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杣人yumi

Author:杣人yumi
弓道と楽しく向き合う杣人の弓道ブログ。お気軽にお立ち寄りください。

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発心と初心

 発心とは、出家し仏門に入ることであり、四国の霊場八十八箇所を巡るお遍路の旅に出ようと心に決意することです。信仰心に篤い人が、様々な思いや事情のなかから決意するとはいえ、今の生活や人々との縁を断ち、仏につかえる身になるのですし、お遍路の旅に出たりするのですから、それこそ命がけの思いだったはずです。発心とはそういう決意を含む言葉なのでしょう。
 私はとても興味をもって考えることがあります。「なぜこれに興味を持ったのだろう」「いつから、これが好きなんだろう」といった何かが心に芽生る(もしくは宿る)瞬間を考えることです。人は、あるときふと何かに興味をもったり、気になりだします。時にはだんだん興味が大きくなるときもありますが、興味を持ったことに気づかず胸の奥に眠ってしまって、長い時間忘れていることもあります。ところがその興味の種はちゃんと根付いていて、あるとき、心の中から芽を出して伝えてくれるのです。「これが好きだったんだよね」って。
 もって生まれた縁が結ばれ動き出すのです。何かのきっかけで動きだすときもあれば、種が自然に大きくなってきて動き出すときもあります。その種はいつ私の心に埋め込まれたのでしょう。私にとって、それを探る思索は冒険小説のようにわくわくする楽しいものです。


 弓道についての私の最初の種は、バスの中からでした。町の高校に弓道部があり、バスの中から道場の白壁が見え、瓦葺の屋根が、とても清清しく見えたのを記憶しています。ただ、その当時小学生だった私は、高校生の弓道を見ることもなく、見るすべも知りませんでした。結局、白壁の道場は弓道という言葉を私に残しただけで、私の中で眠りについたのです。でもその最初の種は、よほど上手に私の中に蒔かれていたのです。
 弓道についての二回目の種は、学生のころ。仏教書を読んでいた私は、立禅という言葉に出会います。ただ、弓道をまだ始めていない時です。それでも、弓道には武道としての心の働きや、仏教的解釈や座禅と対比する視点があり、立禅と呼ばれる精神的要素へのアプローチが強くあるのだということは理解できました。行射における心の在り様や働かせ方を考えると重要な種だったといえます。
 そして、三回目の種。就職した年、仕事で外周りをした時に、弓道具店に立ち寄り、「弓道を習いたいのですがどうしたらいいのでしょう」と尋ねたのです。店の方は、「何処に住んでいるの?」と私の住所を聞き、「それなら、Jという道場があるから訪ねてごらんなさい。良い道場だよ」と教えてくれました。今思うとこれが私の種の発芽の瞬間でした。お店の人と話しているとき、私は自分の心の中で「あっ始まったな」と感じたのを憶えています。


 人は、どうして何かに興味をもつのでしょうか。まるで出会うのが当然だったかのように、引き込まれてゆくことがあります。少し考えて見ると、呼応するなにかがその人に宿っていることがわかります。私には白壁の弓道場だったのでしょう。今でも、道場の風景が眼に浮かびます。でも、もっと深く心を中を見てゆくと、どうしてその種が私に宿ったのかはやはり分りません。なぜ、白壁の道場に心惹かれたのでしょう。不思議です。種子が散歩の途中で服につくように、いつの間にか、運ばれてきて私に付いたのかもしれません。そう考えると、種は向こうからやってくるものなのでしょうか。でも、私という畑で、種は根を張り芽を出したのです。私にも発芽させる土壌があったのでしょう。縁の糸が弓道と私と互いに伸びてつながったのでしょう。
 発心は心に宿った思いが芽を吹く事だといえます。縁が動き出すことだといえましょう。私達に宿った弓道との縁を丁寧に守り、素直な芽を育てたいと思います。


 初心とは、習い初めで充分に慣れていないことや、最初のころの気持ちを言います。世阿弥の『風姿花伝』にある初心は「初心を忘るべからず」という言葉で有名ですが、これは別紙口伝にある言葉で、芸の奥深さにふれる内容が書かれています。世阿弥が言う初心のころとは、7歳にして練習をはじめ、24・5歳になり、声や姿もしっかりし、芸も身について評判も上がってきた頃のことを言っています。決して習い始めの気持ちや、最初のころのひたむきに熱心な気持ちを言っているのではないのです。私は能や日本舞踊も好きでよく見ますが、門外漢ですので、世阿弥の初心について語ることはできませんが、現在の弓道でいうなら、五段か錬士ぐらいになり、中りもあり、地域でも活躍しだした頃の人に相当するのかな、と想像します。でも、そうゆう時にこそ、自分の理想を高くもち、道の遠き事を思い、習い、練習に励む必要があるのでしょう。
 世阿弥は、「たとひ、人もほめ、名人などに勝つとも、これは、一旦めづらしき花なりと思ひさとりて、いよいよものまねをも直ぐにしさだめ、名を得たらん人に、ことこまかに問ひて、稽古をいやましにすべし。」と言っています。
 ある講習会で、範士の先生が、「山に登ったら下りなければ次の山には登れない。おうおうにして、今自分はこのレベルだから次はこうすれば上にいける、と思ってしまうが、登った山は一旦下りて基本から確認し直すことで、次の山に登ることが出来る」という話をしてくださったことがあり、感銘を受けたことがありました。
 私達は、練習でコツをつかんだり、中りが安定してくると、これでいいと思います。自信は励みにもなりますから、練習の中で自分が今工夫していることや、得意としていることを確認することは大切です。でもそこに止まったり、安心してはそこまでです。今の自分を捨て、基本と照らしてみること、“今自分のやっていることは、基本に則ったことなのだろうか”と自問してみることが、次の成長のための重要なステップなのだと思います。基本に照らすことの難しさは練習すればするほど、強く感じるようになります。
 初心は、私達の練習を導くかけがえのない言葉なのかもしれません。個性だ特徴だとか言う前に、基本は何かを求め続ける心に立ち返る重要な言葉だと思っています。

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テーマ : 武道
ジャンル : スポーツ