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杣人yumi

Author:杣人yumi
弓道と楽しく向き合う杣人の弓道ブログ。お気軽にお立ち寄りください。

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足踏みは何故大切なのか

一緒に練習している方からYouTubeに佐竹万里子範士の映像があって素晴らしと教えていただいたので早速見る事にした。
映像はANAが訪日外国人向けに作った「道」をテーマとしたビデオ「IS JAPAN COOL? DOU」という作品群の一つで2017年8月23日(水)に公開されたものだ。

まずは映像を見ていただきたい。



佐竹先生による弓道についての貴重な教えの数々に私は姿勢を正し清々しい気持ちになる。

前回の東京オリンピックの時に、海外のメディアにより日本を紹介する映像が作られた。
「鈴木弘之範士の映像」という記事を2010年11月30日のブログで紹介しているがこの時は鈴木範士のお孫さんから連絡を頂いたり、他の方からも弦音についてコメントをいただいたりしてYouTubeを介して広がる繋がりを楽しんだものだった。
今回のANAの企画も2020年の東京オリンピックを念頭に作られたもので日本の伝統文化、武道、芸術について紹介している。外国の方がこのビデオを見て日本に興味をもっていただけるのは嬉しい事で、同時に日本人にとっても大切なビデオだと思う。私たちのように弓道を行うものが他の武道の姿をその道のエキスパートから教えて頂くことはそうある事ではない。

「柔道」「剣道」「弓道」「空手道」「居合道」と他のビデオを見ているといずれの武道も礼を学び相手を敬い人間形成に重きを置いている事を知る。同時にそれぞれの武道の特色、固有の思想を教えられて興味深い。そこで、今回は「空手道」中村綾乃さんの言葉から考えてみたい。

ビデオにあった言葉を紹介すると、「礼を学ぶ。正座、立ち方を学ぶ。手の握り方、足の幅が広がって力を伝えられるように体を大きく動かす練習をして、移動とともに練習する。技がぶれないように稽古する。」
「“技に力を加えるために”を考えるのでどこから力を発生するのか、立っている足の形、全部の足が床についていなければいけない。足から膝に力が行き、腰に準備していた引手から技に伝わっていく。足が大事かなと思います。そこから姿勢にいき、最後は正しい技のコースが大事。」
という。弓道で習う基本体と同じだ。

私たちも執弓の姿勢から始まる。正座や跪坐といった姿勢、足の運びを学び動作を練習する。歩いている時、座るとき体を変える時など体がぶれないように注意する。中村さんの手の握り方の説明に興味を持った。小指から指を巻き込むように握り拳を作るのだが、指一本ほどの余裕を持たせ決して強く握りしめないのだという。握りしめると力が伝わらないのだそうだ。これは弓道でも同じで弓を持つ弓手は柔らかくする。弦を引くカケも決して握りしめず何時でも弦が離れる状態であるようにする。引き分けるにしたがって弓の張力によって両手の内の中に弓と弦がしまってくるが手そのものは固めない。両手の内を柔らかくしておくことによって力を働かせることが出来るのだ。

さらに興味深いのは「“技に力を加えるために”を考えるのでどこから力を発生するのか」という言葉だ。足から膝、腰に準備している引手に伝わり技になるという。
弓でも同じだと思う。弓の力で矢を飛ばすのは物理の原理だ。だが私たちは弓の力を最大限に活かし弓力以上の矢飛びを発生させることが出来るのを経験的に知っている。その力はどこから生まれるのだろうか。
私は足踏みだと考えている。通常足踏みは射位に立ち的に狙いをつける時に踏み開く足と理解している。しかし足踏みにはそれ以上の働きがある。足踏みをして体重がきちんと乗るよう腰の位置を確認し胴造りを整える。執り弓の姿勢から弓構えに移り打ち起こして引き分け会に至る。この間両足は道場の床に吸い付くようになってゆく。決して踵が浮いたり指先が反ったりしてはならない。足腰をしめ、上体を楽にしてゆくが、この時足腰のしまりは全身に分散して足腰だけが凝る事はない。だから行射の最中全身が軽く感じられさえする。残心の時に全身のエネルギーが解放されて体は軽くなるが、すぐ力は体に戻り足腰のしまりが意識される。私はこれをビッグバンを経てブラックホールになるようなイメージをもっている。残心ですぐ弓倒しが出来ないのと同様、十分にしまった足腰をほどいてやらなければいけない。物見返しをして執り弓の姿勢に戻りようやく足を閉じる事が出来る。それまでは足の裏は床に吸い付いているのだ。練習が終わり洗濯をするために足袋の裏を見ると、土踏まずの前と5本の指全てそして踵と汚れている。足の裏全体で立っている証拠だ。足袋裏を見て練習の良し悪しを確認してから洗濯をしてはいかがだろうか。

中村さんは「どこから力を発生するのか」と言っている。私は吸い付いた足裏を通して地面と(道場の床ではあるが)エネルギーのやり取りが行われていると考えている。よく大木が根を張るようにという言い方をするが、根を張った以上は水を吸い上げなければならないだろう。同じように足踏みで吸い付いた足の裏から力を得てそれを弓に伝えるのだと感じている。これは物理的な力ではないが、もちろん精神論のようなものでもない。何故なら実際に行射をしている時に足裏から何かが上がってくるような事を感じる事があるからだ。弓力以上の鋭い冴えた矢飛びを得るのは足踏みによりエネルギーの交換が行われるからだと考えている。そしてそのエネルギーが弓に伝わりやすくするためにも上半身は楽にして弓手・馬手は柔らかく使わなければならない。


練習を一緒にする方から教えられて武道のビデオを見て思索するきっかけを得た。感謝したい。
今回は「空手道」の中村綾乃さんの言葉から足踏みの大切さについて考えたが、次回は「居合道」の町井 勲さんのビデオから「居着く」ということについて考えてみたい。

ではまた。
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テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

インターハイ雑感

現在インターハイが「2018 彩る感動 東海総体」というタイトルで開催されている。弓道も2日から始まり5日に終了した。各支部にポスターが配られ袋井市のエコパアリーナへの観覧応援が呼びかけられた。
私は学生時代に弓道をしていないので高校生の弓道はもちろんインターハイがどのように開催されているのか全くの門外漢である。

以前、インターハイでの弓道をNHKの放送で見る事があった。その番組では解説者が「会がしっかりしている」とか「離れが良い」とか解説を加えていた。見ていると次第に弓道ではどうゆうところを見るといいのかというのが分かる試みだ。中りはずれ、勝敗の行方だけではなく弓道を楽しむためには何が大切かを伝えようとしたのだろう。
今回アリーナに行って応援することは出来なかったが、インターネットで競技の様子をライブ配信されていたので見る事が出来た。パソコンの画面では第一射場と第二射場とに分かれていて一度に見る事は出来ない。両方を見るためにはパソコンを二台並べてみるか、モニターをもう一台つなげてデュアルモニターで見る事になる。ライブ配信では第一射場を見ていても、会場のアナウンスは聞こえてくるので第二射場の様子も気になる。トーナメントなど相手との戦いという要素が強いのでパソコンが二台並べる事が出来ない方はデュアルモニターをお勧めする。

今どこのチームがどうゆう試合をしているのかというのは、ライブ配信では分かりにくい。ネットにもリアルタイムでトーナメントの組合せや結果がアップされている訳ではないようだ。(私が気が付かなかったのかもしれないが)そのため、ライブ配信では管理者が手元のメモ用紙に手書きで急いで書いてカメラの前にかざすという方法をとっていた。その結果、ピントのあっていないメモを視聴者は見ることになる。テロップを入れるとなると即時の編集作業が必要になるだろうし機材や管理者の技術力など難しい問題もあるのだろうが、検討課題だろう。
この表示方法は弓道だけではないらしい。6日は薙刀の試合があったので見たのだが、同様の手書きメモを出していた。薙刀の場合礼の後すぐ対戦が始まるのでメモをかざしているうちに技が決まってしまっているという試合もあった。

試合のライブ配信は嬉しい。しかし以前テレビで見たような解説は全くなく、射場の選手と小さく映し出された看的表示を見るだけだ。あとは会場内のアナウンスがライブカメラのマイクによって入ってくるのでかろうじて立チームと的中数を知る事が出来る。
選手の活躍を見る事は大事なのだが、弓道の試合を見慣れない人にも見どころが伝わる何か良いコメントは出来ないものだろうか。

さて、選手の事についても簡単に書いておこう。高校生の選手たちは日頃の練習や強化練習なども行って弓道部の中から選抜されてくる。県内の大会を経て代表校に選ばれインターハイという晴れの場所に立つのだ。それなりに自負もあれば緊張もあるだろう。勝ちたいという闘争心も人一倍強いはずだ。ライブ配信でも高校生たちのそういう真剣な気持ちは伝わってくる。
そうゆう高校生たちに精一杯の弓道をしてもらいたいと私なら思う。そこに指導者の役割の大切なところがあると思う。

しかしながら残念なところが多々見受けられた。
一つは執弓の姿勢の悪さ。特に残心から弓倒しをして執弓の姿勢に戻るのだが、多くの選手が出来ていない。弓倒しをする手が馬手も弓手もだらしなく下がり見苦しいばかりだ。残心から執弓の姿勢に戻るところに弓道の気持ちよさがあるのに指導者は学生に教えられていないのだろう。団体戦五人立座射の場合は10分以内という時間制限があるが、インターハイ独自の制限時間はあるのだろうか。あったにしても執弓の姿勢が出来ないはずがない。

もう一つ。チームの中でそれぞれの選手の射形がバラバラなのが気になる。一年生から三年生までいて経験も技術もまちまちだろう。しかし一つの道場で練習すると練習する仲間は射形が似てくるものだ。これは先生の射を真似ることから練習が始まるのだから当たり前の事なのだ。ところが弓手も馬手も切り下げる選手がいたり、離れで馬手を高く上げてみたりと矢筋に一文字の離れが出来ていない。各自の技術の問題ではなく指導者が基本を教えきれていないのだ。見ているとまるで寄せ集めチームのようだ。
競技だから中りの強い生徒を選手にするのは当たり前の事だろう。しかし基本をしっかりと理解して練習しそれを実践しようという生徒を選手に育ててゆく努力が指導者には必要だ。

他にも引いた後に弓を馬手で持ち、弓手を延ばして的付けを確認したり残心で馬手を見て確認したりと高校生がよく練習でやっていることを試合中にやっている生徒もいた。他にも射技で気になる事は沢山あるのだがそれは個人の技量にもかかわることなのでここで言う事ではない。私が言いたいのは選手の姿を見ていると指導者の力量不足、弓道の大切なところが教えられていないのではないかという危惧だ。

もちろん私が見た映像はごく一部のものである。見ている中に上手な選手、体配もしっかり出来ている選手もいた。だが、上記のような事が多く目に付いたのも本当の事で、私は高校生の弓道指導の問題点として感じたのだ。
各県連と高体連弓道部にはインターハイの映像を見て今後の弓道指導の在り方を深く考えて欲しい。

ではまた。

***********

おまけの話
昨日私の記事にコメントをいただきました。久しぶりの事で嬉しく感じたのでお礼を申し上げます。
私のブログは閲覧者がいるのかどうか私にはよくわかりません。FC2でブログを書いている方が訪問してくださった場合にはわかるのですがそうでない場合にはだめです。拍手の数かコメントを頂かない限りはどのような方が見てくださり、どんな感想をお持ちになっているのか私には知るすべがないのです。
もちろん私は拍手を貰ったり閲覧上位にしたい訳ではありません。自分の弓道を練習・試合・日々考えていることなどを書いて、それは全く自分の好き勝手な事を書いているだけなので、他人様に読んで欲しいとか感想を教えて欲しいとか思っている訳でもありません。それでも射会などで読んでくださった方が声をかけてくださると照れ臭いながらもお礼を申し上げますし、他の県の人が読んでいると人伝に教えられるとちょっと驚きながら苦笑いするのです。
反対に先日書いた「審査で落ちた時」という記事には拍手をいただいたのに、すぐ次に書いた「弓を打つ、弓を撃つ?」には一つもありませんでした。これはどうゆう事だろうあまり興味のない話なのかなと不思議に思います。まぁ義理やおべっかの拍手は無いのだと理解していてそれはそれで私は面白い謎だと思っているのですが・・・。

昨日コメントをくださった方に感謝の気持ちを込めて、改めて御礼申し上げます。そして拍手やコメントは無くても時々読んでくださる方、たまたま立ち寄って読んでくださった方、すべての方に御礼申し上げます。これからも「杣人の弓道」を通じて私の拙い弓道を静かに見守っていただければと思います。そして、もしお会いする機会がありましたら是非お声をかけて頂ければ、照れ臭いけど嬉しいです。有難うございます。

テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

的と狙い・・・私たちは何を見ているのか

昨日面白い練習をしてみたので記しておこう。

数日前から的を見るとか狙うということはどうゆう事なのかが頭の中で沸々としている。正しい引き分けが出来て会に納まり伸びていると矢は的に中る。この時的を見るとか狙うという事は何を意味するのだろうか。

弓道教本第一巻、「目づかい」のところに「的を見るときは、足踏み、弦調べ、物見、ねらいを定める以外にない。」とあり、「目つけのもっとも大切な要素は、自己の心をみつめることであり、場の掌握である。」と記されている。射位に立ち的を見て足踏みを定める、弦調べをして気息を整え、物見をする。これらの動作は的と自分との関係を確認する作業だ。だから経験をつむに従いこれらの動作の大切さが分かってくる。恥ずかしい話だが、中て気の強い私は足踏みはもちろん弦調べも、物見は猶更ににらみつけるような気持ちで的に対峙していた。弦調べでは的を矢筋に引き寄せるような気持ち、物見では「お前は俺の的だ中てるからそこに居ろ」ぐらいの気持ちを心の中で唱えていた。的は狙ってこそのものだとずっと思っていた。
ところが最近1年半ほどの練習を通じて的を狙う気持ちが私の中から消えていることに気が付いている。どうして私にこのような変化が起こったのか。

以前の私は中て気が強く、とにかく中てる事が大事だった。いつも的を意識して引き分けをし、会では的に突っ込んでしまう事もあった。結果矢筋に一文字に離れる事が出来なかったり弓手が揺れたりという弊害が生まれてしまうのだったが、当時の私はその原因が分からずにいた。
六段受審をきっかけに根本から射を見直した時、三重十文字と矢の平行、離れは体の中から伸び合うことを意識した。大三で弓手と馬手の手の内は完成させるので後は肩・肘・肩甲骨を考えながら引き分けてきて会での詰合を作る。そしてしっかりと伸び合う。こうして引き分けてくると的を狙う必要がなく矢も外れる事がない。外れるのは伸び合いに隙があってバランスが崩れた時か胴造りが崩れている時だった。

引き分けが上手くいって会で的を狙わなくても良くなると、会で何を見ているかが気になる。矢が的に中らなかった時は胴造りを確認し、詰合が正しく出来て左右バランスよく伸び合う事が出来ているかを反省する。的の何処を狙っているのかという目で見る狙いは重要ではない。だから会で狙いを変えるという事はしない。では会で私は何を見ているのだろうか。
私は習い始めのころからどう狙いを定めるのかを考えたことがなかった。教本には「ねらいは両眼ともに開いたままで、左の目尻・右の眼頭の視力を用い、左拳と弓の左側、的の中心点とを見通して定めるのが原則である。」と書かれているのだが良く分からない。一緒に練習していた人が半月だとか籐何本だとか言っているのを聞いてそうゆうものなのかと思ったが自分でやってみるとしっくりこない。目から弓手までの距離と的までの距離は31倍も違うがそれを同時に見るのに違和感が私にはある。

会で的を見て狙わないのなら狙いとはなんなのか。私は何を見るべきなのか。
そこで、眼鏡をはずして練習することにした。普段から私の眼鏡は度を弱めにしているので的の輪郭はシャープに見えていない。眼鏡をはずすと的全体はぼんやりと見え白黒も混じり合って境ははっきりしていない。この状態では的の何処を狙うかを目で見て判断する事は出来ない。それでも的を見ながら普段通りに引くと中る。中ると嬉しくて“おや、中るもんだね”と心の中で喜んだ。
霞んで良く見えない的を見ながら会で伸び合っていると私の目は的を見る事を止める。心の中で目は胸の真ん中を見始める。
そのまま胸の真ん中から伸びていると私の周りに大きなドームがイメージされ伸びるにつれてドームの中に充満しているものと一体となるような感じが湧いてくる。一体となりながら伸びて広がってゆくのだ。そして離れがくる。
的を目で見て狙わなくなったら、目に映る的が次第に薄れていって私自身を見るようになったのだ。

狙いは矢を的に中てるためにある。しかし的を狙わなくなったら私自身を見るようになった。私自身を的にしてしまったのだろうか。以前「無発の発」について書いたときに安澤平次郎範士の「「的と自己」との対立は解消し彼我一体、絶対の境地となるのである。」という言葉を引用して一元論の視点が必要であることを書いた。的は狙うために置くのであるが、その狙いが消えると私たちは弓矢と一体となりやがては的も私も弓矢も一つになって消える事が出来るのではないか。
前回「十牛図」で牛と牧童が一緒になること、自我が対象である真の自己を捕まえると自己は消えやがて自我も消えて空になる事を書いた。的を狙うということは牛を探しに行くことなのかもしれない。

私の試みは始まったばかりだからこの先どうゆう変化が起こるのかわからない。だが、正しく引き分ける事で的についたらもう的を狙うのは止めて心を自由にしてみようと思う。しばらくはその練習をしてみたい。道場での練習や支部の月例会なら眼鏡をはずして引いても迷惑がかかることはないだろう。そんな練習の成果はまたご報告させていただきたい。

ではまた。

追記)
記事を書いてから四日目。道場に出かけまた同じように練習をした。眼鏡を外し入場からきちんと体配をつけて練習を始めた。
三回。すべての矢は的に中ったが気持ちはまだ自分に向かわず外形的な姿しか見えていない。記したようなドームのイメージや胸の中心に心の目が行くことが出てこない。だが、引き分けは上手くいっているのだろう。伸び合って離れた矢は的に中る。
的を狙わなくなると自分を見ると書いたが、そう全て上手くいくわけではないようだ。まぁ当たり前だろうが・・・。
弓道の練習では、これかなと手ごたえを感じそれを追うが必ず逃がしてしまう。だがいつもつかみかけた何かをもっとはっきり見つけて確りつかみたいと思う。そんな練習の繰り返しだ。

テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

十牛図再び

私の好きな番組にNHKの「100分de名著」というのがある。世界の古典的文学作品はもちろんSF小説から仏教書まで、様々な書物を毎回4回の放送で解説している。先日は河合隼雄スペシャルと題して、臨床心理学者河合隼雄の世界を取り上げていた。
河合隼雄はユング心理学を日本に紹介した第一人者であるとともに、日本人に合った臨床心理学を考案した人である。私は箱庭療法を通じて彼の事を少し知っていたのだが「100分de名著」ではユング心理学をそのまま日本人に適応させるには難しい部分があることから、日本の昔話や神話、仏教などを糸口にして日本人にあった心理分析・療法を考案していった様子を紹介していた。昔話や仏教説話など馴染みのある話は私たち日本人には非常に親和性のあるものだが、改めて説かれるとなるほどと思い、これは真面目に河合隼雄を読み直してみようと感じた。
その番組の最終回に「牧牛図」の話が取り上げられていた。以前このブログで私は円相への考えを膨らませてゆく過程で「十牛図に学ぶ」という文章を書いた事がある。弓道と十牛図(牧牛図と同じ)とを重ねながら拙い文を載せたのだが、私の心の根幹の部分であるので今回NHKの番組を見ながら思いは弓道に飛んでいった。そこで、今回は「十牛図再び」と題して私の弓道練習と重ねてみたい。

過去の文章はこちら。最初に書いたのは2010年3月だった。

円相・十牛図に学ぶ 1 (再録)
円相・十牛図に学ぶ 2 (再録)
円相・十牛図に学ぶ 3 (再録)
円相・十牛図に学ぶ 4 (再録)

道場に通い弓の練習をするのは何のためだろう。人それぞれにその人の弓道があり目的や楽しみも様々だ。私の場合、中学・高校生の頃に自分の中のいい加減な部分、甘えや弱い部分をどうしたら規整出来るのだろうかという思いが生まれた。自分に厳しくなどと言われても何をもってそう言うのか如何したらいいのかが分からなかった。漠然とであったが武道を学ぶことで自分を律する事が出来るのではないかと思ったが学生時代は縁がなく、社会人になってから弓道を始めた。私にとって弓道は自分を知り律し作り上げるためのものに他ならない。ただし、自分を知った時にどんな自分に出会うのか、律し作り直してゆくとどんな自分になってゆくのかは全く分からない。

さて、十牛図は牧童が一人何かを探している絵から始まります。1 尋牛(じんぎゅう)です。
続いて、2 見跡(けんじゃく)では牛の足跡を見つけ 3 見牛(けんぎゅう)では牛のお尻を見つけて近づきます。
これを私の弓道に準えてみると、1 尋牛(じんぎゅう)は自分の弱さを知り何かを学びたいと思った事。 2 見跡(けんじゃく) 3 見牛(けんぎゅう) は弓道に出会い道場に入門して練習し始めた頃でしょう。

河合隼雄による十牛図の理解では牛は“真の自己”で牧童は“自我”と言います。私という自我は真の自己を知ろうとするのです。私は 1 尋牛(じんぎゅう) と 2 見跡(けんじゃく) に強く惹かれます。どうして私たちは知りたいと思うのでしょうか。そして何かに出会うのでしょうか。別の言葉で言えば、発心と縁と私は言っていてそこに不思議を感じ惹かれるのです。

十牛図では 4 得牛(とくぎゅう) 5 牧牛(ぼくご) 6 騎牛帰家(きぎゅうきか) と続きます。牧童は牛を見つけ縄をつなごうとします。ようやく手綱を引きながら牛と歩き始め、牛の背中に乗って家に帰るのです。今の私の弓道はこのあたりの状態でしょうか。技術も心もまだまだ未熟ですが弓を引いていて心のありようを見て楽しむことが出来るようになってきています。以前は的に中るのが嬉しかったのですが、最近は中りよりも引き分けの結果自然と矢は的につき、会で伸び合っているのが楽しくなっています。

続く 7 忘牛在人(ぼうぎゅうそんにん) で牧童は家に帰りつき牛が消えています。自己と自我が一体化した結果求める対象であった自己が消えてしまっているのです。そして 8 人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう) となり十牛図ではただ円があるのみです。自我も消えて空となったのです。

弓道を楽しむ人はきっと読むであろう本に中島敦の『名人伝』というのがあります。紀昌という男が弓の名人になろうと志をたて様々な修行を行い最後には不射之射の域に入ります。都に戻った紀昌は名人として評判を得ますが、紀昌は弓を執る事をしません。しかし彼の内に宿った射道の神様が体内から脱して魔を払い、古の名人を相手に腕比べを楽しむのです。老いた紀昌は弓矢の事も忘れてしまったと「名人伝」では結んでいます。

私は以前から弓を引く時に、そこにまるで弓矢が無いように引くという事を心がけています。弓手と馬手はふんわりと柔らかく、大三への移行引き分けは踊りを踊るようにどこにも力がかかっていないかのようにと自分に言い聞かせながら練習をしています。日本舞踊やバレエを見て参考にすることも多いのですが、まだまだ観念的で弓矢を忘れる事が出来ません。会では的を狙う気持ちは以前に比べて無くなってきましたから気持ちは中りはずれに拘らなくなってきましたが、それでも試合で負けると悔しさが残ります。なかなか空にはなれないものです。

さて、8 人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう) で空になったのですが、 9 返本還源(へんぽんげんげん) では牛も牧童も無く自然の風景が描かれています。これは興味深いことで再生復活を表しています。ジェネシスです。
弓道に当てはめて考えてみると、私は会で伸び合って空になったものが残心でしばらくすると自分に心が返ってくる感じに似ていると思います。空になって的も私も一体となって無発の発を得ます。気持ちの良い離れが出た時に残心で体の細胞の一つ一つを感じる事があるものですが、これは 9 返本還源(へんぽんげんげん) の状態だと思うのです。

十牛図の最後は 10 入てん垂手(にゅうてんすいしゅ) です。手に酒壺を持った老人が童と向き合っています。老人はかつての牧童で自他を超え自由な姿を得ています。そして目の前にいる童子に道のあることを示しているのです。童子は 1 尋牛(じんぎゅう) につながります。十牛図は直線的な話ではなく円環しているのです。一般的に 10 入てん垂手(にゅうてんすいしゅ) に至ってまた元に戻ると解釈しますが、私は 9 返本還源(へんぽんげんげん) から戻っていると考えても良いと思います。それはどちらでもよいことでしょう。
10 入てん垂手(にゅうてんすいしゅ) で大切なのはかつての牧童が自由を得て童子に道のあることを示していることです。弓道を始めた人は必ず先生や先輩に弓を教わります。同じ道場や地域の射会で弓を楽しむ仲間と交流を得、学びます。そしていずれは後輩の指導にあたったり地域のお手伝いをしたりするようになります。これこそ弓道が仁の道と言われる姿だと考えます。私は悟りを開いてなお人々の救済にあたる菩薩に喩えて弓道を菩薩道と言っています。


NHKの番組「100分de名著」で河合隼雄の考えに触れ久しぶりに「十牛図」の話を聞いたことから、私の頭の中で弓道の事が沸き上がってきてどうしても書いてみたくなりました。8年前に書いた文章とは同じところも違うところもあるのですが、そこに私の弓道練習が反映しているかどうかは分かりません。しかし私は道場で練習するとき、入場口に立ち執弓の姿勢になって呼吸を整え心のありようを観た時にまだまだ自由になっていない自分を知ります。一歩を踏み出す時に心と呼応して足を出せるかというと恥ずかしながら程遠く、何回も入場を練習する始末です。今回文章を書きながら牛の足跡を探す気持ちで踏み出してみようかと空想してしまいます。

ではまた。

テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

腱鞘炎

道場に新しい温度計が設置された。31℃を超えると厳重警戒と表示が出てくる。見るとすでに道場は32℃。まだ午前10時。これから気温は上がってゆくだろう。

右手の拇の付け根が腱鞘炎になった。朝起きて気が付いたのだが、拇を内側に曲げると強い痛みを感じる。2つの関節は大丈夫なのでキーボードは打てるが鉛筆は少し支障がある。ネットで腱鞘炎を調べてみると原因は不明だと書いてある。私自身思い当たる理由がない。普段の生活で重たいものを持ったりすることもない。弓を引く時に右手に力が入っているわけでもない。
本人に責任がなくても病気になったり事故にあうことがある。不条理な世界というのは20世紀になって私たちに近くなった。

弓道をしていると様々な体の不調と向き合わなければいけない時がある。肩や肘の痛み、腰の疲労など誰もが経験することだろう。腱鞘炎は初めての経験なので、どう解決するのか、どのくらいかかるのか興味が湧く。バンテリンを塗ってみたがあまり効果は無いようだ。筋膜を整えるとよいと思うし、指の周りの筋をニュートラルにするのが大切だと考えるので筋にそってマッサージを繰り返してみる。

道場で月例会があったのでカケをつけてみた。普段から拇は深く曲げない使い方なのでカケをつけても大きな違いはないが薬指を深くのせる事は出来ない。引き分けにも差し障りは無いようだ。月末の支部対抗戦まで練習が出来ないようでは仲間に迷惑をかけると心配していたがこれなら問題なく練習できそうだ。

道場での練習の後、クールダウンを兼ねてプールで泳いだ。水泳は体幹を鍛え、筋肉を整えるのに私が好んでいる方法だが、手に適度なマッサージ効果もある。プールの後はジャグジーに入りながら腱鞘炎の場所を吹き出す泡で再びマッサージ。これは効果が高い。

腱鞘炎と気温の関係は分からない。エアコンをかけっぱなしで寝たわけでもない。これから始まる暑い夏に向けて体を大切にするようにとの天の声なのだろう。そう考えれば不条理と思える腱鞘炎も自戒への意味と受け止められる。

皆さまも体のメンテナンスにお心配りをお忘れなく。ではまた。

テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ