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杣人yumi

Author:杣人yumi
弓道と楽しく向き合う杣人の弓道ブログ。お気軽にお立ち寄りください。

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道場でのマナー 3 教える事

前回の話で「道場では教えないのがマナーだ」と書いた。道場が修行の場で一人一人が自分の練習をし課題を乗り越えていく過程で自己を発見し再構築してゆく場と考えた時、他人が口出しすることは修行の妨げとなる事が多いことを思っての話だ。
道場では先生について習い、先生を写すことから練習は始まる。先生は弟子の練習過程を見て適宜指導をするが、基本は本人が壁にぶつかりながら乗り越える様を見守る。
もちろん信頼し合う仲間とはお互いに「見てください」とお願いして指摘してもらうこともあるだろう。だがそれも「今のはこう引いていたよ」と指摘はしても、どう直せこう引けと言う事は無く、後は指摘を受けて自分でどうするかを考え練習を進める。

そうは言っても公設の弓道場で教室から弓道を始めた初心者の方には周りの人がお手伝いをしてあげなくてはならない場合もあるだろう。私はそれまでも否定しているのではない。教室で教えてくださった先生がいつもいるわけでもない。そこで、今回は教える事について、特に初心者に教える事について私の考えを書いてみたい。

まず、教えるにあたって私が最も大切にするのは相手も人格を持った立派な人間であるという事を相互に確認することだ。これは年齢は関係ない。大人も中学生や高校生も同等だ。だから、私は必ず次のような事を話す。
弓道では範士や称号をもった高段者も初心者の人もやる事は同じだ。弓道では上手になるために特別なテクニックがある訳ではない。基本に徹し正しい弓道を実践しようとするだけだ。だから高段者の人も初心者の人も全く同等でそこに差はない。一生懸命向き合う初心者はいい加減な経験者よりよっぽど立派だ。両者に違いがあるとすれば、経験の深い人はその分正しい弓道、基本に向き合ってきた時間が多い。その努力の厚みは尊重し見習わなければならない。

弓道ではひとたび射位に立ったら、あなたは主人公だ。臆することなく堂々と弓を引けばよい。

この事を必ず伝えるようにしている。

実技では見る事の大事を伝える。「先生の射を写す」と先に書いたが弓道の練習はこれに尽きる。だが普段の練習では一緒に練習する仲間の射を見て問題点を見つけたり、良い点を見つけたりと何時も射を見て考える癖をつけるようにする。ただし、初心者は最初のうちどの射の何が良くて何が悪いのか分からない事も多い。そこで実際にやって見せることが大事になる。
例えば手の内を伝える時に取懸けから始めて離れ残心まで段階を追って解説をしながらやって見せる。さらには強く握ったらどうなるのかなど悪い例もやって見せてそこに理論の説明を加える。
私は指導をするときに、基本は何なのか、なぜそれが正しい射なのかを必ず理論をつけながらやって見せる。

時には私独自の言い方で指導するときもある。例えば四重十文字というのは三重十文字と大三での矢の平行をイメージした言葉だ。教本的に言うなら三重十文字と五重十文字の組み合わせがあるのだが、初心者には難しい。ならばせめても矢を平行にしながら(鳥刺しなどにならないように)引き分ける事の大事を伝えるために私が使う言葉が四重十文字だ。
又、「握りは握るな」とも良く言うし、カケは道具だから道具の使い方を学ばなければならないとも良く言う。

こういう風に独自の言い方で説明する時もあるが、あくまで基本に徹することしか伝えない。これには二つの理由がある。一つは何処まで行っても基本が大事で、何が基本かの探究とどのような状況でも基本が出来ることが武道の本意だからだ。もう一つの理由はどんな弓人にも必ず先生がいる。私がたまたま指導したからといってその初心者さんが先生にどう習っているかは分からない。先生なら成長過程を見守りながら指導が出来るが、スポットの私の指導が初心者さんの成長を枝葉に進めては申訳ない。だから基本に徹し幹の指導に徹する。また、私が教えた事で先生の教えと違う事を言っているように聞こえて初心者さんを混乱させてしまってはいけない。同じことを教えていてもかみ砕いて分かりやすくすることに努めている。

こうゆう例があった。
打ち起こしを説明していた時に「打ち起こすと同時に肩が下がるんだよ」と言ったら、「打ち起こしたら上がった肩を息を吐いて下げると習った」と言われた。私は「それは初心者の段階だね。」と言って、私の肩背中に手をあてて触らせながら打ち起こしをやって見せて実際に打ち起こすことで肩が下がる事を示した。
また、引き分けを説明していた時に「馬手を肩にしょうように引くって言われたんです」と言われた。大きく引くための伝統的な説明の仕方で、私もそう教えられた。ただし「しょうように引く」というのは正直なところ分かり難い表現である。私は心の中で古い先生に(悪い意味ではない)教えられたなと思いながら。引き分けの時は簡単に引き下ろすのではなく、大三から左右に押し開いて引いてくれば口割についた時に自然と詰め合が出来、的にも狙いがつく事を説明した。「しょうように引く」という事を否定するのではなく同じことを別のやり方で説明したのだった。

このように練習のやり取り、会話の中からその人がどうゆう指導を受けているのかを感知して、それを否定することなく、常に基本に立ちながら分かりやすい言葉で伝えることが大事だ。また理論と結果は両輪であるから、やって見せる時には必ず理論を説明してなぜこれが正しい射なのかを理解してもらうようにする。

さて最近特に気をつけていることが二つある。
一つは私たちは常に成長の過程にあるのだということ。例えば馬手の飛びなどは良い例だろう。自然の離れという言葉も言葉は素晴らしいがそれが実現するまでは意識下での練習があっての話だ。残心の形をしっかりイメージしてそれが出来るように意識して馬手を飛ばし練習する。意識して何回も練習し、意識しなくても自然に出来るようになるまで練習しなければならない。私たちはいつもその過程にあるのだ。
もう一つは体に触るということ。弓道は体を使った運動である。その指導の中では相手の体に触ることもある。流派によっては「弓をとって教える」という言い方もする。肩に触ったり腰の位置を直したり、大三の形を直したり・・・と弓道でも体に触ることはある。
上手な指導者はすっと触っただけでどのように筋肉や骨を使ったらよいのか射手が自然と分かるように触ることが出来る。会で左腕の下筋に軽く触れられただけで弓手が伸びるのを経験した人もあるだろう。引き分けで馬手肘にすっと触って方向を示唆することもある。上手な指導者は触るのも上手だ。ただし、最近はスポーツ指導の場面にもセクシャルハラスメントの指摘が聞かれるようになった。実際不届きな人もいるのだろうが、多くはそうではない。私は体に触る時は「肩に触るよ」とか声をかけるようにしている。またそう何回も触ったりしない。セクシャルハラスメントに関しては相互の人間関係が出来ていることが大事だが本人や周りにも誤解を与えないよう、きちんとした指導理念のもと体に触ったり触らせたりしなければならない。
ところで、時に触り方の下手な人がいる。引き分けて来ている時に両肩をがっちり抑えるように触ってくる人がいたが、強く触られると当然体は反発してしまうから余計な力が働いてしまう。時には筋を痛める結果になりかねない時もある。習う側としては難しいところもあるかも知れないが、「触らないでください」と言う事も大事だ。指導する側も良く注意しなければならない。

今回は道場のマナーとして「教える」という事について私の経験から書いてみた。もちろん足りないところも多いだろう。すべてを書く事は出来ない。
道場では一人一人が修行者であることを心に刻み、経験者であろうが初心者であろうが、真面目に取り組む人は皆同等に敬意をもって接しあわなければならない。だから教えるという時にも相手への敬意を忘れず、決して段位が上だから経験が長いからといって尊大になることなく、一緒に学ぶ仲間として向き合わなければならない。そうゆう意味ではパワーハラスメントなどは本来あるはずがない。

道場では教えたがらず、求められた時には拒むことなく、自分で考える余裕を残しながら教えるのがマナーだと思っている。
道場で一人一人が自分の弓道を探して練習をしている。その一人一人が仲間となってお互いを見、切磋琢磨して向上していく時間は本当に素晴らしく気持ちの良いものだ。練習の終わった爽快感、満足感は何事にも替えがたいもので弓人の誰しもが経験している。時に教え、指導にあたることがあっても、弓道で学ぶ人間に敬意をもつことを忘れてはならない。



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道場でのマナー 2

前回、思うところがあって道場でのマナーについて書いてみた。最近では個人道場が減りほとんどの方が公設の弓道場を利用するようになったことにより道場でのマナーも誰がどのような基準で教えていったらいいのかという事が曖昧になっているように思う。だがこれも公設の道場がいけないということではなく、利用するグループの指導者が規範を示せばよい事である。公設の道場という事でいうならば、施設管理という問題も関係してくる。前回垜直しや的張りも修行だということを書いた。ところが最近は施設管理を任された業者が垜整備や的張もしてくれる。矢道の草取りや垜整備は時間で道場を利用するものにとっては難しいところもある。だが、的紙も貼ったことが無い弓引きというのもなんだか可笑しい。最近ではテープで張る事も多くなりそれはそれで時代の移ろいなのかとも思うが糊のきいたピンと張った的が出来た時の楽しさはどこへ行ったのだろう。さらに言えば的の表裏や的枠を削る事も知らない方がいる。自分で穴をあける的なのだから的張は弓引きの基本の作業なのだがそれが出来ない道場とはいかがなものかと思う。的張をするごとに的に対する感謝の心が芽生えてくるものなのだが、今の人はどうなのだろうか。

さて、道場でのマナーとして具体的に列挙しながら書いてみようと思う。社会人としての生活マナーは最低限として、前回書いたように道場というのが教えを学び悟道を得るための修行の場所であること。一人一人が自己を解体し新しい自分を造り上げる自己創造の場であることが考え方の基本だ。

道場に来たら、声を出して挨拶をし靴を脱ぎ下駄箱に預ける。下駄箱が無いときは次に来る人の事を考え適当なところに出船に揃えて置く。控えの部屋の位置にもよるが、一旦道具を置き練習をさせて頂きますという気持ちで礼をする。この時上座の順位は神棚、国旗、審査席の上座である。
礼の後はまず弓を張る。最近はグラスの弓など張ってすぐ引き始める向きもあるが、竹弓はこうはいかない。張って形を整えて着替えなどをしているうちに形を馴染ませる作業が必要だ。だから何より先に弓を張る。道具の扱いを学ぶのも修行だ。
既に練習が始まっている場合は立順など流れを確認して仲間に入れてもらうが、自分が道場を開けた場合は雨戸や窓などを開け空気の入れ替えをし、必要に応じて床を掃いたりする。垜に水をかけ均し的をかける。こんなことをしていると30分ぐらいたつからもう一度弓の形を確認したりして胴着に着替える。
最近は更衣室がある処もあるが、古い道場は更衣室がない。私も以前帯を締め直そうとして女性部員に注意されたことがあった。男尊女卑の性差別やセクハラ問題にもなるので、着替え一つも気を使い更衣室の無い道場では「着替えさせてもらいます」と声をかけて後ろの方で手早くやるのが良いだろう。

さて、練習ではその道場の慣習的決まりがある。私が習い始めた道場は五人が立ち大前が矢取に行くと落に新しい人が入る。休みたい時でも必ず矢取に行ってから「休みます」と声をかけて休む。人数が多くなると五人立ちが何組か出来るのだが、立に入らない人は控えに上がり他の人の射を見る。良いところ、悪いところ色々見て考える。だから控えで休んでいてものんびりなどしていられない。人とおしゃべりをしていても目だけは道場を向いて好きな先輩の射を見てこうゆう射をしてみたいと思ったものだ。
ところが当地に越してきたら勝手が違った。立を回してゆくことはあるが何時もという訳ではない。引き終わった人が「私が行ってきます」と言って矢取に行っている。悪い事ではないが毎回毎回「私が行く」と少々騒々しい。その時の利用者の人数にもよるだろうが、立を組んで回ることがないとしても、黒板に名前を書いて矢取の順番を決めておくのも一つだろう。

さて昔私が習い始めた頃は道場で何処に立つかはその道場のルールがあるから注意しろと教えられた。落は先生の場所だから先生が居ても居なくても開けて置くように、逆に大前が先生の位置だから・・・というところもあった。幸い私の道場では五人立ちの全てを会員が使っていたが、今の道場では大前が先生の場所だ。
立を組んでいる場合は問題がないがバラバラに立っている場合に開いているところに入れてもらうのにもマナーがある。立つところの後ろの人が胴造りを始めたら遠慮するべきだ。気息を整えている最中に目の前の入って来られるのはよろしくない。一立見送って次を待とう。

矢取に行ったら道場の方を見て全員が射終わったのを確認してから旗を出し声をかけるなりブザーを鳴らすなりして矢取を行う。安全確認は最低限のマナーだ。矢を抜くときは後ろの方の的から前の方の的に向かって進む。決して的の前から矢を抜く事はない。これは上座にお尻を向けてしまうからだ。抜くときも的に手を添え、矢を矢筋に抜く。立ったまま抜いたりしてはいけないのは矢をななめに抜いてノに負担をかけないためだ。抜き方が雑な場合に筈に土がついて戻ってくるときもある。もし的枠に矢が刺さってしまいその場ですぐ抜くのが難しい場合は的ごと外して看的小屋運び新しい的に交換する。看的小屋でも時間がかかるくらい難しいようだったら遠慮せずその矢の射手を呼び自分で抜いてもらう。ジュラ矢だって無理をすれば曲がるし、高級な竹矢だったら故障させたらお互いに気持ちが悪い。本人の自己責任で対処してもらうのがルールだ。
抜いた矢は地面につけて矢先を揃えたりしてはいけない。矢を拭くときはノだけでは無く矢尻(板付)も丁寧に砂を落とす。この時良く見ようとの気持ちからから矢尻を目の高さに持ってくる人を見かけるが危険だから矢尻は必ず下を向けて拭く。矢は羽を上にして左手でノを右手で矢尻を隠し持ち羽を矢道の方を向けて持ち帰る。決して片手でぶらぶらさせながら持ち帰ってはいけない。矢立てに戻す時も音がしないよう静かに置き、その後筈や羽を確認して仕訳する。筮竹のようにかちゃかちゃ音を鳴らしながら仕訳してはいけない。

控えで休んでいたり射場で順番を待っている時にもマナーは必要だ。畳敷きの控えでは正座とは言わないが体育座りや横になるのはよろしくない。私は風邪を引いた時に思わず横になったら先輩女性に叱られたことがあった。控えで世間話をしてはいけないとは言わない。今の道場は年配者の社交場の様子もある。何がなんでも真面目にということでは無い。しかし下品な話や人のうわさ話など長々として止まらない人もいる。道場が修練の場である事、自分の欠点を見詰め鍛え直すところという事を肝に銘じて、話好きの人なら口を閉じる努力をするのも練習だ。だいたい道場に来るときは今日はこの練習をしようと課題を持ってくる。それを毎回の射で上手く出来たり出来なかったり、意識してたり忘れていたり・・・といつも考えて練習しているから世間話などしている暇がないはずだ。話をしたいときはその話が今道場で相応しいかどうかを一度考えてから話すようにすると良い。
さて、道場で一番困りものなのが教えたがりの人間だ。まず、一人一人が課題を持って道場に来ているのだから(そうでないならそれこそ勝手に引いていれば良いのだ)他人がとやかく言う事ではない。弓引きは先生の射を写すことから練習を始め少しづつ自分の工夫を加えて練習を繰り返す。ところが時々今のはどうだ今度のはこうだと一射ごとに指摘する人がいるがこれは練習の妨げになりこそすれ指導には全くならない。射手は自分の射を自らで考え見つけなければならないが一本一本指摘されていたら考える暇もない。教えたがりの人はその言葉が自分の心のどこから出ているのかを反省するのが良い。自分が段位が上だったり経験があるからと不遜になっていないだろうか。教えることで自己満足になっていないだろうか。だから道場では教えないのがマナーの基本だ。だいたい教えられて上手くなるなんていうのは無い。壁にぶつかり乗り越えて自分で見つけるしかないのだ。
そう考えてくると控えから降りた道場では一人一人が真剣に自分の射に取り組んでいるはずだから道場でおしゃべりが起こる方が不思議だ。

最後に、射手の後ろに立って見てはいけないと教えられる。射手の後ろは何処だろうか背中だろうか。先生と一緒に立って背中から拝見し勉強することは良くある。射手の後ろというのは勝手側で矢筋を見ることだ。もちろん練習で仲間の人に狙いを確認したいから見てくれとお願いする場合はある。この時頼まれた人は弓の弦、矢の筈、弓手の運行と観ながら射手がどのように的に狙いをつけているのかを見て指摘する。しかし頼まれもしないのに矢筋や狙いを見ることは大変失礼なことだ。ところがこれを平気でやる人がいてどうしたものかと思う。
現代の弓道でどう考えるかはあるが、弓矢は戦場で相手を殺傷する道具である。当然射手それぞれに技量があり、その技量を知られることは自らの生死に直結する大事である。強弓を弱弓のように引くというのも技量を隠す技をいったものだ。射手が的に立って引いている時に勝手に狙いや矢筋を見ることは射手の技量を探る事であり生死の首根っこを押さえたに等しい行為なのだ。だから同じ同門の道場であったとしても仲間の射手の後ろに立って見てはいけない大変失礼な行為として教えられ、後ろに立って見るなと言われる。

さて色々と書いてしまったが私も全てを実践出来ている訳でもない。おしゃべりもするし時には指導もする。だがそのベースにあるのは相手への尊敬と正しいことを知って欲しいという願いだ。私が今回書いたことは先生や先輩から習った事ばかりだ。道場の環境が大きく変わりつつある現在ではこうゆう事だよと教えても根底にある理屈が分からないと教えは生き残っていかない。私自身これからも学んでゆくが、同じように学んでいる弓仲間とともに道場をすこしでも清々しい学びの場として造り上げてゆくことを目指したい。

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道場でのマナー

最近あることを切っ掛けに道場でのマナーということを考えている。
中学生や高校生のように学校の部活として弓道を始める人は先生や先輩の教えが絶対であるから学生の間はそれに従いつつ考えて行けばよいだろう。私は学生弓道の経験が無いからそれを論じるつもりはない。たまに学生と一緒の射会を経験することがあり注意が必要かなと思うことがあって言う事もあるが、先輩や先生にどう習っているのかを聞きながら話をするようにしている。

今回私が心配に思っているのは弓道教室などで新しく習い始めたり、昔やっていたけどもう一度という方たちの弓道マナーについてだ。もちろん弓道教室でも道場のマナーというのは教えるだろう。服装であったり立ち居振る舞いであったり、練習中のマナーもある。ところが大人になると自分の態度というのはなかなか直すことが難しく、こうゆうものだと教えても教えたすぐそばから悲しい事になっている。人それぞれの性質というのもあるだろうが、私は道場というのがどうゆう所かという根本への理解が出来ていない事と、自分を正しい姿に規制し作り直してゆこうという心構えが無いからだと思っている。

いきなり難しい事を言うようで恐縮だが、弓道を学ぼうと思った人たちは道場という言葉の意味を考えた事があるだろうか。体をつかって弓を引き的に中てる。的中制の競技も盛んだから弓道は中りを競うスポーツだと思って始める方もいるだろう。だが、それは弓道の一面でしかない。私は個人道場で弓道を始めたから全てを道場の先輩に教わってきた。神棚への礼から始まり控えの畳の上での姿勢態度、会話、道場に降りたら会話を慎み、特に射位に立ったら話をしないといった事を教えられた。慣れてしまえばなんでもないことだし道場として理にかなった事だという事が後から分かり納得できることばかりだ。

道場には剣道場や柔道場というように武術を研鑽する場所という意味とお寺で仏教を学ぶ修行の場所という意味もある。特にお寺の道場と比べてみると弓道の道場は近いものがあると私は考えている。仏教が仏の教えを学び悟りの道を得ようと修行するのと同じように、弓道でも相手は的だけで、その的に向かった自分が練習を重ねる中で的さえも忘れようとする。弓矢をもって的に中てるのなら他の競技でも良いだろうが弓道の場合は弓矢も的も自分さえも消そうと努力する。そうゆう射の練習と同時に自分と向き合う修行をするところが弓道場なのだと思っている。道場の掃除をしたり、的張をしたり、垜を直したり・・・というのは全て修行のためにやっていることなのだ。
そうゆう道場の中で、例えばだが大きな声で話したり、射位に立っても話し続けていたりしたら真剣に練習している人の妨げになる。話をしたいのなら畳の控えに上がって声を抑えて話をすればよい。その時も世間話がいけないとは言わないが、品の無い話を長々とするものではない。せっかく道場にいるのだから自分を澄ましの中に置き、心静かになるように過ごすのが良いであろう。
ある道場では矢取から帰ってきた人に「有難うございます」と礼を言っているがこれだって射位に進んだ人間は云う必要は無い。だいたい射位で言葉を発していれば射の呼吸が変わり練習にならない。(もっとも私も射を説明しながら引くことがあるが、これは例外の話)
これから夏になり足袋を履いて練習するのは暑いと思う人もあるかも知れないが汗をかき足あとを道場に付けるのは他の利用者に対して大変失礼な行為だ。靴下を履いて道場に来て足袋に履き替えて練習をするというのは他人に気遣う当然の配慮だ。
道場によっては胴着ではなくティーシャツや運動着でも良いというところもあるかもしれない。初心者ならいざ知らずだが、胴着を着るのが望ましいのは胴着と袴を着用しているから分かる所作というのがあるからだ。帯をしっかり締めることにより体配、呼吸の大事が理解できる。骨盤ではないズボンのベルトでは全く意味をなさない。

このように道場に於いては服装、立ち居振る舞い一つ一つに意味がありそれを習い実践することが自分自身の修行につながる。たとえ私はそこまで弓道を考えていないという人がいたとしても、道場ではそうゆう心で弓道を学んでいる人がいるのであるからその人に迷惑のかかることはしてはいけない。最低限のマナーを身につける必要がある。
道場では自分の欠点を見詰め、正しい姿、正しい心を探して自分を作り直してゆくことが大事だ。その見詰め直し作り直した自分が実生活でも役に立つというのが「射即人生」だ。
正しい道場の使い方、道場のマナーを学び人生を豊かにしてゆきたい。



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教・錬士会交流射会

今日は地区の教・錬士会による交流射会。私の所属道場で開催されました。

昨日の夜、役員の方から電話をいただき、矢渡しで射手をやって欲しいということでしたので、着物を持って道場に向かいます。
少し早めに出てきたつもりでしたが皆さんお集まりで準備もすっかり出来ています。矢渡しで介添えをしてくださる方と位取りをして着物に着替えたところで開会式。

矢渡しを行いましたが、先生からもっと練習をするようにとのご指摘をいただき、三人でうなだれます。

次は審査の間合いで一手礼射。これも先生が一人一人を見て終わった後で講評をしてくださいました。私は離れが悪いとまた以前の悪い状態の評価。落ち込みます。でも仲間内の交流射会で悪いところを教えて頂いたのですから有難くこそあれ・・・。直して上手になればいいのだと気を引き締めます。まして平日の練習でも先生に見ていただいているのですし、時々は「今のはいいよ」って言っていただいているのですから、諦める訳にはいきません。頑張るだけです。

一手礼射に講評をいただいたのでお昼になってしまい。昼食と総会をやって午後から射会です。

四矢5回の20射。
私の今日の成績は。

○○○○ ××○○ ○○○○ ○○○○ ○○○○  18/20   優勝です。

教・錬士会は中る人が多いので気を抜くことは出来ません。まして今日は射の指摘をいただいたのですから内心それなら中りで勝負だとも思っています。もちろん、一射一射を注意して引きますし、お仲間さんにも見ていただいてどこが悪いのか教えてもらいます。皆さんそれぞれに課題を持って取り組んでいる方ばかりです。同時に良いところ見習いたい所もたくさん見て参考にさせていただきます。運行の綺麗な人、弓手の上手な人、すぱっと離れが綺麗な人。どの人からも見習うところはあるのです。

私は順位など気にしないで引いていましたが、途中で14/16が最高で私ともう一人しかいないことが分かります。そして私より先に引いたもう一人の方が最後の立で一本抜いてしまいました。でもほかにも一本差で追い上げてきている人もいます。私が最後の立をしっかり引かなければ簡単に順位は下がるのです。

そうゆう状況で最後の立。
一本づつしっかりと引き分け、会に納めて的に押し込むつもりで左右大きく離します。殆どを星近くに集めて皆中。単独優勝が決まりました。
そして順位を決める遠近競射をしてお仕舞。

先日射会でお世話になった隣市の道場の方が2位と3位でしたので、介添えをお願いして納射。

先生に厳しく課題を与えられた今日の射会でした。気持としては少ししょげていますが、賞品のおせんべいでちょっと憂さ晴らししましょう。明日は所属道場の月例会ですから、また練習のつもりで丁寧な射を研究します。

教・錬士会の皆様、有難うございました。

メロン射会

今日は近隣市の射会に参加。何時も射会や講習会で仲良くしていただいている支部なのでやる気満々で出かけます。やる気満々なのにはもう一つ大きな理由があってこちらの射会の景品はなんとメロン。東京の有名フルーツパーラーにも卸すメロン農家さんが多くあるそれはそれはお上品な土地柄で・・・。そんな景品につられて私も参加となった次第です。

カーナビを頼りに道場に着くと思ったより早く、会員さんが準備を始めたばかりです。しばらくすると弓友さんたちが集まってきましたので、受付をして準備。開会式の後、いざ試合です。

今日の私の結果
○○×○ ××○○ ×××○  6/12    順位決定の遠近競射にも残れませんでした。

一立目は、練習通りを心がけて引きますが、一本目は3時に、二本目は二の黒の星上、三本目は離れが崩れて9時に。四本目は8時の二の黒。
二立目は、一本目が12時に乗せて、二本目は6時、三本目は3時の二の黒、四本目はその左。
三立目は、一本目、二本目が6時に外し、三本目も9時の的外、四本目は10時に中りかろうじて止めた。

今日は12射皆中が一人で単独優勝。11中が二人いて遠近競射、10中も二人いて・・・と20位まで賞品を頂きました。私はさっさと片づけて応援に回ります。

一本一本の反省はあるとして、全体的には中て気に走ったわけでもありませんし、気持ちは坦々と引いていたので何処が悪かったのか良く分かりません。決して集中力がなかったり体が安定していなかったりした訳でもありませんでした。ただ同じ立の弓友さんからテンポが速かったとの指摘がありましたから、何か問題があったのでしょう。体に少し疲れがたまっていたのかも知れません。それできちんと会に納めて伸び合ってという心の余裕のある射が出来なかったのでしょう。練習通りにと心がけていたのですが、今日はまだまだ実力の無いことを知らされました。
それでも色々な支部の皆さんと楽しく過ごすことが出来て、とても楽しい一日でした。

メロンはいただけなかったですが、美味しいパンを参加賞のお土産に頂いて、それはそれで美味しい射会でした。
開催支部の皆さんと弓友さんたちに感謝です。

次回は教・錬士会の交流射会です。今日の反省をもとにぜひ頑張りたいですね。

ではまた。