プロフィール

杣人yumi

Author:杣人yumi
弓道と楽しく向き合う杣人の弓道ブログ。お気軽にお立ち寄りください。

カテゴリ
カレンダー
05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
FC2カウンター
Google
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

道場でのマナー

最近あることを切っ掛けに道場でのマナーということを考えている。
中学生や高校生のように学校の部活として弓道を始める人は先生や先輩の教えが絶対であるから学生の間はそれに従いつつ考えて行けばよいだろう。私は学生弓道の経験が無いからそれを論じるつもりはない。たまに学生と一緒の射会を経験することがあり注意が必要かなと思うことがあって言う事もあるが、先輩や先生にどう習っているのかを聞きながら話をするようにしている。

今回私が心配に思っているのは弓道教室などで新しく習い始めたり、昔やっていたけどもう一度という方たちの弓道マナーについてだ。もちろん弓道教室でも道場のマナーというのは教えるだろう。服装であったり立ち居振る舞いであったり、練習中のマナーもある。ところが大人になると自分の態度というのはなかなか直すことが難しく、こうゆうものだと教えても教えたすぐそばから悲しい事になっている。人それぞれの性質というのもあるだろうが、私は道場というのがどうゆう所かという根本への理解が出来ていない事と、自分を正しい姿に規制し作り直してゆこうという心構えが無いからだと思っている。

いきなり難しい事を言うようで恐縮だが、弓道を学ぼうと思った人たちは道場という言葉の意味を考えた事があるだろうか。体をつかって弓を引き的に中てる。的中制の競技も盛んだから弓道は中りを競うスポーツだと思って始める方もいるだろう。だが、それは弓道の一面でしかない。私は個人道場で弓道を始めたから全てを道場の先輩に教わってきた。神棚への礼から始まり控えの畳の上での姿勢態度、会話、道場に降りたら会話を慎み、特に射位に立ったら話をしないといった事を教えられた。慣れてしまえばなんでもないことだし道場として理にかなった事だという事が後から分かり納得できることばかりだ。

道場には剣道場や柔道場というように武術を研鑽する場所という意味とお寺で仏教を学ぶ修行の場所という意味もある。特にお寺の道場と比べてみると弓道の道場は近いものがあると私は考えている。仏教が仏の教えを学び悟りの道を得ようと修行するのと同じように、弓道でも相手は的だけで、その的に向かった自分が練習を重ねる中で的さえも忘れようとする。弓矢をもって的に中てるのなら他の競技でも良いだろうが弓道の場合は弓矢も的も自分さえも消そうと努力する。そうゆう射の練習と同時に自分と向き合う修行をするところが弓道場なのだと思っている。道場の掃除をしたり、的張をしたり、垜を直したり・・・というのは全て修行のためにやっていることなのだ。
そうゆう道場の中で、例えばだが大きな声で話したり、射位に立っても話し続けていたりしたら真剣に練習している人の妨げになる。話をしたいのなら畳の控えに上がって声を抑えて話をすればよい。その時も世間話がいけないとは言わないが、品の無い話を長々とするものではない。せっかく道場にいるのだから自分を澄ましの中に置き、心静かになるように過ごすのが良いであろう。
ある道場では矢取から帰ってきた人に「有難うございます」と礼を言っているがこれだって射位に進んだ人間は云う必要は無い。だいたい射位で言葉を発していれば射の呼吸が変わり練習にならない。(もっとも私も射を説明しながら引くことがあるが、これは例外の話)
これから夏になり足袋を履いて練習するのは暑いと思う人もあるかも知れないが汗をかき足あとを道場に付けるのは他の利用者に対して大変失礼な行為だ。靴下を履いて道場に来て足袋に履き替えて練習をするというのは他人に気遣う当然の配慮だ。
道場によっては胴着ではなくティーシャツや運動着でも良いというところもあるかもしれない。初心者ならいざ知らずだが、胴着を着るのが望ましいのは胴着と袴を着用しているから分かる所作というのがあるからだ。帯をしっかり締めることにより体配、呼吸の大事が理解できる。骨盤ではないズボンのベルトでは全く意味をなさない。

このように道場に於いては服装、立ち居振る舞い一つ一つに意味がありそれを習い実践することが自分自身の修行につながる。たとえ私はそこまで弓道を考えていないという人がいたとしても、道場ではそうゆう心で弓道を学んでいる人がいるのであるからその人に迷惑のかかることはしてはいけない。最低限のマナーを身につける必要がある。
道場では自分の欠点を見詰め、正しい姿、正しい心を探して自分を作り直してゆくことが大事だ。その見詰め直し作り直した自分が実生活でも役に立つというのが「射即人生」だ。
正しい道場の使い方、道場のマナーを学び人生を豊かにしてゆきたい。



スポンサーサイト

教・錬士会交流射会

今日は地区の教・錬士会による交流射会。私の所属道場で開催されました。

昨日の夜、役員の方から電話をいただき、矢渡しで射手をやって欲しいということでしたので、着物を持って道場に向かいます。
少し早めに出てきたつもりでしたが皆さんお集まりで準備もすっかり出来ています。矢渡しで介添えをしてくださる方と位取りをして着物に着替えたところで開会式。

矢渡しを行いましたが、先生からもっと練習をするようにとのご指摘をいただき、三人でうなだれます。

次は審査の間合いで一手礼射。これも先生が一人一人を見て終わった後で講評をしてくださいました。私は離れが悪いとまた以前の悪い状態の評価。落ち込みます。でも仲間内の交流射会で悪いところを教えて頂いたのですから有難くこそあれ・・・。直して上手になればいいのだと気を引き締めます。まして平日の練習でも先生に見ていただいているのですし、時々は「今のはいいよ」って言っていただいているのですから、諦める訳にはいきません。頑張るだけです。

一手礼射に講評をいただいたのでお昼になってしまい。昼食と総会をやって午後から射会です。

四矢5回の20射。
私の今日の成績は。

○○○○ ××○○ ○○○○ ○○○○ ○○○○  18/20   優勝です。

教・錬士会は中る人が多いので気を抜くことは出来ません。まして今日は射の指摘をいただいたのですから内心それなら中りで勝負だとも思っています。もちろん、一射一射を注意して引きますし、お仲間さんにも見ていただいてどこが悪いのか教えてもらいます。皆さんそれぞれに課題を持って取り組んでいる方ばかりです。同時に良いところ見習いたい所もたくさん見て参考にさせていただきます。運行の綺麗な人、弓手の上手な人、すぱっと離れが綺麗な人。どの人からも見習うところはあるのです。

私は順位など気にしないで引いていましたが、途中で14/16が最高で私ともう一人しかいないことが分かります。そして私より先に引いたもう一人の方が最後の立で一本抜いてしまいました。でもほかにも一本差で追い上げてきている人もいます。私が最後の立をしっかり引かなければ簡単に順位は下がるのです。

そうゆう状況で最後の立。
一本づつしっかりと引き分け、会に納めて的に押し込むつもりで左右大きく離します。殆どを星近くに集めて皆中。単独優勝が決まりました。
そして順位を決める遠近競射をしてお仕舞。

先日射会でお世話になった隣市の道場の方が2位と3位でしたので、介添えをお願いして納射。

先生に厳しく課題を与えられた今日の射会でした。気持としては少ししょげていますが、賞品のおせんべいでちょっと憂さ晴らししましょう。明日は所属道場の月例会ですから、また練習のつもりで丁寧な射を研究します。

教・錬士会の皆様、有難うございました。

メロン射会

今日は近隣市の射会に参加。何時も射会や講習会で仲良くしていただいている支部なのでやる気満々で出かけます。やる気満々なのにはもう一つ大きな理由があってこちらの射会の景品はなんとメロン。東京の有名フルーツパーラーにも卸すメロン農家さんが多くあるそれはそれはお上品な土地柄で・・・。そんな景品につられて私も参加となった次第です。

カーナビを頼りに道場に着くと思ったより早く、会員さんが準備を始めたばかりです。しばらくすると弓友さんたちが集まってきましたので、受付をして準備。開会式の後、いざ試合です。

今日の私の結果
○○×○ ××○○ ×××○  6/12    順位決定の遠近競射にも残れませんでした。

一立目は、練習通りを心がけて引きますが、一本目は3時に、二本目は二の黒の星上、三本目は離れが崩れて9時に。四本目は8時の二の黒。
二立目は、一本目が12時に乗せて、二本目は6時、三本目は3時の二の黒、四本目はその左。
三立目は、一本目、二本目が6時に外し、三本目も9時の的外、四本目は10時に中りかろうじて止めた。

今日は12射皆中が一人で単独優勝。11中が二人いて遠近競射、10中も二人いて・・・と20位まで賞品を頂きました。私はさっさと片づけて応援に回ります。

一本一本の反省はあるとして、全体的には中て気に走ったわけでもありませんし、気持ちは坦々と引いていたので何処が悪かったのか良く分かりません。決して集中力がなかったり体が安定していなかったりした訳でもありませんでした。ただ同じ立の弓友さんからテンポが速かったとの指摘がありましたから、何か問題があったのでしょう。体に少し疲れがたまっていたのかも知れません。それできちんと会に納めて伸び合ってという心の余裕のある射が出来なかったのでしょう。練習通りにと心がけていたのですが、今日はまだまだ実力の無いことを知らされました。
それでも色々な支部の皆さんと楽しく過ごすことが出来て、とても楽しい一日でした。

メロンはいただけなかったですが、美味しいパンを参加賞のお土産に頂いて、それはそれで美味しい射会でした。
開催支部の皆さんと弓友さんたちに感謝です。

次回は教・錬士会の交流射会です。今日の反省をもとにぜひ頑張りたいですね。

ではまた。

『射道芸術の探修』 武市義雄 続

『射道芸術の探修』 武市義雄 を読み備忘録のつもりでその内容について記した。ただし「射芸の修行」に重点が置かれていたので本書の他の部分についてはあまり記すことが出来ていない。そこで今回は審査課題論文のテーマに関係のある部分を中心に記しておきたいと思う。


「無発の発について述べよ」
元来は、術技や心術面の秘伝の中から源流を発し、禅思想の影響によって禅公案の「未発の発」を取り入れ、更に哲学的な観法が加味されるに至ったものである。一方この流れとは別に元禄末期頃に森川香山という弓哲が現われ、神道思想を根底とした弓術一派が竹林系統の別流として誕生した。これが大和流で香山は開祖である。香山が「唯授一人」(唯一人に授く)として遺した『日本流神明射儀』に「此大事を射させんとて、推手は虎尾にさわるごとく、勝手は嬰児を抱がごとしといひ、或は、紅葉がさね、朝嵐、真の角見、高山に車をおす、寒夜に霜をきくなどといふのおしへも、心気のすはりをいさせん為也。其の心気のすはりを安定にせんと思はば、無発の射、無矢の発射をなすべし。」という記述がある。

森川香山の「無発の射」「無矢の発射」と唱えられた射道哲学が阿波研造範士の「無発の発」の思想とどう連がっているのだろうかという点は、私(著者)も判らない。しかし、阿波先生が心師と仰がれた梅路見鸞老師は「無影心月射義」の中で「不発の発」を論じている。森川香山は神道思想を中心に儒仏の思想を織り交ぜて大和流弓術を大成した。梅路見鸞老師は禅家の出でその思想背景は禅に発している。
阿波研造先生は神官職にあったこともあり、思想系統は二人の流れを汲んでいるように思う。


「射品射格の向上を図るためにどのような修練が必要か述べよ」
現代の弓界では「射品」ということが問題になる。「気品の高い射風」「露堂々としたる射風」「格調高く重厚な射容」「蒼勁枯淡の射品」「風格のある射相」とかこれらの語はすべて「射品」という概念の中に含まれる「観る人」の情感である。
五段以上ともなれば指導層に列する人士としての認許審査であるから、その品位が問われるのも当然で、「人の師たるに応わしい品位の有無」が判定認許の一要件となる。そこで正射正中の射業そのものの外に、何が問われているかということを深く省察してみる必要がある。特に「人間評価」の問題として「射品」とか「射格」ということをより一層深く掘り下げて哲究自省するところがなければならない。
射品評価を考える時、一定の「格付け基準」とか「上下の枠」のような具体的な物差しがあるものではない。しかも審査で不合格になったとしても「自分の否をどこにあるのか言ってください」と訴えることは出来ず、結局は本人自身が反求自省し出直すより救いの道はなく、その反求自省の器量に欠け自ら救い上げる力のない者はそこに止まるより仕方ない。そこで大事なのは「心の姿勢」の立て方になり、技の修練向上と共に「心」が錬られ「体」に備わりがついてこなければならない。自分で自分を見詰めて自分を錬り上げて行く気概をもたなければならないのである。「自分で自分の器量に磨きをかける」という心意気と情魂が、直ちに自分の「射品」「射格」の高揚に、ひいては自分の人間性を高める全人格的進展に連がっていることを、自分で見直さなければならない。

射品の錬成の対策として以下にあげる。
「心事(心から事(つか)える)する師のある者は、その師の薫陶を受けるよう、一層心を引き締める」
「師事するに足るような師を持たぬ者は、自分でその心になり、自律の道を行け」
「射道修練に哲学を持て。識見を養え。射道生活に表裏、光影をつけるな」
「日頃の稽古法を見直せ。競射技術の錬磨だけが射道ではない。百発百中の錬度をもつことは、必ずしも射の善たるものではなく、その外にもっともっと修すべきものがあることを識れ」
「独りを慎しむ心を忘れるな」
「無識無学の射に遊ぶな」
「射品というものは、造作造業の、見せようとするつくりごとや虚仮の仕業で飾れるものでない。虚と実ということを識れ」
「射品の本質は実の行より生まれ、誠を追求する心根より実りが出る」
「付焼刃より、しつけが大事。射品は庭訓から胎動を始めるものぞ」
「老犬馴らし難し。自律の心なく力と器量なき者は、長養叶わざるものと知れ」
「人の器は、鋳型にはめて造り上げるようなものではない」
「射礼の稽古を怠るな。礼射は身心技錬磨の最捷径の良策、これで実際的に射品の何たるかを自他共に学ぶのである」
「尊敬する先輩や先覚者の射風から、模索の方途と実際を観て学び取れ」

「射品」というのは外形的なことのようであって実は「心」に本源がある。外見を飾る助平根性は捨て分相応の身なりを整え、弓道人たる気品を内に貯え、露堂々たる風格と気高き心性を常に自ら養い、身に備えることを第一義に弁えることであろう。「自分の射に哲学的美学的感覚を植え込む心情から、射品が醸し出される」ことを深く認識することである。

「君、看よ、双眼の色、語らざれば、憂無きに似たり」


「気迫の錬成について」
「気迫」という言葉は「何ものにも屈せず立ち向かって行く強い精神力」の意である。堂々としてあたりを払う射容が、「射品」を決定する要訣であることは言うまでもない。そうした「気迫」とか「演技の迫力」というのはどこから出るのか。その根元を探りさらにその錬成についてどう考えるべきだろうか。
「気迫の充満」は「素養の充実から来る自信」と「強靭な信条」に発する。自己のもつ「射道修行に関する哲学」に根を張り、「安定したる心」と「自分の技術に対する不安なき心境」が生み出した境涯、これが自信の根元であり、これが陰となり陽となって「気迫」を醸成し、「演技の迫力」を創る。
「強靭な信条」を堅持することも「気迫」の源泉となる。「自分の射業はこうなんだ」という確固とした拠りどころをもって臨むのである。「未完成であるが、自分の持つ射芸の凡てを誠をつくして演技するぞ」という覚悟に立つことである。「自分なりに、自分はここまで修練に修練を積んで来た。天地の鬼神も、幽界・現世の先賢も、眼をすえて自分の射芸を照覧し給え」とでも言うように、自己の心中に内観するのである。これが気迫の根元をなすのであって、その場かぎりで俄か造りの虚仮の身振りや動静などで「迫力」が伴うはずがない。その錬成は、このような確信を持ち得るように日頃から自分自身で養うて行くのである。


「射行の修練が人間形成に及ぼす影響について」
弓道を修めるということは、射という行為を通じて、自己の身心に潜む未熟不備の隙を見詰めて、これを皆無に近づけんとする自己との闘いである。この「われに克つ」という修練が至難の業ごとであるが、それを念じつつ日々の稽古に励むという而今の修行の一瞬が尊いのである。「而今」とは過去、現在、未来のうち、過去から未来への転機の一瞬そのままが現在であるという観じとり方である。
実際の場面に想いを移すと、立居振舞の一瞬一事に、即ち、気おくれ、心気の動揺、妄想雑念、による心の隙や心の弛み、技の停滞遅速、体の不安定、構えの不備による隙などに自分の心眼を向ける。その一切一事に「自分の心眼で隙を咎める修行と稽古を積む」ということになる。こんな考え方で常に弓を稽古するなら、誰であれ、その人間性を向上することになるのではないか。
弓は至高の日本的心の表現芸術である。射は正に「人間形成の学道」であり、「終着点のない修行ごと」である。


以上今回は『射道芸術の探修』武市義雄著から八段、教士、七段の論文審査に出される課題に焦点をあて参考となる処を記してみた。読むほどに自分の弓道への取り組みを反省させられ冷や汗の出る思いであるが、このような教えに接することの出来ることは有り難い。
「気迫の錬成について」というのは審査論文に出ているかどうか知らないが、審査に臨む姿勢として大切な心構えだと私は思っていて、私自身も審査を受ける弓仲間にはいつも言っている内容であるのでここに記した。

さて、二回にわたって『射道芸術の探修』を読み記してみたが、改めて弓道修行の指針となる素晴らしい本だと思う。著者の武市義雄範士は私が弓道を始める前、昭和52年9月に亡くなっているのでお目にかかったことも無いのだが、本書を監修をされた福原郁郎範士は私が東京で弓を引いていた時分に何回かお目にかかったことがあった。小柄な先生だがそれこそ隙のない厳しい緊張感を身にまとっていたのを覚えている。
本書の中に私が通っていた道場の話題が登場し、安沢先生の追悼射会で「無心」という書を染め抜いた弓袋を記念品として出したことも書かれている。この本は私にとって縁のある本だったと読了してしみじみと思った。

テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

『射道芸術の探修』 武市義雄

『射道芸術の探修』武市義雄著を図書館から借りて読んだのでその感想を記しておこうと思う。この本は1979年に初版が、2001年に新装版が出版されているが、まだ入手していなかった。先日審査論文の「射品」について参考にしようと思い読んだのだが、内容がとても深いので何回も読み返している。そこで今回は本書の要旨を記して備忘録とする。

本書は著者がご自身の弓道を研鑽されるなかで得た要点や出会った資料を省察し著者自身の「射道哲学」を組み立てたもので特に射法よりも心法に重きを置いたものである。その意味において弓道初心者が読んでも果たして理解が十分に出来るかどうか難しいところがあるだろう。だが弓道の奥深く幅広い教えの一端でも知ることが出来るという意味で弓道に志す者は是非とも読んで欲しい本であり現代弓道の指針となる書であると信じる。

以下本文を参考にし一部写す形で要約してゆく。その一つ一つに引用であることを記さない。

現代の日本弓道は古来伝承の源流に根を持っているが、昔のままの受け取り姿勢であってはならない。現代弓道は射行、射技、体配等の修練の外、射品、射風、気迫、礼威の感覚、重厚性など身心を挙げての修行と「芸ごと」一切を総合した、美学的に高雅な芸術である。この身心を挙げて修練する姿勢を「修行」と観るがこれこそ「射道芸術の探修」である。弓歴を積むことでおのずと向上する技術よりも少しでも自分を伸ばそう高めようとする向上心が人間性を造り向上させることになりそこに弓道を習う本質がある。

「弓を習うということは自分の人間を創り直そうとする修行ごとだ」

将棋や囲碁に定石があるように弓道にも定法弓理がありこれを「射学」という。現代の弓道は昔の射法から相当に変遷してきているが根源的道理、心気の配り方、心得など心法の数々は哲学が含まれていて現代人も学ばなければならない。現代人の知性、科学の知識を加えて射学哲学を拡充させることを「新射学」と呼ぶ。

「人、学ばざればすなわち暗し」

射技、体配等修行の基底は「心法」の立て方が重要で、昔から修技の根幹は「心の姿勢」にありと言われてきた。初心の間は「学ぶ」(まねぶ)「見習う」「模倣する」でも良いが中級以上となればそれではいけない。
心法の基本を挙げると。
①「礼の心に徹する」という心構えに終始する。②「自律」「自制」「自敬」「自励」「自師」の心を定める。③「理」を重んじ、「理」に順う心構え。道理に外れて射芸とはならない。④「観法」を自らの心によって定めること。一心に悟道を思い念づる法を言う。⑤「無心」「夢想」の射境を拓く、自己との闘いに打勝つ心の構えを練る心法。

「弓道というのは、弓矢という道具を使って自分の人間を形成して行く悟道であり、学道である」

射芸の修行(修業ではない)は「心の姿勢」にかかってくる。ここでいう芸とは単に修練によって得た技術とかわざと言う意味ではなく、射業の芸術、「射という業(わざ)ごとの芸術的表現」を意味するものである。つき詰て言えば「射という技巧方式による美の創作表現」の意をもつ言葉である。

射芸修行の実際。その理念に基づき実技演習の場にあってはどうあるべきかを見る。まず、基本的な「心の姿勢」の在り方であるが、何の意識も加えずに心と体に躾込め、融け込ませなければならない。つまり「造って芸をする」というのではなく、演者の「人間」「人格」の表れとして自然に顕れ出るものが本当の「芸」であるとの観方に立って、自らを創って行く心根であらねばならない。そして演者自身で気づかぬところは、師事する人とか気を許し合った同志の者に見て貰って、その指摘を貰うというような謙虚な心を持たねばならない。
この姿勢に立って配慮すべきことは①「起居、立居振舞に一切の無駄を省き去る」②心気の「張り」を始終失わないという「習い」を身につける。③始終、気品ある動作に留意し「気韻生動」の心を失わぬこと。「姿勢端正」に保つことが大事である。④射道は武道であり、武であるからには、「逞しさ」「鋭さ」技の「冴え」切れ味の「小気味良さ」が生命となる。⑤見せんとする虚飾、作りごとを極度に嫌う。⑥「後見の見」という心を忘れてはならない。この言葉は世阿弥の訓える言葉だが、自分の後姿を見ている観衆の目に自分の目をうつして、自己を凝視することを言う。自分の射行姿をこの心眼で見詰める心を失ってはならない。⑦稽古の場に於いても機を求めて道場周辺を掃き清め衣類を着替え心気一新して演習し、心身を鳴らして置くことが切要である。

「射芸」が射の技であることは当然だが、「芸」という言葉を持ち得るには「美と理を実地に現わす手段」との謂が含まれる。真の意味で「人間の芸」とは心の作用を伴い「理に合った美意識を表現する手段」である。こうした考えに立って射芸の修練をするには一連の動作に心の作用(はらたき)が主体となっていることが必要で、心の裏付けのない芸の修練は真似事に過ぎない。模倣は「他人のもの」を真似ることであり、自分の「芸」にはならない。


『射道芸術の探修』では、射法や体配などの修練とともに心の育成が大切である事を重ねて説いている。しかも審査課題論文に私が試論を書いた「無発の発」と「射品射格」のテーマについてもかなり詳しく書かれている。ところが筆者は本書の終盤で「これはどうやら独りよがりの思い過ぎのようで、発展途上の生の弓人方には、道場稽古の合間などでは話しても通ぜぬ繰り言に過ぎぬのではあるまいかと、切に感じた」と書かれている。一見私はおやっっと感じ、これまで見識の深い教えを説きながらどうしたことだろうと思う。
しかし、これこそが著者の弓人に対する最大の示唆なのではないかと私は感じる。私たちは弓道の世界に接する縁を持った。技術を学び昇段試験に臨み経験とともに段位も次第に上がってゆく。技能の優秀な者は国体や各種全国大会などにも出場し名を知られるようにもなる。それは喜びであり楽しい事であるに違いない。
しかしながら、弓道に悟道の道があることに気が付き、それを求めようという自らの発心が起こらなければ誰が何を教えようとも学びの道を歩き出す事は出来ない。かろうじて道のあることを知っても発心の無い人も多い。発心がどのようにして生まれるのか、これを私は言えない。ただ、己の姿を見て深い反省を思い、もがき苦しむ中で藁をもつかむ思いで祈るとき発心の種が見えてくるように私は思っている。

今回この備忘録を記すにあたって『射道芸術の探修』を再度読み返した。とはいえ本書の骨格をつかむためにキーワードとなる言葉を探しながら急ぎ足で読んだに過ぎない。そこで目次によって私の興味のある処を示しておくと、「「離れ」の妙境と活箭の味」、「弓哲弓言注解」これは安澤平次郎範士の『射道精神抜萃』からの注釈。「無発の発」に関する部分では大和流開祖森川香山の「無発の射」「無矢の発射」や「無影心月射義」を編んだ梅路見鸞老師、そして阿波研造から安澤平次郎範士への流れを提している。他にも「先賢の遺墨に想う」「「射行隙なきこと」の意義」「射品の錬成策」「気迫の錬成について」など興味のつきない見出しが並ぶ。こうゆう本は手元に置いていつでも読めるようにしたい。

テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ