであろうか。私は作者に哲学があるかどうかの違いだと考えている。

窪田真太郎範士は「人は事を極めれば、それなりの風格を具えます。弓道においては射品、射格ですが、その端正な姿は、単に現わそうとしても、表面からでるものではなく、-中略-それは磨きぬかれた体内から自然と湧出されるもので、体配の修練体得によって滲み出て、見る人に深い感動を与えるのです。その体には必ず、射はもとより、基本体、基本動作たる体配の修練に刻苦勉励した、その人の誠意が、裏打ちされているからでもあります。」(弓道教本第四巻231頁)と述べている。
射技や体配の修練を通じて自然の摂理に合致した美しい動きを会得することは大事であり、修練の過程で自らに課したものは必ずや射手を変化成長させる。しかしその変化に射手個人の思想哲学が伴っていないとするとせっかくの体配も形だけの空虚なものにしかならない。どのような思想哲学を身に着けるかは射手の問題でありどのような弓道を目指すのかという射手の修行である。多くの書物を読み、先生、先輩、道場の仲間の話を聞き思索と経験を重ね、自分の考え、世界を作ってゆくことが大事だ。
「射品射格の向上」と挙げられるが、それは結果として具わるものであってこうすれば具わるという技術的な話ではない。弓道の修練において全てに誠実に向き合い反省し自らを変える勇気を持ち、謙虚に学び続けることによっていつしか見られるようになるという事だ。ゆめゆめ射品射格の見える射を行おうなどと思わないことだ。

まとめ
「射品射格の向上」を図るという弓道修練の眼目は射法射技の研修、体配の修練を通じて自己を自然の理に適った姿に作り上げてゆくことで可能となる。しかし姿形や動作の美しさだけではなく内面から滲み出る射手の人格の美しさがなくてはならない。人格を磨くためには広く学び常に反省し自らを変える勇気が必要で、それには先生や先輩、仲間に和敬の気持ちをもって接し謙虚に学び続ける必要がある。こうすれば射品射格が具わるなどという技術は無く、射品射格を求める心すら邪心である。弓道の修練を通じて生き様や哲学を身につけるようひたすらに誠実な心をもって弓と向き合い修行に励むことこそが大切である。

テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

「無発の発について述べよ」

今月届いた月刊誌『弓道』に八段受審者への論文課題として「無発の発について述べよ」が出され三人の方の論文が掲載されている。
論文課題は教士・七段・八段の術科審査通過者に課せられるもので論文提出(審査)をもって認可を受けることになる。誌を通じて他の方の論文に接することで参考になる事大である。
ちなみに最近の教士審査論文では「射品射格の向上を図るためにどのような修練が必要か述べよ」、七段では「射行の修練が人間形成に及ぼす影響について」という課題が出されている。

さて、このように論文課題が明らかになっているのであるから事前に書いてみるのも学びの一つであろう。
ということで試論「無発の発について述べよ」である。

序論
「無発の発」という言葉は弓道教本第三巻において安澤平次郎範士が表している言葉で、「射道も、一箭に全生命力を傾倒し全霊全我をもって的と一枚たるところに「無発の発」というのが存在するのである。」(24頁)とある。また「円成無発の発境にて、茲に至って始めて大発動の霊箭の射が現出する」「「的と自己」との対立は解消し彼我一体、絶対の境地となるのである。」(146頁)と精神面の働きを図示している。安澤範士は阿波研造範士の弟子であるから思想の骨格は師である阿波研造の教えから受け継いだものと考える。
阿波研造は儒教、道教、仏教などから射学を求め「不発の射」「不射の射」という言葉を残している。また天照大神が威徳をもって須佐之男命を感化し日本建国の基礎とされたとして弓道の開祖は天照大神であるとし、「神武無殺」とし「無発の発」「無発絶対」と表した。(射の道について 国際化時代の弓道を考える 阿波研造遺文をめぐって 桜井保之助「弓道」)
このように阿波研造から安澤平次郎に受け継がれた「無発の発」とは射において身心弓の合一を図り気合の発動と共に発射される離れをさらに深く考え新たな意味を見出したものと考えるのがふさわしい。射に於いては「離れは、自然の離れが理想であることは申すまでもない。自然の離れとは、引き収まって縦横の線正しく伸合い、丹田を中心として全身均等の働きが、精神力・体力・弓力を調和しつつ、最高潮に達した瞬間、無意識のうちに矢が弦をはなれたのが、すなわち理想の離れと言うべきで、しかも無意識のうちにも生命が躍動していなければならない」(高塚範士 弓道教本第三巻 190頁)とあるように「自然の離れ」が射を行ずるにあたって求める離れであることは間違いがない。しかし「無発の発」と「自然の離れ」が同一のものまたは同次元で評されるべきものであるとは考えにくいのである。

本論
会が完成し離れが生じる。離れは発射であり気合の発動とともに矢が離れてゆく。神永範士によると「射においては、常に発動の気がこもっていなければならない。この発動の気が矢を発するのである。」(弓道教本 第二巻 161頁気)とある。この発気を生むために私たちは身心弓の合一を試み呼吸を学び丹田に気を集める練習を重ねる。
ところで、気合が整い澄ましが活きて来た時に私たちは息合を意識したり丹田を意識したりしているであろうか。私は自身の経験を観察すると静かな呼吸とともに気は全身に満ち習い練習した呼吸は自然となって意識することなく忘れ去っているように思う。即ち射技体配は呼吸と共に我身と一体になり意識することも無くなっているのである。これは緊張などによってあがってしまい我を忘れているのとは違う。自分自身はしっかりしていて手足の先細胞の一つ一つまで気が満ちているのが感じられながら行射が終わってみると今何が起こっていたのか分からない感じ、自分ではない誰かが行射したと思わせる感じが残っている。この事実は何を示しているのであろうか。私はこの事実にこそ弓道が立禅と言われる所以があると考えている。
禅は大乗仏教の一つ禅宗であり修行方法に座禅を中心に行う。仏教では禅宗以外でも座禅は行われ基本修養とされているが禅宗でも公案により見性しようとする臨済宗と坐禅そのものが目的であり、坐ることに集中する只管打座を唱えた曹洞宗がある。
私は弓道における禅を考えた時に只管打坐の方がより感覚的に近いのではないかと思っている。

さて、大乗仏教において最も親しまれている経の一つに『般若波羅蜜多心経』がある。お寺に参詣したさいに写経を行った経験の有る方も多いだろう。『般若波羅蜜多心経』は略して『般若心経』と親しみをもって言われるが、空を理解する知識と言い説いても良い。私の手元に一冊の薄い本『生きて死ぬ知恵』(柳澤桂子著 小学館発行)がある。著者は国際的活躍を期待されていた理学博士であったが難病を発症し闘病を続けながらサイエンスライターとして活動している。その彼女が自身の心境を『般若心経』に写し訳したのがこの本である。もともと仏教は因果の教えと言われるくらいだから難解な部分もあるが丁寧に解いていけば分かるのであるが、この本は著者の科学者としての感性と言葉が『般若心経』に非常にマッチして納得しやすい訳となっている。
今、柳澤氏の訳を借りて『般若心経』の大意を表してみる。
宇宙に存在するものの構成要素は全て実体がない。これが「空」ということである。宇宙は実体がなく粒子に満ちているが時々刻々変化していて実体というものがない。実体がなく変化しているからこそ物質であると言える。私たちは宇宙の中で粒子でできていて他の粒子と一つづきだ。だから宇宙も「空」で実体のない私たちと宇宙は一つだ。

阿波研造、安澤平次郎の教えに戻ってみよう。
阿波研造は「真の的中というのは、圓心法、直体整形法、錬技法などの修行を経た上での、無発大團圓をいう。射における大團圓というのは、射中の自己を中心に、天地宇宙に大波紋が充満した時をいう。さらにそれを進むと、俗界から離れて射の妙境に入る。これが正覚であるとともに、自分の振舞はすべて大自然と合致し、天地一枚の境を現わしてくる。これが無発統一の境である。」(桜井保之助著「射聖阿波研造-天地大自然の代言者」)と言う。
安澤平次郎は「円成無発の射と振込の射」として「射法、射の運行は円成-宇宙と瞑合(深く合一)してただ円成(まどかに成立、完成)-した伸展のみで止まるところを知らなければ、無発で、しかも発の機が熟成される。これを円成して無発の発の境地から打ち出された射という。一方、放れの機を作り、的中を求めるとき、伸展は有限となる。これが振り込みの射である。」と『大射道』で表している。(射の道について 国際化時代の弓道を考える 阿波研造遺文をめぐって 桜井保之助「弓道」)

結論
阿波研造は儒学や道教、大乗仏教を学び自身の射を「大射道教」として創始してゆくなかで自己と宇宙との統一という思想が形成された。弟子の安澤平次郎もその教えを引き継ぎ「無発の発」の境地を切り開いたと言える。
私たちは現代社会において自己と他という二元的思考視点で物事を理解することに慣れているが、『般若心経』に説かれているように宇宙という実体がなく粒子で満ちているものだという一元的視点に立てば実は宇宙と自己は一体だという事が理解できる。
射に於いて身心弓の合一を図り気合の充実とともに無念無想のうちに離れが生まれる。それは真実であろう。しかし、安澤平次郎の「的と一枚たるところに「無発の発」というのが存在する」「円成無発の発境にて-中略-「「的と自己」との対立は解消し彼我一体、絶対の境地」という言葉から「無発の発」を一元論的に理解するならば、我は弓であり我と弓は宇宙の中で一体としてある。弓と一体となった自己は同時に的とも一体である。離れも中りもなく我も的もない。その意味において「無発の発」は「自然の離れ」をはるかに超えたものとして存在している。
そして「無発の発」の射をもって私たちが宇宙との統一を試みた時、それは宇宙の一部ということではなく自己と全宇宙との統一が予定されるのである。

おわりに
今回、『弓道』誌掲載の八段の部審査論文に刺激を受け、私なりの試論を試みた。八段の境地にははるかに遠く及ばない身であるから頭だけの言葉だけの試論であることは十分承知である。ただし、この試論を書くにあたって弓道教本その他の書物を読み返したりしながら考えを整理することは出来た。こうした作業が普段の練習や道場での仲間との関係に必ず役立つものと信じている。とはいえ、何年か後私が審査論文で「無発の発について述べよ」と課題を出された時にこの文章を読んでどんな苦い顔をして冷や汗をかいているかと思うと恐ろしい気もする。先輩弓人のご指導を頂きたい。

テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ