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杣人yumi

Author:杣人yumi
弓道と楽しく向き合う杣人の弓道ブログ。お気軽にお立ち寄りください。

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的 動かない事の大事(その2)

前回、的が動かない事が大切だという事を書いた。戦う相手のいる武道は相手の助けを借りて自分を知るが弓道では自分一人の力で己を見つめなければならない。その時に助けとなるのが的で、私たちは動かない的の助けを借りて自分の姿を知る。的は自分を映す鏡である。

ならば必ずしも尺二の的で無くても良いのではないか。十五間先の的である必要はどこにあるのだろうという疑問が湧いてきた。毎回安土に水をまき丁寧に的を立てている者としては少々不遜な考えのようにも思えるが、問い続けることは私の生業だ。そう考えていると巻藁が浮かんできた。
的に対峙して自己を知るのが武道としての弓道ならば、巻藁に向かって矢を射る事も同じではないのか。そう思う。
的に向き合うと中てたい矢飛びの良い射をしたいと思いそこに執着することで迷いが生じるが、巻藁に対して中てたいと思う人はいない。矢飛びは巻藁でも良し悪しがわかるが巻藁に向かっている時は十五間を飛ぶ矢ではなく瞬時の事であるから体に感じる矢飛びである。離れの切れや弓返りの鋭さに矢飛びを実感する。だから巻藁では的に対するよりも執着も迷いも少ない。その分練習がしやすいのかも知れない。
誤解しないで欲しい。的に立つより巻藁に立つ方が簡単だ楽だと言っているのではない。弓を持ち矢を射るのはあくまで射手である本人だ。そこに的前も巻藁前も違いはない。

もちろん的前に立つ前の練習、肩慣らし、射の確認といった巻藁での練習を否定しているのではない。だが的を鏡として弓を引く事を知った弓引きは巻藁でも同じ境地に立つ事が出来るのではないかと言っているのだ。
昔は何ヶ月も時には一年以上も巻藁に向かい師範の許しを得てから的前に立ったという。今の時代、特に弓道教室で習い始めた人には想像もつかない話であろうが巻藁での練習で学ぶことは単に射形や肩慣らしではないものがあると反省すべきであろう。

私はその証拠に巻藁射礼をあげたい。残念な事に弓道教本第一巻に巻藁射礼の作法は書いてあるがその由来意義の説明はない。『現代弓道小辞典』には巻藁前という項に「巻藁射は真の射法で高位貴人の前、又は正式の場合に行う時は、巻藁射礼に依って行射すべきものである。」とあり、射礼(じゃらい)の項にも「射を御覧に入れるものには巻藁前・的前があり、ともに居射礼、立射礼等があり…」とある。つまり巻藁は本来練習のためにあるものではなく高貴な人に対して射を御覧いただくためのものであったのだ。この巻藁射礼の一事をもっても私たちが日頃向き合っている的と全く同格であることを知る。

このように的前にしても巻藁前にしても射には全く軽重変わりが無いということは、射において見ていただくのは射手その人であるからだ。中ったか外れたかでは無く行射に浮かび上がる射手の姿内容そのものだからだ。

さて、こうして動かない的について考えを進めてくると、的にしても巻藁にしても射は中り外れ、矢飛びや行射を見る事の本質は射手を見る事が重要である事がわかる。では射手である「私」とは何であろうか、私たちは「私」をどうやって見る事が出来るのだろうか。次回はその問題について考えを進めて行きたい。

追記)
私は常日頃から、初心者も経験を積み段位を得た人も全く区別なく思っている。もちろん修練を通じて自己研鑽をしその人なりの学を得た人への敬意はある。同様に初心者であって技量や思索が幼く浅いものであったにしても真剣に弓を考え求める人は美しく清々しい。一方どんなに高段者で称号も得た人であっても自分の学の足りない事を知らず、人に対して横柄だったり居丈高だったりする人間はこちらが見ていて辛くなるのでなるべく関わらないようにしている。家庭を蔑ろにし家族や周囲の人に感謝の気持ちを持てない人間も同様だ。自分が今生きて弓道に出会い学の機会を得ている事の奇跡を真に考えて欲しいと思う。私自身いつも反省し自戒しているが十分だと感じたことはない。
大切なことは弓の上手下手ではないし、試合や大会でどれほど成績をおさめたかではない。今何を学びどうゆう自分になりたいのかを考え行動しているのかだ。動かない的はそれを知るための良き友なのではないかと思う。


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テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

的 動かない事の大事(その1)

前回的が動かないことの大切さが心に浮かんできたと書いた。ところがその先になかなか考えが進まない。何か参考になる書物でもないかと思うのだが不勉強だ。

練習の始め、安土に的をたて心の中でお願いしますと唱えながら射場に戻る。道具を確認したり胴着を着て気持ちを整えてゆく。入場口に立ち、気合と動作とがきちんと連動していることを感じながら礼をして本座に進む。私はこの時の入場の第一歩が難しいと感じていて、何回も入場をやり直して練習する事が少なく無い。形だけの歩み、形だけの礼になっていないか、姿にどれほど気合が伴っているか。いつも反省はつきない。
弓道は武道だ。武士の事を弓取りと言うほど弓は重要視される。海道一の弓取という言葉がある。海道とは東海道の事を言いその一番の武士今川義元を指す言葉だ。弓取とは武士、それも国持大名を表し敬意を表しているのだ。
ところで現代では剣道や柔道のように試合で相手と戦い勝ち負けを決めるのとは違うため弓道の武道としてのイメージが弱いかもしれない。実はこれは大きな誤解であるし弓道も学べば学ぶほど武道としての難しさを知るのだが初心者のうちは気がつかない事が多い。競技としての弓道は相手と中りを競争して勝ち負けを決めるがこれはまた違う話である。

剣道や柔道、武道ではないがレスリングやボクシングなど相手と一対一で闘うスポーツでも大切なのは自己コントロールだ。相手のペースにのまれたり、会場の雰囲気に惑わされて実力が発揮出来ない選手は試合で負ける。負けないとしても不本意な勝ち方となり達成感、やり切った感の無い勝ち方になってしまって不満が残る。
一方自分のペースで試合を運ぶことができると、相手の動きも含めて全てが嵌ったように運ぶ。そしてこの時、相手も高いレベルで自分と対峙していると、それこそ相手の力量と一瞬の気のぶつかりを読みながら対峙することとなり、息を飲む試合が展開する事になる。

では弓道では誰と対峙しているのだろうか。相手は的なのだろうか。向き合うものが十五間先にある的だからそう感じるのも仕方ない。どうしても自分と相手という意識が私たちには染み込んでいる。
だが相手は動かない的である。的にはこちらを負かす技術もなければ戦う戦術があるわけでもない。ただそこにあるだけ。必然的に全ての責任は射手にかかってくる。とても当たり前の事であるが、改めて考えると普段どれほど私たちは自分の射・弓道に言い訳をしているだろう。
相手のいる武道、スポーツは相手の技量、戦術を読みながら自分の力量の中でどう戦うかを考える。ところが相手のいない弓道では自分にすべてがかかって来るのだから自分の技量を知り出来る限りの事を発揮するしかない。その意味では初心者も経験者も一緒だ。射技では出来る精一杯をやる事、どこまでも基本に徹した事をやる事だ。そして自己コントロールは自分に何処までも正直である事、自分を偽らない事が基本になる。その上で自分の心の中を深く探り続けなければならない。自分を正直に知る事が無くて自己コントロールはあり得ない。

実は相手と向き合う武道は、相手を借りて自分を知る武道だと言える。相手のいない弓道は自分一人で自分を探さなければならない。的はその手助けをしてくれるものなのだと思う。

的は戦う相手ではないが中てたいという思いを生じさせ射手の心に不安や迷いを起こさせる。正しく引き分けてくれば自然と的につく狙いも的を意識し過ぎると迷いを生む。外れたり矢飛びの悪い射をすれば悔しいと思うのは執着があるからだ。巻藁では不安も無く引けるのに的前に立つと全く違う射をしてしまう人も多い。木の枠に紙を貼っただけの的に私たちはどれほど左右されているのか今更ながらに思う。それは的が相手では無く動かない鏡だからだ。私たちの心の執着を映す鏡だからだ。

射位に立って弓を構えるとどれほど多くの事が頭の中を過ぎる事だろう。道場の他の人の動き話し声はもちろん、他の人の射、弓に全く関係の無いことまで溢れるように湧いてくる。それは私が未熟だからだろうが、多分全ての人が同じような経験をしているはずだ。射位に立って全く何も考えない心に浮かんでこない、ただ弓を引くだけという人がいるだろうか。武道としての弓道を求める人は、少なからずそうなりたいそうゆう経験をしてみたいと願っているのではないだろうか。しかしそれはとても難しい事だ。弓道の練習を通じて執着を知り執着から脱したいと願うのだ。

ある先生が的が目の前に迫ってきた、大きくなって見えた。という話をしてくださった事があった。私はそこまでの経験は無いが的が騒がなくなってきている。つい最近まで右往左往していたのだが練習をしていたら的が騒がなくなっているのに気づく事が出来た。だが私は執着から脱した訳ではない。自分の執着を知り向き合い離れる事をわかり出したに過ぎない。動かない的は執着に気づかせてくれる鏡だ。的を頼りとして弓を引き、自分の執着と戦う。

動かない的は矢を中てるためのターゲットではない。確実に強力に中てるのを目的にするのならシューティングゲームのように動いたり飛び出してきたりする的に中てるほうが工夫も楽しいだろう。常に動かない十五間先の的は私たちの中にある動く物をあぶりだし問いかけてくる。「貴方は何なのか」と。

テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

丁寧

今日、我が家の夕ご飯はシュクメルリだった。牛丼の松家が期間限定のメニューにして話題になった東欧ジョージアの料理。
我が家のレシピは松家のとは違いジョージアのおばさんによるものなのだが、香辛料の使い方が繊細だ。
今日はこれまでの反省もあり弱火で丁寧に香辛料の香りをオリーブオイルに移した。こうすることで鶏肉にもしっかり香りが移り、牛乳を加えても香りがへたる事がない。なによりも食卓でいただいた時、丁寧に作った事が食べてわかる事に驚いた。料理は一つ一つを丁寧に作ると出来上がりが違うのだ。

今日、当地でも選手権の予選会が延期または中止になるという知らせが届いた。東京はもちろん各地の弓仲間から道場が使えなくて練習が出来ないという話がきている。当地の道場はまだ使えるているので幸せな方だろう。

こうゆう時こそ弓を持たない弓道の練習を考えてみても良いかもしれない。
先日スポーツジムのスタジオの大きな鏡を見ながら徒手練習をしてみた。今更とおもうかも知れないが、足踏みから胴造り、打ち起こして引き分けて…とやってみると意外と体の細部にわたって確認の必要なところがあるのに気が付く。
もともと弓が無いように弓を引き、矢が無いように矢を放ちと思っているのだが徒手練習はそれを改めて思い出させてくれた。
道場での的前練習でも最近的を意識しなくなってきた。目は的を見ているがそこに見えているだけで中てるための意識は薄い。これは自分の体の使い方に意識が集中しているためでその結果的中率は上がっているし中り外れで心が動く事がなくなってきた。練習中ひたすら自分との対話に集中をしているから他の事に気持ちが動く事が少なくなってきているのだ。

そんな練習をしていたとき、ふと的が動かない事の大切さが私の中で浮かび上がってきた。15間先の1尺2寸の的は私が何処で何をしようが全く変わりなく動かない。この事の重要さは私が思っている以上に大切なことなのではないか。まだ具体的にはなっていないが、とても根源的重大な事がそこにあるように予感している。

道場で丁寧な練習を心がけていると、ふとそうゆう大切な事が浮かんでくるようだ。

追記)
先生の思い出話。宇野要三郎藩士が矢渡しを明日に控えて道場にいらしていた時、「的が無くても良いのにな」と一言おっしゃった。先生はその時真意を訊くことはしなかったが、先生が私に話したのは的があることで射手の心に作用が起こる。宇野先生にしてもそれを感じながら的前に立っているということだった。
的に対する思いは射手それぞれに違うだろう。競技では中てる的、練習では矢所矢飛びを見る的、射手のレベル、段階でも異なるだろうし、求めるものによっても違って見えるかも知れない。
自分にとって的がどう見えているのか、どう心に感じているのかを問いながら練習するのも大切なことかも知れない。

テーマ : 弓道
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練習と「礼記射義」「射法訓」

新型コロナウイルスのため当地でも県連通達で大会や審査が中止になっている。全国大会の予選会などは行わない訳にも行かず苦慮するところで規模を縮小してというがどれほどの効果があるのだろうか。
審査は会場設備の状況により差があるということで一律に中止ということでも無いようだが、地連としては事故があってはならないと思うのは止むを得ない。3月に続き4月の審査も当地では中止になるようだ。審査に向けて練習してきた人には残念なことだが命に関わることである。ただ高校2年生などは3月、4月の審査で昇段して受験勉強に気持ちを向けて行きたいと思っている人も多いだろう。早い終息を願う。

道場に来る学生と話をしていたら、学校の道場に「礼記射義」「射法訓」は掛かっているが、読んだことも内容について話を聞いたことも無いという返事が返ってきた。その学校の弓道部の顧問は弓道をやらない先生なのだが全く残念な話だ。「礼記射義」「射法訓」を読み心に置きながら弓道の練習をするのとそうで無いのとでは弓道に向かう姿勢が変わってくると思う。少なくとも大切な事を考えるきっかけを与えてくれるはずだ。これは大人でも同じで道場で練習する合間に、先生や高段者の方に簡単でもいいから話を聞くようにして欲しい。かく言う私もそれほど深く理解している訳ではない。図書館から『礼記』を借りてきて読んで見る程度。「射法訓」はネットに出ている色々な解説や『四巻之書』を見てはいるが理解が遠い事を痛感している。

そんな私が参考にしているのに『道の弓 礼記射義・射法訓の解説』(松井巌著)がある。松井先生はすでにお亡くなりになっているが、有志である道の会のメンバーによって自費出版された本だ。
私はこの本に出会う前に、ネットで「弓道における射法訓全文を探しています」と言う記事に出会った。梶田さんと言う方が書かれたこの文には、九州の斎田徳明範士から寄せられたという「射法訓」が載せられ、さらに梶田氏と松井先生とのメールでのやりとりが書かれている。それによると、「射法訓」全文というのはあったかもしれないが消失してわからない。しかし「射法訓」は尾州竹林派伝書『四巻之書』からの抜粋であり、解説は可能である。として松井先生がNIFTYにUPしていた《「礼記射義・射法訓の解説」春の巻》、《「礼記射義・射法訓の教え」夏の巻》、《「礼記射義・射法訓の解説」秋の巻》にリンクが貼られていた。
松井先生の文章は量も多く印刷して読まなければならななかったことや『四巻之書』を読まなければならないという新たな課題も生まれた。『四巻之書』に関しては、「尾州竹林流「四巻の書」講義」魚住文衛範士(弓道)を頼りとしたが、三年間に渡って連載されたこの論文自体が難解なものである。
そこで、『道の弓』が出版されたのを期に求め繰り返し読むことで理解を進めようと思った。なによりもこの本の良いところは同じ内容を高校生を念頭において書いた「春の巻」、四五段を対象に書いた「夏の巻」、称号者用「秋の巻」となっているところだ。称号者だから「秋の巻」を読めば良いというのではなく、自分の理解の進み具合に応じて「夏の巻」と交互に読んでも良いし後輩、学生に話す事をイメージして「春の巻」を読んでも良い。

先の審査の折、ある方と五輪砕きの話になった。仏教の五輪思想やインド哲学などを駆使して形成されているので今ここで詳しく書くことは出来ないが、離れの品格、射の段階に応じた考えである。『道の弓』「秋の巻」では詳しく書かれているが、「夏の巻」では「鉄石相剋して火の出ずる事急なり」について「的中の位の五段階について」として説明されている。記すと

四巻の書の第四巻、「父母の巻の第十三」のところに「十二字五位(尾州竹林流では意)」として著されています。その著しかたは・・・。
一に、父母等しければ、子の成長急なり
二に、君臣直ければ、国豊かなり
三に、師弟相生すれば、諸芸長高し
四に、鉄石相剋して、火の出ずる事急なり
五に、晴嵐老木紅葉散重て冷し
この「父母・君臣・師弟・鉄石・晴嵐老木」の十二字の五つの位です。
ここで「鉄石相剋して火の出ずる事急なり」が出てきます。この5つの位をもっと平易に説明しますと・・・。
1、父母の位  左右の手先同士の釣り合いによってのみで得られる的中です。
2、君臣の位  弓力と体(技)とが一体となって得られる的中です。
3、師弟の位  弓力と体と心の三つが一体となって得られる的中です。
4、鉄石の位  さらにそれが修練されて、軽く冴えた放れにより鉄石が相剋して火の出るような鋭さの中から生まれる的中です。
5、晴嵐老木の位  的中を求めないでも自然と的中が得られる段階です。

と解説され「鉄石相剋して火の出ずる事急なり」とは教士六段か七段位の的中の位だと書かれている。

昨日練習をした。たまたま道場に一人だったので矢数をかけるより呼吸や射の組み立てに注意をはらい丁寧な意識の働きに注意していた。30射を超えた辺りからだろうか、的を意識していないことに気がついた。的を見てはいるのだが狙いとして意識が的に行っている訳ではない。呼吸を確認しながら打起こし、骨の組み立てを確認して会で延び合っている。中らなかった時は何がいけなかったか考え意識の不足を反省するが中り外れで心が動くことはない。静かな練習が二時間半ほど続いた。
練習を終えると心が清々しく気持ち良い。良い練習が出来たと嬉しかった。

練習にはいくつかの段階や諸相があると思っている。基本的なことの確認と修練の繰り返しだが、技が整ってくると心を観る練習が出来るようになる。その指標に「礼記射義」と「射法訓」があると思う。理解は人により段階により違うだろうが、自分の心の中に置き時折反省するのに読み返してみるのも良いだろう。せっかくの「礼記射義」と「射法訓」である。飾りにしておくにはもったいない。

ではまた。



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ジャンル : スポーツ

寒稽古、でも審査の話

先日、寒稽古の記録が終わった。私の道場では1月初旬から1ヶ月間寒稽古と称して練習の記録をつける。
稽古のはじめ、的前に立つ最初の10射の的中を記録するのだ。休む時もあるから1日に最大2日分、20射までの記録をつけることができる。
今年の私の記録は30日で234中、78%だった。8割にはあと6中で10射皆中もなかったことから言えば凡庸な中りだったと思う。
だがこの間、私は肩甲骨の使い方の練習に徹することができたし、なにより寒稽古の記録を最後までつけたいという目標があるため道場に通うことができた。

その記録の写真をInstagramに載せたら多くの方が見に来てくれた。常連さんより初めての人が多かった。どうゆうわけなんだろうと不思議に思う。

さて、先日当地で連合審査、五段の審査が行われた。私は全く関係していないのでどうゆう人が受審したのかわからないのだが、合格者が少なく当地の受審者は全くダメだったようだ。私も他人の事を言うことはできないが、受審者の中には何回も受けている人も多い。何がいけないのだろう。
以前から書いている事だが、審査は今の自分を見ていただくことが本旨だから、審査の時だけ上手に引いて合格すれば良いと言う物ではない。弓の基本を求めて練習をしその理解、習熟度を審査の場で実現しなければならない。一手に集中させるのだから練習の深さと実現させる技術が必要になる。普段の練習がどんなに上手に出来ても本番で実現する能力がなければならないのだ。その意味では選手として試合に出る機会のある人は本番で実力を発揮する訓練が出来ているから審査でも有利かもしれない。

ではどうしたら審査で実力を発揮し合格する事ができるのだろう。
まず段位に応じた技術レベルになっていなければならない。これは最低限の話だ。五段を受けるなら五段のレベルになっていなければならない。だから四段の人は五段とはどうゆうものかを正確に理解していなければならない。ところがこれを疎かにしている人が多いように思う。四段に合格しその後も練習をして少しは上手くなった、少しは中りが増えたから五段を受審するというのではダメだ。自分の中で五段に対する明確なイメージを持ち、それを練習により出来るようになっていることが必要なのだ。
昔は道場の先生が指導をし弟子の成長を見て下さり、審査を受けるようにと仰って下さった。だから実力が発揮出来ず不合格になることはあってもレベルに達していないのに受審するということはまずなかった。今も審査用紙には支部長や学校指導者の承認欄があるが、受けたいという人に待てという先生は少ないようだ。だから見ていて難しいと思う人でも平気で受けているというのが実情だろう。受けるのは自由だという考えも情けないし、受けてみなければわからないというのは論外だ。審査を受けてみて合格したらラッキーというのでは自分がなさすぎる。

受審するには五段への明確なイメージをもって練習し自分に納得が出来る(本来は先生が許してくれる)ところまで来て初めて審査を受ける事が出来る。
先日ある方が先生から「澄ましはいつから始まっていますか」と問われたそうだ。その方は「審査申込を書いた時から」と答えたそうだが、まさに自分の練習にある自覚があり、覚悟が整うから審査を受けようと思う。受けようと思えばすなわち気構えが生まれるから澄ましが生まれる。そうゆうことなのではないか。

五段への明確なイメージと言うが、これは全体としてでなくても良いと思っている。自分の練習が何をテーマにしているのか、例えば弓手をしっかり研究しよう、馬手の使い方を徹底してやろうといったような部分的な事でも良いと思っている。これは弓手をきちんと出来るようになるためには胴造りや肩の使い方、引き分けが出来ないといけないというように、練習で一つのことを集中していると自然と全体が整うという事もある。そうゆう事もあるのだが、一つの事にテーマを持って練習しているとその人の意識がどの辺にあるのかが審査員にも伝わる。漠然と上手く引くのと、私は今これを練習していますというのでは見ている人に与えるインパクトは全く違う。射手の考え、テーマをもって練習しているというのが伝わるから審査する方もその人の方向がわかる。判れば合格をつけやすい。これが漠然と上手に引いているだけでは何をどう練習してどうなろうとしているのかが判りにくい。少なくともインパクトはない。
私が五段を受けた時は伸び合いがテーマだった。錬士の時は馬手の力が抜けるのがテーマだった。そして審査に臨む時、今これを練習していますから見てください(これでどうですかぐらいの強い気持ち)と行射した。
私の審査の受け方が正しいという事を言いたいのではない。私はこうしてきたという一つの例を記しているだけだ。だがテーマを持って練習する事、それを見ていただこうという気持ちが無くてどうゆう考えで審査を受けるのか私には想像がつかない。

次に、それらの練習を審査の場で発揮する方法について考えてみよう。
多くの受審者が緊張や不安などを感じそれを押さえ込むように努力して審査に臨む。無理のない話ではあるが、緊張や不安などの心理的問題はどこからくるのだろう。受かりたいという気負いや上手く引きたいという気持ち、失敗したくないという恐れ。それらは全て自分自身の中から来る。ならば自分を消せば良い。審査では自分が練習してきたそのままを引くだけだから、結果を考えてもしかたがない。だから余計なことは考えない。しかし考える自分がいるように考えない自分もいるから考えないだけではまだ不十分で自分を消すことにはならない。
私もこれまで審査で色々な失敗をしてきた。呼吸に集中して気持ちを落ち着かせたり、どう引くかを頭の中で反芻してみたりしてきた。だが受かった時の事を思い出してみると実は何もしていなかったことが多かったように思う。
五段の時はたまたま立ちで一緒だった女性が私の先輩をご存知で控えでその話になり嬉しい気持ちになっていた。錬士の時は馬手の力をぬく練習をしてきてそれを審査の場でもやって見ていただきたいという思いだけだった。持ち的の練習はしたことがなかったから体配も付け焼き刃だった。弓手の練習はこれからだと思っていた。だから最初から気負いもなにも無かった。
六段の時は一緒に休憩所にいた人に後から落ち着いていたと言っていただいたが、一文字に離れることだけを考えていてやる事をやるだけと開き直った気持ちだったのかも知れない。

自分を消すということは消えて無くなる事ではない。呼吸に気をつけたり、射のイメージを反芻することも実は偏りを生じ自分を硬くしてしまうように思う。それすら忘れ何も意識しなくなった時、私の姿は溢れ空間に満ちてくるように思う。
五段を受けたのは明治神宮だった。まだ中央道場が無く、柔道場を控えとして使わせていただいたが、寒い朝で弓を張ろうとしたら笄を起こした。弓をしまって帰ろうとしたら玄関先で係りの人に呼び止められセロテープを巻いて引きなさいと言われた。そんな状態だから無事に引けるかどうかもわからない。気負いどころの話ではないがそれが良かったのかもしれない。
射位で跪座していると、射場の後ろ背中の風景が頭の中に見えていた。立って打起こすと私の体を透明の球が包みその中心に立っていたので、球にそうように引き分けてきて離れた。気持ちよかった。

私の審査は五段の時の感覚をもう一度体験したいという希望と共にある。審査だけではなく練習でもあの感覚を再現したいと思うのだが、練習はやはり意識の積み重ねだからなかなか実現は難しいだろう。
次の審査ではあの感覚に出会うことが出来るだろうか。そんな願いで私は審査を受け続けている。

テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ