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杣人yumi

Author:杣人yumi
弓道と楽しく向き合う杣人の弓道ブログ。お気軽にお立ち寄りください。

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射礼の練習を楽しむ その1 着物に慣れる

審査が近づき、着物を着て練習をする仲間が増えてきた。最近は着物を着る習慣が無くなってきたから人によっては弓道をやることで初めて着物を買うことになったという人もいるだろう。普段から着慣れていないから着物を着るだけで自分自身も落ち着かなかったりする。見ている方もおやまぁと苦笑いする始末だ。洋服は体のラインを重視して裁断縫製するからそのまま着ればいいのだが、和装は発想が全く違う。着物を広げてみればわかる事だが、平面と直線を組み合わせて仕立てられている。二次元で作られた着物を三次元に着ると言っていいだろう。だから着物の場合は自分の体に合せて調整しながら着るという事が必要になる。洋服のような感覚で着てはいけないのだ。そこで初めて着物を着る人はなるべく練習の時も着て着慣れておく必要がある。

弓道で着物を着る場合、男性は肌脱ぎ肌入れという所作があり、女性には襷捌きという所作がある。最近の日本人は体格も良く腕も長くなった。昔の日本人の感覚で作られている着物の場合、着丈はちょうど良くても裄が短いものが多い。特に一重の夏物などは裄が短いかもしれない。弓道の場合袴をはくから着丈よりも裄を重視して購入する方が良い。肌脱ぎの動作で腕を伸ばして裄が短くて恰好が付かないなんというのはいただけない。丈の短い着物がある。そのままでは着られないから袴着用限定の着物ということになるが、先生によってはこれを嫌う方もいる。私は練習用、弓道限定なら良いではないかと思っている。普通の丈の着物を着て袴をはく場合は着物の裾を端折らなければならない。そうしないと袴の裾から着物が見えるし、足を開こうにも開きにくいことになる。座して腰を切って回ろうとすると着物のお尻から下を引っ張ることになるので縫い糸がつれて生地を傷めたり破ったりすることにもなる。着物を端折る場合帯に挟む事になるが、以前審査に行った時に洗濯挟みのようなものでたくし上げた着物の裾を止めている人がいて、これはいいなと私も採用するようにした。非常に便利で安心感がある。

着丈より大事なのは裄と袖丈だろう。男性の場合肌脱ぎ肌入れをするので、袖口の広さや袖付の広さが必要になる。最初から仕立てて作る場合は呉服屋さんに説明して広めに作ってもらうほうが良い。出来合いを購入する場合は着てみて不都合なところをほどいて直す事になる。日本の着物は洗い張りで分かるようにほどいて縫い直すという事が可能なように出来ているからそのあたりの発想は柔軟だ。私は弓道に使う着物は夏冬何枚かづつあるのだが、それぞれの着物に襦袢をセットしてあって襦袢の袖口やわきなどは自分でほどいて少し丈夫に縫い直してある。それほど高級な着物でもないので使いやすいように自由にしようと思っている。
女性の場合も袂は大事で襷が馴染むためには適当な袖丈が無いと襷も落ち着かない。
そんな事の経験も着慣れてくるうちに分ってくるのでぜひ道場の仲間をさそって着物を着ての練習をしてみてはいかがだろうか。

着物の話のお仕舞いに。
着物には状況に応じた格がある。どんなに高級な着物でも紬はカジュアルなところは別として正式な御呼ばれの席に着てはいけない。ウールや木綿の着物は家族での場、普段着だ。でも弓道の場合、公式なかしこまった射会は礼装が必要だが、地域や仲間内の射会なら江戸小紋や色柄のある着物を楽しんで着ればいいと思っている。最近の夏は異常なほど暑いから木綿の着物を涼しげに着こなして、練習が終ったら洗濯機で洗っても良いだろう。私は夏は小地谷縮、冬はウール混の着物を着て暑さ寒さに対応している。あまり神経質になるより着たいものを着て楽しんだほうが良い。袴だって着物に合せて変えれば楽しみは広がる。
ただし、審査の時は私は正絹の紋付を着ている。これは何も良い着物を着て見栄をはっているのではない。正絹の着物は仕立てが確りしていて適度な重さもあり着崩れしないのだ。肌脱ぎ肌入れがしやすく着装が乱れない。着崩れを心配して射に集中できないのは避けたいので着ているのだ。


さて射礼の話を書くつもりだったのだが、その前に着物の事を書きだしたら長くなってしまった。次回は「射礼の練習を楽しむ その2」として本題に入ろう。

ごめんなさい。

おまけの話
着物を着て分かる動作というのがある。以前お茶のお稽古の時に先生から着物をもっているなら着て来なさいと言われた。実際着物でお稽古を始めると歩き方から道具の置く場所、袱紗捌きなど着物だから分かる所作というのが納得できた。洋装だとただの距離としか理解できないものが着物での所作では距離や位置に意味が見いだせるようになった。そして自然と姿かたちが綺麗になってゆくのを感じられた。
弓道の動作も同様で、女性の襷さばきは袱紗捌きを例にして教えられる先生もいるかもしれない。礼としての弓道には美しさが求められる。そして礼の美は合理性をもっていなければならない。無駄な動作は礼にかなわず見苦し。着物を着て練習することで弓道の体配の意味が分かるはずだと私は思っている。

おまけの話2
最近あるところで袴のたたみ方の話が出た。袴は裾から三つ折にたたむが外に広がったのを内側に折って腰幅にすることはしないという指導だった。確かにそうかも知れない。しかしたとう紙に入れて箪笥にしまうのなら分かるがたたんだ袴を崩さないように平らに仕舞うには相応のバッグが必要になる。見ているとたたむときは指導のようにしても結局は丸めて仕舞わざるを得ないようなことをしていた。皆さんのところではどのようなたたみ方の指導をうけているのだろうか。私は練習用、普段使いの着物や袴は柔軟に考えても良いと思っている。

おまけの話3
着物を着ての練習を私は勧めている。しかし現在の審査で四段から着物を着て審査を受けさせるのには反対だ。理由は二つある。一つは審査基準として評価の対象としていない事を要求するのは筋が通らないと思っているからだ。だいたい四五段の審査に着物の所作を入れなくても評価は出来る。次への準備で慣れておくという考えもあるようだが、それは本人の問題で審査する側が言う事ではない。私が五段を受けた時は胴着だった。
もう一つの理由は四段は大学生など学生も受ける事が出来る段位だ。部活費や小物の購入、合宿費などアルバイトをしながら練習する。もちろん審査料も用意しなければならない。その学生に着物を購入させるのはいかがなものだろうか。学生弓道を応援する全弓連としてどのように考えているのか意見を聞きたいと思っている。
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テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

見取り稽古と残心が大切な事

弓道の練習で大切な事の一つに見取り稽古がある。見取り稽古にも段階があり、初心者、経験の浅いうちは高段者や範士の射を見て目に映すのが良い。不思議なことだが見ているだけでも射が移ってくるものだ。道場で一緒に練習する人の射が似てくるというのはそうゆうことで、学びが真似るから来るように先生の射を目に映し自然と真似る(移す)事が学ぶことであるから、見取り稽古は大事だ。

自分の練習が進んでくると他人の射が見えてくる。体配の一つ一つ、行射の一つ一つが見えてきてしかも悪いところが目につくようになる。なにか他人の粗探しをしているようで気持ち悪い感じもしないでもないが、そうではない。正しい射に対してそぐわないところが違和感をもって見えてくるのだ。だから良いところが見えてくるのより先に悪いところが見えてくる。
何か違うなと思えて、どこがどう違うのだろうと頭の中で正しい射に照らして考えることで「あぁこの人の射はここが違うんだ」と分かる。自分の目に焼き付いている良い射と今見ている射を重ねてその差異を知るのだ。そのためにも見取り稽古で良い射を見ておかなければならない。
最近の練習は言葉で習い理屈で教えられることが多いが本当は先生の射をどれだけ見ているか、先生が居る道場でどれだけ練習するかによって身につく事の方がよっぽど骨身に沁み込むのだ。

こうして経験が積まれてくると今度は射の良いところが見えてくるようになる。見るべきところが分かってきたという事であって、具体的にどこがどう良いのかが見える。例えば弓手の手の内がどう良いのか、引き取り線が何故綺麗なのか、肚の落ち着きがしっかりしているのは・・・など良いところが具体的に見えてくる。これは悪いところが見えるのと異なり差異が見えているからではない。良いものが直接訴えかけてくるのだ。だから見る方としては見えてくるそのものを受け取る素直な気持ち受け皿を持っている必要がある。良いものと呼応出来るだけの力量をもっているからこそ響き合って分かるのだ。

最近、一緒に練習をしている人を良く見るようにしている。射を見てアドバイスもしているのだが何が見えるのかをいつも自分に問う作業なので自分に対して真剣勝負のところがある。私の言葉で弓友さんを迷わせたり間違った指摘をしては申し訳ない。私も自分の眼力を鍛えなければならない。

さて残心であるが、弓道教本には「「残心(残身)」の良し悪しによって射全体の判別ができるし、射手の品位格調も反映する。「残心(残身)」ののち、弓を呼吸に合せて倒し物見を静かにもどし、足をとじる。これらの動作は、すべて「残心(残身)」にふくまれるものであるという気持ちで行うことが肝要である。」と書かれている。
ところが残心の重要性を理解していないケースが多くみられる。中りだけを考えても残心を確り意識してとると、伸び合いが利いて的中率が上がる。矢が離れてしまえば中り外れにもう関係ないと思うかもしれないが、それは間違いだ。正しい弓を引きたいと思ったら、自分の残心を確りとイメージして毎回同じような残心になるよう練習しなければならない。意識もせずに綺麗な残心がとれるなどという事はあり得ない。

審査を受けようとしているのならば残心の練習は必須だ。「残心の良し悪しによって射全体の判別ができる」とあるではないか。審査員の先生が残心を重視しないはずがない。私の練習を見ていた先生が「残心で妻手の飛びが同じだから良いよ。」と言われた事があった。なるほど、妻手の飛ぶ位置やカケの姿が違うということは引き方や力の働きが違うということだ。甲矢と乙矢で残心が違うと評価が難しい。先生は私の安定した離れの姿を見て良しとおっしゃってくださったのだ。

残心にはもう一つ重要な要素がある。間だ。審査では基本体の各動作だったり、息合や着物の所作だったり、射法八節だったり各部分の習熟度、可否を判断する。ところが、残心を確りとらない射はこの判断が最後にすっかりとんでしまう。行射を見ながら判断しているはずなのに残心が出来ていないと各部分を判断したものが心に残らない。これは不思議なものだ。残心をとることで良い射が見ている人の心に残るのだ。
何故なら残心には射の爆発から射手の自分に戻るための時間、間があるからだ。良い射にはその射にふさわしい間をもった残心が存在する。その間のおかげで見ている人は射の全体を理解し納得するのだ。

だから射手は自分の射を見てもらうためにも残心を研究し修練しなければならない。残心は離れの後の伸び合った姿だけではなく弓倒しをして執り弓、つまり最初の自分の姿に戻るのだが、残心により射手の姿(世界)を見ている人に厳然とさせる。実は私は最後の弓倒しが好きだ。精一杯行射した後の弓倒しの清々しさは格別なものだと感じている。是非残心と弓倒しを研究していただきたい。


このような事を考えていたら面白い番組を見たので紹介しよう。
「にっぽんの芸能」というNHKの番組がある。先日見た番組の中でテレビ通販で有名なジャパネットの高田明元社長が登場し、世阿弥の『風姿花伝』を読んで仕事のうえで参考になったという話をしていた。
一つは「我見・離見・離見の見」という言葉で離見というのは自分を客観的にとらえるということだ。高田社長は「(セールスで)伝えたつもりになっているが、相手の立場に心を置かないと物も買ってもらえない」と言う。
弓道でも見取り稽古を続けていると、いつしか離見の見が育ってくる。行射している自分を見取り稽古をしている自分が見るのだ。

もう一つの言葉は「一調二機三声」だそうで、機とはタイミング、間だという。高田社長は「大切な言葉を言う時に間をおく。0.1 秒の間を間違うだけで物が半分しか売れないということを30年で感じた」という。ビデオで流れた高田社長の話し方には確かに間があって何をアピールしたいのかが伝わってきた。これも私が残心が生む間によって見る人に射が伝わると言っているのと同じ話だ。

ところでこの間というのは一つの芸でもある。日舞の踊り、噺家の話芸、それぞれの人に独自の間があってそれがその人の芸を作っている。弓引きもその人の体にもった間で行射をするのだから同じ事が言える。加えて射礼では複数の人で間を合わせながら道場に射の空間を作りあげる。弓道が武道であり尚且つ芸術的美しさを持つ所以かもしれない。

最後に一言。
今回見取り稽古が大事ということを書いた。最近は畳敷きの控えのある道場が減っているのかもしれないが、自分が休む時は控えに上がる。お茶を飲んだりお菓子を食べたり、仲間とおしゃべりをする人もいるだろう。道場は修行の場であるが弓仲間との交流も大事だからそれも良い。ただ、私が入門していた道場ではたとえ控えに上がっていても高段者の人や先輩が弓を引いていたら必ず見ていた。後輩が引いていても見ていた。仲間とお茶を飲み話をしながらでも道場の射手から目を離すことはなかった。
いつも誰かの射を見てどう引いているのだろう、何を練習しているのだろうと心の中で目を凝らしていた。そして仲間同士何が目に映るのかを意識した。射場で引く先輩、先生はそうゆう控えの仲間を感じながら練習をしていた。

今は昔の話かもしれない。

テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

仲間との練習

今日、道場に行き準備をしていると先に練習をしていた弓友さんが、「杣人さんに言われた頭を真っすぐにすることをやっていたら、矢が的に集まるようになった。」と話しかけてきた。私は「分かってもらえたかな。」と内心で喜んだ。

私の道場ではあまり人の射を指摘したりしない。道場は自分の練習をするところだから他人へのおせっかいな指導は禁物だが、初心者はいつまでも自己流で引き無駄な練習を繰り返す事になる。
私もまだまだ勉強の身で指導などはおこがましいが、同じ弓道をする仲間が無駄な時間を繰り返すのを見ているのも無責任な気がする。昨年審査を受ける人の練習をお手伝いしたことを切っ掛けに、最近は道場内で少しアドバイスするようにしている。

私の基本的考え方は
1)訊いてくる人には話をするがそうでない人には関わらない。
2)なるべく分かりやすい言葉、具体的・論理的な説明に心がけて図を書いたり実際にやって見せる。
3)伝えたら本人の練習に任せ意識の変化を見守る。
4)講習会で習ったことは何先生にどう習ったと積極的に伝える。
5)道場でのマナーなども折にふれて伝える。
そんな事を心がけながら接している。

朝話しかけてきた人も受審のお手伝いをすることから始まり、本人のモチベーションが上がって積極的に練習をし射会にも参加するようになったので、私も楽しく見ている。そこで段階的に基本の体の使い方を伝えているのだ。
先日彼が引き分けの際に顔をてる癖があるので頭を立てて頭頂を延ばすよう伝えた。見ていると気にかけて練習している。そして一か月。今朝の言葉だった。
そこで私は黒板に図を書いて、引き分け・会で骨を使い伸び合いを作る事とその際に体の縦に延びる脊柱に頭を立てることで十文字をしっかりさせる事を説明した。そして、最初に教えた際に説明をしなかったのは、実際にやってみて意味や効果を感じて欲しかったからだと言い添えた。理屈を教えても実際の効果を経験しないとその理屈が理解されない事が多い。彼の場合真面目で素直な性格なのでやってもらって結果を得た時にその意味を伝えた方がしっくりくると思っていたのだ。
彼の変化は他の所にも表れていて、私が練習のはじめに入場から体配を付けて入ると控えに上がって見ている。私もその分心して引くのだが、見取り稽古の楽しさを感じてもらえれば弓の楽しみが広がると考えている。

さて、私は今他の弓友さんとも一緒に練習をしている。この弓友さんは非常に熱心で色々な事を訊いてくる。時には「これでいいかどうか見てください」なんて言うものだから、「おいおい、私の眼を試しているの?」なんて笑ってしまうのだが、そのぐらい自分の中で試行しながら引いているのだろう。私も口にこそ出さないが先生の前で弓を変えて引いたり、自分の工夫しているところを見てもらいたいと思いながら引いているのだから同じだ。この弓友さんの良いところは自分から訊いてくるところだ。本人にはもちろんだが、練習を見ている周りの人にとっても訊いていいんだという事が分かり刺激になる。
訊くことは大事だ。私など道場で控えに上がると先輩に何でも訊いたものだ。時々自分は訊いてこなくて他人の話を聞いている人がいる。話しているほうも承知していて話相手をモデルにして皆に伝えている場合もあるが、自分から訊いてくる謙虚さが必要だ。他人の話を盗み聞きして都合の良いとこだけ得ようとしても決して自分のものにはならない。学んで得るには姿勢が大事ということだ。

本来道場は大先生が居て、大先生の許可を得た師範代が門下生を教えるという形が古くからあった。私が入門した道場でも「先生にこれを教わった」と宝物のように言う門人がいた。道場が自分の学びの場、修練の場であることを考えればそれで良いのかもしれない。だが、現代においては先生という意味が大きく変わっている。弓道教室に入って(入門ではない)習い、指導する人を先生と呼び練習が続く。次第にできたグループで一緒に練習して指摘し合う人もあるかもしれない。だが弓道教室を卒業したからといってその先へ進む基本が身に付いているかと言えばそんな事はあり得ない。時々の講習会に出たからといっても同じだ。日々の練習の中で指導していただく方に恵まれたり、見取り稽古をする先生や先輩を得たり、そしてお互いに指摘しあう事の出来る仲間が無ければ、どんどん我流の自分勝手な練習にはまっていく。もしくは大きく回り道をしながら無駄な時間を費やさなければならない。それは非常に勿体なく残念なことだ。

現代の道場で先生が居るところは恵まれている。しかしそうでなくても指導的役割を担う人は仲間の練習を見守り手伝う事が大事だ。道場内において仲間同士が見取り稽古をし、おせっかいにならない限りにおいて指摘したり訊いたりし、お互いに刺激を与えあう関係を作ってゆくことが楽しい道場を作ってゆくと思う。指導的役割にある人は偉ぶったりお山の大将になるのではなく(そうゆう人は嫌われて終わりだ)、続く弓仲間さんたちが自ら学べる基礎力を育ててゆくのが本来で、そのためには自身が弓の前で謙虚でなければならない。

私は弓仲間さんたちの練習のお手伝いをしながら、早く持ち的や一つ的射礼を一緒に楽しめるようになりたいと願っている。お互いに信頼し心を通わせながら弓を引く道場を実現したいと思っている。

テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

「平成30年 全日本弓道選手権」 に思う事

今年の全日本選手権が終った。私は練習をしながら友人に送られてくる速報を聞いたのだが、皇后杯を斎藤美智子教士七段がとられた事に喜んだ。しかも予選の点数は最高得点だという。一昨年も最高得点で優勝している斎藤先生。小柄でいつも静かな笑みを浮かべている先生だが、その心の中の厳しさを想像するに敬服の一言だ。

大会が終わり、全弓連のHPを日に何回も開き、結果がアップされるのを待った。

19日夕方、アップされた結果を見て思わず、やった!と声をあげた。男子の優勝は東京の鹿野伸一教士六段。私もご縁のある先生で以前は四国に移られた久田範士と一緒に選手権の常連と言っても良い方だ。資料を見ると12回の出場だが、予選は通過するもののなかなか入賞に恵まれなかった。東京都連の思いもあるだろうがご本人も苦しい気持ちもあったであろう。よくぞ耐えて優勝を得たと遠くから見守る私も自分の事のように嬉しかった。

翌日、道場に行ったのは練習もあるが、先生にお会いしてお祝いを申し上げたいと思ったからだ。練習をしていると細かい雨の中を傘をさして先生がいらっしゃる。「先生、おめでとうございます。」と挨拶をし練習の手を休め皆で先生を囲む。
先生は鹿野先生にお祝いの手紙を書いて郵便局に出しに行くのだと喜びの程を私たちに話だした。何年も前、お父さんである鹿野伸郎範士がご存命の頃、選手権に出ている鹿野伸一教士を「彼は大丈夫。父ちゃんより弓は上手いんだ。」と嬉しそうに話していたことがある。この日も「親父が生きていたら喜んだろうにな。」と先生と同じ病気で亡くなられた鹿野伸郎範士の事を思い出している。息子さんの選手権優勝の喜びと亡くなられたそのお父さんの思い出。長生きすることは喜びとともに寂しいことも一緒に思い出さなければならない。
「追悼 鹿野伸郎範士」という記事を私は2016年7月に書いている。

先生は斎藤美智子先生の優勝についても「最高得点をとって優勝もするのは本物だ。」と褒められ、「俺は最高得点の時は優勝しなくて、最高得点がとれなかった時はなにくそって頑張って優勝した。一緒にとれるのは本物なんだよ。」と仰る。こうゆうユーモラスな言葉に私たちは先生の大きさを感じ傍に集うのだ。

さて、全弓連のHPに記録がアップされたので過去の記録と合わせて参考にしてみようと思い2013年の記録まで遡ってみた。すると常連の選手でもなかなか予選通過しなかった選手が通過と同時に入賞を果たすケース、予選は安定して通過しながらも決勝では入賞出来ないケースなど選手それぞれの歴史が見えてきた。今回優勝した鹿野選手は安定した実力で予選通過するもののなかなか決勝で入賞できなかった。今回5位の友安選手も同様で過去4年は予選落ちしているが今年通過すると入賞を果たした。
反対に今年最高得点を得た坂本選手は毎年上位で予選通過しているが決勝ではこの3年入賞を逃している。今回の決勝は鹿野選手が10射皆中、他5位までは皆さん9中という戦いだから選手権での入賞が時の運もあるだろうがいかに難しい事かと思う。
だからこそ、友安選手のように通過と同時に入賞するとその重みと同時に努力の姿が伝わってくるのだ。
同時に予選を上位で通過し昨年と今年2年連続で最高得点を得ている坂本選手にはぜひ決勝でも頑張っていただき優勝をしていただきたいと思う。

女子については過去のデータを見る事はしなかったが、今回優勝の斎藤美智子選手について一言述べておこう。
2015年、1493点最高得点で予選通過すると決勝では9中で2位。2016年、1464点最高得点と9中で優勝。2017年は1433点11位通過8中で5位。そして2018年は1468点最高得点で10射皆中で優勝。
先生が仰るように「本物だ」とは私にはおこがましくて言えないが、最高得点と皆中というのはどうゆう世界なのだろう。
以前斎藤美智子先生はNHKのインタヴューで「無心の世界がどうゆうものかを追求したい。」「的の向こうに何かがあるのを感じている。予感があるのでそれを見てみたい。」と語られている。学ぶべき姿がそこにあると思う。


さて現在全弓連では個人による映像の録画、インターネットへのアップに注意を促している。
映像の取り扱いについて)
個人が撮影した画像・動画などのインターネット配信等については、撮影者において、被写体となる方の同意を得るなどして、肖像権侵害等の問題を生じないよう、十分に配慮すること。権利侵害の可能性や疑問が残る場合には、他者の権利を尊重して、撮影・配信等を中止すること。
その他)
報道機関、写真業者等の写真撮影とその掲載等については、主催者は関知しない。関係各法例を遵守する義務は、写真撮影者にあることを主張する。

とある。法令順守は当然の事ではあるが、世界中の弓人にとって範士の射礼や高段者の模範演武、全日本選手権の映像などは最も勉強になるものだ。全弓連のHP内に一部選手の映像が出る事はあるが、極めて短く物足りない。YouTubeに全弓連の公式サイトを作り公開することを強く望む。現在個人の方でYouTubeにアップしている人気のある映像は十分に価値がある。権利侵害を言うよりも全弓連として率先しての動画の価値を認め利用する方法を検討するのが良いだろう。
私は今年の全日本選手権の映像を楽しみにしている。

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「旧鈴木家」訪問

三連休の中日。弓仲間さんは射会に出かけているが、私は家の近くにある「旧鈴木家」に出かけた。

「旧鈴木家」というのは当地にある室町時代から続く庄屋の家で、昭和30年代まで住居として利用されていたがその後空き家となっているもので、現在は「旧鈴木家跡地活用保存会」というNPO法人が中心となって公園としての活用を視野に入れながら保存活動を行っている。
何故ここに出かけたかと言うと、「旧鈴木家」には母屋の隣に的場があり、弓道に関係する資料も残されているからだ。
平成24年3月20日には、国際武道大学の松尾牧則准教授が当地を訪れ、古文書や皆伝書、弓などを調査し日置流印西派遠州系が伝えられていたことを調査している。
その後、NPO法人の活動「母屋再生プロジェクト」の一貫として的場再生が行われ、先日9月1日、8日の2回工事の説明会を行い、弓道をされている方が工事の安全を祈願して弓を引くという行事も行われた。
私は両日とも伺えなかったのだが、どのような状況なのかを見に行くことにしたのだった。

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母屋の隣にある建物は「帰一道場」と看板が掛けられ、道場の床は地面と同じ高さで今は集会場になっている。しかし建物内部の作りは床の間と弓を立てる場所、神棚があり、畳敷きの控えが用意されていて一般的弓道場の様相をしている。

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垜は今は改修工事の足場が組まれていて細部を見る事は出来なかったが左側には看的小屋があり三人立ちほどの広さ。瓦屋根に漆喰壁の趣のある垜である。

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私が見学に来た旨を伝えるとNPO法人の方が案内をしてくださった。母屋の方は修理に家を建てるのと同じくらいお金がかかるのでなかなか進んでいないようだが、的場の方は大工さんがボランティアで作業にあたってくれているそうだ。本業の合間をぬっての作業なのでこちらも大変なようだが、年内には垜小屋を直す目途だという。
垜直しが出来たら私たち弓引きが集まってお祝いの射会をすれば良いイベントになって「母屋再生プロジェクト」への宣伝になるのではないかと伝えた。

地域にはその土地の歴史文化がある。時代とともに移り変わりいつしか消えてしまうものもあるだろう。でも当地では全弓連とは全く違う流派の弓やお祭り射会が様々な形で伝えられている。「旧鈴木家」の矢場もそのような伝承の場の一つとして整備されてゆくのなら私たち地域の弓引きがお手伝いするのは大切な事だと思う。

垜を直し、道場の建物も整備してお祝いの射会を是非開催したいと思った。

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