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杣人yumi

Author:杣人yumi
弓道と楽しく向き合う杣人の弓道ブログ。お気軽にお立ち寄りください。

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練習再開

新型コロナウイルスの蔓延が第三波となり様々な行事が中止になっていますが、道場の掲示板を見ると講習会や新年射会の案内が貼られています。
今年は私も2月に練習をしたのを最後に道場での練習をすっかり止めにし自宅での巻き藁練習をたまにする程度。ほとんど弓に触ることもありませんでした。ですから新しい掲示をみてもなかなか参加しようという気にはなりません。なにより体つくりが出来ていないからです。昨年の11月に買った弓もほとんど引くことがなく1年が過ぎてしまいました。

では弓の練習を全くしていなかったのかというとそうは思っていません。夏、阿頼耶識の勉強を通じて「無発の発」への理解を進めましたし生活のあらゆる場面で基本とは何かを考えることは弓の練習にも通じるものでした。私が関わる仕事で組織のマネジメントを行っていますがこうゆう思考も弓の修練には役にたつものです。
基本とは何か、基本を正しく行うために何が必要か、行動を起こすときに意識はどう働くか。そうゆうことを考えながら生活をしていると弓を執ったときに体に現れてくるように思うのです。道場だけ、弓を引くときだけ真剣になろうと思ってもそれは形だけ心の伴わない空虚なものにすぎません。普段から心の中の正直なものを見つめ続ける努力が弓を執ったときに自然と現れてくるのだと実感しています。

さて、半年ぶりに道場にでかけ的に立ちました。休んでいた間に頭の中で考えていたことを実際に体をつかってやってみます。残念ながら気の充実という点では以前のようには出来ませんが、少なくとも射は以前より良くなっているようです。

年末、道場の大掃除と年末射会が予定されています。無事開催することが出来るならば私も久しぶりに弓仲間さんたちと引くことになります。その時のために少しづつでも練習をして恥ずかしいことのないようにと願っています。
           
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テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

的 動かない事の大事(その3)

これまで的が動かない事について書いてきた。弓道は射手自身の心の働きを観、的はその手助けをする鏡である。ならば尺二の的である必要は必ずしもなく巻藁でも良い。その証に射礼には的前もあれば巻藁前もある。いずれも中り外れを見るのではなく行射する射手その人を、人格を見るのである。今回はその3回目である。

以前「無発の発」について書いた事がある。その中で般若心経の一元論を拠所として説明をした。無発の発と自然の離れを同一次元で考えるのは間違いで「無発の発」とは宇宙(万物一切)と一体化する事である。今回動かない的について考えを進めてゆくと「私」に行き着いた。
的の助けを借りて「私」を知る。的(巻藁)に向かって行射し「私」を見ていただく。では「私」とは何か。私は「私」を知っているだろうか。弓を引いて見ていただく「私」とは何か。そんな問いが生まれてくる。
もしこれを読み興味を持たれなかったり、関係ないと思っているならこの先は読む必要はない。弓道といっても人によって求めるものが違う。競技の中りを重視する人、健康のための運動としてやっている人、それぞれ目的も意識も違う。私は弓道の練習を通じて真理を知りたいと思っているのでどうしても「私」と向き合わなければならない。

「私」とは何か。たとえば自分の腕を見て「これは私か?」と問うたら否と答えると思う。体のどの部位を取り上げてみてもやはり「否」である。それは脳でも同じで、脳だけ取り出して「これは私か?」と問うてもやはり否と答えざるをえない。脳科学では脳の働きによって心が生まれると考えるようだが、なぜそう言えるのかどうやって生まれるのか明確になっているとは思えない。
般若心経と同じ大乗仏教の中に阿頼耶識という考えがある。心の構造を考えたもので根本的には「唯識(ゆいしき)」という唯(ただ)識のみが存在するという思想によるものだ。似たような考えを西洋哲学ではカントが「純粋理性批判」で表している。私はここで大乗仏教や哲学を論じるつもりはない。しかし見る(識る)ということ、目の前にある物や起っている事を見るというのは私達の心の中に写っているものを見ているということだ。
物を視覚で見る(識る)、音を聴覚で聞く(識る)、匂いを臭覚で感じる(識る)というように対象物を識るという事は心の中に投影されたものを心が見るということだ。この時私たちは「(私が)見る」「(私が)識る」というように主語に「私」を置きたがるが実は「私」には実態がない。これを仏教の言葉では「無我」と言う。私たちが日常使っている「私」というのは執着する心そのもので本来実態のないものにしがみつくことで生まれてしまう執着心、我執だ。

実は今回の項は私自身整理するのに苦労している。唯識の本を読んだりもするが私の考えや理解を補ってくれるような説明に出会えず思考を何回も繰り返している。ところがこれを書きながらふと浮かんできた文章があった。
オイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』(福村出版)にある一文である。紹介すると。
そこである日私は師範に尋ねた、「いったい射というのはどうして放たれることができましょうか、もし”私が”しなければ」と。「”それ”が射るのです」と彼は答えた。…(中略)
その頃ある日のこと、私が一射すると、師範は丁重にお辞儀をして稽古を中断させた。私が面食らって彼をまじまじと見ていると、「今し方”それ”が射ました」と彼は叫んだのであった。やっと彼のいう意味がのみ込めた時、私は急にこみ上げてくる嬉しさを抑えることができなかった。(92頁〜)
この本は私が弓道を始めて2年目の時に買って読んだのだが最も印象に残っているところである。
そしてその一文がまた私の前に現れてきた。

さて、的について書き始めて「私」に行き着いた。しかし「私」を知ろうとしても実は「無我」であり実態のないものであるから直接的に知る事ができない。そこで「私」を形成しているものを見てゆくと、私たちは自分の心の中にある執着心を集め織りなす事で自分を作り上げていることがわかる。お金や地位や名誉、財産、人に認められたいとか良い人間に思われたいとか様々な私たち自身の中の思いが自分を作り上げているのだ。弓道では中てたいという思いや、上手く引きたいといった思いも執着心だ。それらの執着心を一つ一つ剥がして行くと「無我」に行き着く。そして無我に到着すると同時に”それ”が現れる、一体となるのである。
的は私たちに自分自身の執着心の存在を教えてくれる。しかし中てたい上手く引きたいといった執着心は私たちを縛りつけ不自由にするから排除しなければならない。排除して「無我」になると”それ”と一体となる。阿波研造範士の言う「”それ”が射るのです」を体験することになる。

もう一度「唯識」に戻ってみる。「唯識」の教えでは「唯識無境」と言い「識があるのみで外界は無い」と説く。これは見る私と対象物をイメージしていると解りにくい。しかしよくよく考えてみると、私たちは心の中に映し出されたものを見ている(識)。その私が実態の無い物であることが解ったのだから「識」だけが存在することになる。そして「識」の主語は”それ”であり、同義語にあたる。「識」は”それ”である。
ここに至り、世界は一切を明らかにし光り輝くようになる。全ては実態の無い「私」への執着が惑わしているのだ。

弓道の練習とは自分の執着心を知り、排除し、”それ”と一体となることを体験することだ。私たちは動かない的を相手に素晴らしい練習をさせていただいているのだ。この奇跡を思い一緒に練習する仲間や道場、先生に感謝をせずにはいられない。先生が「杣人はこつこつ練習をする」とおっしゃって下さっている事の意味が重く感じられている。

テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

的 動かない事の大事(その2)

前回、的が動かない事が大切だという事を書いた。戦う相手のいる武道は相手の助けを借りて自分を知るが弓道では自分一人の力で己を見つめなければならない。その時に助けとなるのが的で、私たちは動かない的の助けを借りて自分の姿を知る。的は自分を映す鏡である。

ならば必ずしも尺二の的で無くても良いのではないか。十五間先の的である必要はどこにあるのだろうという疑問が湧いてきた。毎回安土に水をまき丁寧に的を立てている者としては少々不遜な考えのようにも思えるが、問い続けることは私の生業だ。そう考えていると巻藁が浮かんできた。
的に対峙して自己を知るのが武道としての弓道ならば、巻藁に向かって矢を射る事も同じではないのか。そう思う。
的に向き合うと中てたい矢飛びの良い射をしたいと思いそこに執着することで迷いが生じるが、巻藁に対して中てたいと思う人はいない。矢飛びは巻藁でも良し悪しがわかるが巻藁に向かっている時は十五間を飛ぶ矢ではなく瞬時の事であるから体に感じる矢飛びである。離れの切れや弓返りの鋭さに矢飛びを実感する。だから巻藁では的に対するよりも執着も迷いも少ない。その分練習がしやすいのかも知れない。
誤解しないで欲しい。的に立つより巻藁に立つ方が簡単だ楽だと言っているのではない。弓を持ち矢を射るのはあくまで射手である本人だ。そこに的前も巻藁前も違いはない。

もちろん的前に立つ前の練習、肩慣らし、射の確認といった巻藁での練習を否定しているのではない。だが的を鏡として弓を引く事を知った弓引きは巻藁でも同じ境地に立つ事が出来るのではないかと言っているのだ。
昔は何ヶ月も時には一年以上も巻藁に向かい師範の許しを得てから的前に立ったという。今の時代、特に弓道教室で習い始めた人には想像もつかない話であろうが巻藁での練習で学ぶことは単に射形や肩慣らしではないものがあると反省すべきであろう。

私はその証拠に巻藁射礼をあげたい。残念な事に弓道教本第一巻に巻藁射礼の作法は書いてあるがその由来意義の説明はない。『現代弓道小辞典』には巻藁前という項に「巻藁射は真の射法で高位貴人の前、又は正式の場合に行う時は、巻藁射礼に依って行射すべきものである。」とあり、射礼(じゃらい)の項にも「射を御覧に入れるものには巻藁前・的前があり、ともに居射礼、立射礼等があり…」とある。つまり巻藁は本来練習のためにあるものではなく高貴な人に対して射を御覧いただくためのものであったのだ。この巻藁射礼の一事をもっても私たちが日頃向き合っている的と全く同格であることを知る。

このように的前にしても巻藁前にしても射には全く軽重変わりが無いということは、射において見ていただくのは射手その人であるからだ。中ったか外れたかでは無く行射に浮かび上がる射手の姿内容そのものだからだ。

さて、こうして動かない的について考えを進めてくると、的にしても巻藁にしても射は中り外れ、矢飛びや行射を見る事の本質は射手を見る事が重要である事がわかる。では射手である「私」とは何であろうか、私たちは「私」をどうやって見る事が出来るのだろうか。次回はその問題について考えを進めて行きたい。

追記)
私は常日頃から、初心者も経験を積み段位を得た人も全く区別なく思っている。もちろん修練を通じて自己研鑽をしその人なりの学を得た人への敬意はある。同様に初心者であって技量や思索が幼く浅いものであったにしても真剣に弓を考え求める人は美しく清々しい。一方どんなに高段者で称号も得た人であっても自分の学の足りない事を知らず、人に対して横柄だったり居丈高だったりする人間はこちらが見ていて辛くなるのでなるべく関わらないようにしている。家庭を蔑ろにし家族や周囲の人に感謝の気持ちを持てない人間も同様だ。自分が今生きて弓道に出会い学の機会を得ている事の奇跡を真に考えて欲しいと思う。私自身いつも反省し自戒しているが十分だと感じたことはない。
大切なことは弓の上手下手ではないし、試合や大会でどれほど成績をおさめたかではない。今何を学びどうゆう自分になりたいのかを考え行動しているのかだ。動かない的はそれを知るための良き友なのではないかと思う。


テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

的 動かない事の大事(その1)

前回的が動かないことの大切さが心に浮かんできたと書いた。ところがその先になかなか考えが進まない。何か参考になる書物でもないかと思うのだが不勉強だ。

練習の始め、安土に的をたて心の中でお願いしますと唱えながら射場に戻る。道具を確認したり胴着を着て気持ちを整えてゆく。入場口に立ち、気合と動作とがきちんと連動していることを感じながら礼をして本座に進む。私はこの時の入場の第一歩が難しいと感じていて、何回も入場をやり直して練習する事が少なく無い。形だけの歩み、形だけの礼になっていないか、姿にどれほど気合が伴っているか。いつも反省はつきない。
弓道は武道だ。武士の事を弓取りと言うほど弓は重要視される。海道一の弓取という言葉がある。海道とは東海道の事を言いその一番の武士今川義元を指す言葉だ。弓取とは武士、それも国持大名を表し敬意を表しているのだ。
ところで現代では剣道や柔道のように試合で相手と戦い勝ち負けを決めるのとは違うため弓道の武道としてのイメージが弱いかもしれない。実はこれは大きな誤解であるし弓道も学べば学ぶほど武道としての難しさを知るのだが初心者のうちは気がつかない事が多い。競技としての弓道は相手と中りを競争して勝ち負けを決めるがこれはまた違う話である。

剣道や柔道、武道ではないがレスリングやボクシングなど相手と一対一で闘うスポーツでも大切なのは自己コントロールだ。相手のペースにのまれたり、会場の雰囲気に惑わされて実力が発揮出来ない選手は試合で負ける。負けないとしても不本意な勝ち方となり達成感、やり切った感の無い勝ち方になってしまって不満が残る。
一方自分のペースで試合を運ぶことができると、相手の動きも含めて全てが嵌ったように運ぶ。そしてこの時、相手も高いレベルで自分と対峙していると、それこそ相手の力量と一瞬の気のぶつかりを読みながら対峙することとなり、息を飲む試合が展開する事になる。

では弓道では誰と対峙しているのだろうか。相手は的なのだろうか。向き合うものが十五間先にある的だからそう感じるのも仕方ない。どうしても自分と相手という意識が私たちには染み込んでいる。
だが相手は動かない的である。的にはこちらを負かす技術もなければ戦う戦術があるわけでもない。ただそこにあるだけ。必然的に全ての責任は射手にかかってくる。とても当たり前の事であるが、改めて考えると普段どれほど私たちは自分の射・弓道に言い訳をしているだろう。
相手のいる武道、スポーツは相手の技量、戦術を読みながら自分の力量の中でどう戦うかを考える。ところが相手のいない弓道では自分にすべてがかかって来るのだから自分の技量を知り出来る限りの事を発揮するしかない。その意味では初心者も経験者も一緒だ。射技では出来る精一杯をやる事、どこまでも基本に徹した事をやる事だ。そして自己コントロールは自分に何処までも正直である事、自分を偽らない事が基本になる。その上で自分の心の中を深く探り続けなければならない。自分を正直に知る事が無くて自己コントロールはあり得ない。

実は相手と向き合う武道は、相手を借りて自分を知る武道だと言える。相手のいない弓道は自分一人で自分を探さなければならない。的はその手助けをしてくれるものなのだと思う。

的は戦う相手ではないが中てたいという思いを生じさせ射手の心に不安や迷いを起こさせる。正しく引き分けてくれば自然と的につく狙いも的を意識し過ぎると迷いを生む。外れたり矢飛びの悪い射をすれば悔しいと思うのは執着があるからだ。巻藁では不安も無く引けるのに的前に立つと全く違う射をしてしまう人も多い。木の枠に紙を貼っただけの的に私たちはどれほど左右されているのか今更ながらに思う。それは的が相手では無く動かない鏡だからだ。私たちの心の執着を映す鏡だからだ。

射位に立って弓を構えるとどれほど多くの事が頭の中を過ぎる事だろう。道場の他の人の動き話し声はもちろん、他の人の射、弓に全く関係の無いことまで溢れるように湧いてくる。それは私が未熟だからだろうが、多分全ての人が同じような経験をしているはずだ。射位に立って全く何も考えない心に浮かんでこない、ただ弓を引くだけという人がいるだろうか。武道としての弓道を求める人は、少なからずそうなりたいそうゆう経験をしてみたいと願っているのではないだろうか。しかしそれはとても難しい事だ。弓道の練習を通じて執着を知り執着から脱したいと願うのだ。

ある先生が的が目の前に迫ってきた、大きくなって見えた。という話をしてくださった事があった。私はそこまでの経験は無いが的が騒がなくなってきている。つい最近まで右往左往していたのだが練習をしていたら的が騒がなくなっているのに気づく事が出来た。だが私は執着から脱した訳ではない。自分の執着を知り向き合い離れる事をわかり出したに過ぎない。動かない的は執着に気づかせてくれる鏡だ。的を頼りとして弓を引き、自分の執着と戦う。

動かない的は矢を中てるためのターゲットではない。確実に強力に中てるのを目的にするのならシューティングゲームのように動いたり飛び出してきたりする的に中てるほうが工夫も楽しいだろう。常に動かない十五間先の的は私たちの中にある動く物をあぶりだし問いかけてくる。「貴方は何なのか」と。

テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

丁寧

今日、我が家の夕ご飯はシュクメルリだった。牛丼の松家が期間限定のメニューにして話題になった東欧ジョージアの料理。
我が家のレシピは松家のとは違いジョージアのおばさんによるものなのだが、香辛料の使い方が繊細だ。
今日はこれまでの反省もあり弱火で丁寧に香辛料の香りをオリーブオイルに移した。こうすることで鶏肉にもしっかり香りが移り、牛乳を加えても香りがへたる事がない。なによりも食卓でいただいた時、丁寧に作った事が食べてわかる事に驚いた。料理は一つ一つを丁寧に作ると出来上がりが違うのだ。

今日、当地でも選手権の予選会が延期または中止になるという知らせが届いた。東京はもちろん各地の弓仲間から道場が使えなくて練習が出来ないという話がきている。当地の道場はまだ使えるているので幸せな方だろう。

こうゆう時こそ弓を持たない弓道の練習を考えてみても良いかもしれない。
先日スポーツジムのスタジオの大きな鏡を見ながら徒手練習をしてみた。今更とおもうかも知れないが、足踏みから胴造り、打ち起こして引き分けて…とやってみると意外と体の細部にわたって確認の必要なところがあるのに気が付く。
もともと弓が無いように弓を引き、矢が無いように矢を放ちと思っているのだが徒手練習はそれを改めて思い出させてくれた。
道場での的前練習でも最近的を意識しなくなってきた。目は的を見ているがそこに見えているだけで中てるための意識は薄い。これは自分の体の使い方に意識が集中しているためでその結果的中率は上がっているし中り外れで心が動く事がなくなってきた。練習中ひたすら自分との対話に集中をしているから他の事に気持ちが動く事が少なくなってきているのだ。

そんな練習をしていたとき、ふと的が動かない事の大切さが私の中で浮かび上がってきた。15間先の1尺2寸の的は私が何処で何をしようが全く変わりなく動かない。この事の重要さは私が思っている以上に大切なことなのではないか。まだ具体的にはなっていないが、とても根源的重大な事がそこにあるように予感している。

道場で丁寧な練習を心がけていると、ふとそうゆう大切な事が浮かんでくるようだ。

追記)
先生の思い出話。宇野要三郎藩士が矢渡しを明日に控えて道場にいらしていた時、「的が無くても良いのにな」と一言おっしゃった。先生はその時真意を訊くことはしなかったが、先生が私に話したのは的があることで射手の心に作用が起こる。宇野先生にしてもそれを感じながら的前に立っているということだった。
的に対する思いは射手それぞれに違うだろう。競技では中てる的、練習では矢所矢飛びを見る的、射手のレベル、段階でも異なるだろうし、求めるものによっても違って見えるかも知れない。
自分にとって的がどう見えているのか、どう心に感じているのかを問いながら練習するのも大切なことかも知れない。

テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ