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杣人yumi

Author:杣人yumi
弓道と楽しく向き合う杣人の弓道ブログ。お気軽にお立ち寄りください。

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反省と練習 的つけの事

前々回の記事で「練習はなんでもあり」という事を書いた。色々な事を試して自分で考える事は教えられたことを鵜呑みにしてしまうよりは良いと考えている。これは先生の教えを素直に学ぶ事に反する事ではない。

しかし、色々な事を試しているうちに自分で勝手な理屈をつけて正しい事と思いこんでしまう事もある。今回はその反省だ。

私は的に中てるのが好きだ。二段ぐらいの時から道場では選手にしてもらい試合を楽しんできたせいもあり、中ることを大事に思っている。だがその過程で早気ぎみ(真正の早気ではない)になっていたり、射形の乱れを直すのに時間がかかったりという経験も人一倍している。
今年、私は的に誘われるのを矯正しようと的を確り見ない方法をとってみた。眼鏡を外して霞んで見える的。これには二つの目的があって一つは的に誘われて早く離れてしまう事を防ぐためと、中て気に誘われて射形の乱れ、離れの崩れるのを直すためだった。特に二つ目は的に中てることに意識が行き過ぎて手先に囚われるよりも体に意識を持ってくるようにするためと思っていた。結構切実な思いで眼鏡を外していたのだった。
そうゆう練習をしていて的が霞んでいる分的を胸の中に見ようと生意気な事も思っていた。

だが、練習が進み霞んだ的に慣れてくるとやはり的を見ようという意識が働いていることに気が付く。霞んではいるもののやはりよく見ようと目を凝らすのだ。的が胸の中に浮かんでくることを待とうという気持ちは維持していたがそれも当初ほどのものではなくなっていって、的が霞んでいても中りがある事に自慢げに満足している自分に気がつくようになっていった。

そんなときある先生に私の練習の話をしたところ「的はやはり確り見なければだめだよ」と言われてしまった。的を置く意味をもう一度考え直そうと思った。
今は眼鏡を外して霞むのではなく、見える的が自然に気にならなくなるにはどうしたら良いかと考えている。時々高段者の方と話していると的が近づくとか的が大きくなるとかゆう話が出てくるのだが、的は狙うためのものとして存在しながら的は何かを考えてゆこうと思っている。的は的だよという声が聞こえるような気もするのだが・・・。

さて、的の話についてもう一つ。
先日射会に出ていたところある先生から離れが乱れるのは的つけが間違っているからではないかと指摘を受けた。これまで私の重大な課題で散々苦労しているところだ。六段を頂いてからも時々現れるこの悪癖に色々なアプローチで臨んでいるのだが、その都度良くなったり戻ったりと自分としてこれだというのが掴めていない感じがあった。
今回先生から頂いた指摘は的つけを正すというこれまで見直していなかった点だった。先生は早速私の後ろから別の方に見てもらい的付けが正しいかどうかをチェックする。すると私の狙いはかなり後ろについていて、半月で9時、萬月で星であることが分かった。これまでそうゆう的の見方を意識していなかったので、これは新鮮な取り組みだ。
以前も書いた事があるが、私の狙いは肩、弓手、的を一直線に結び、矢筋の延長線が星にくるようにイメージするものだった。
今回、萬月の狙いが私の正しい狙いだと分かったわけだが、先生は1か月は人に的つけを見てもらいながら練習するようにと言われた。早速道場の練習で、仲間に事情を話し見てもらう。的付けの見方を覚えてもらうという場面もあったのだが、見てもらい正しい的つけで引くと幾つかの事が分かってきた。
その一つは弓を押す方向の違いだ。今までは肩からの線に乗せて真っすぐに押しているつもりだったのだが、感覚的には3時の所に押すような感じになっている。結果として角見が利いている気もする。
これが甘いと少し横に振った感じになり見ている人の話では瞬間後ろについて離れる事になるらしい。無意識に中るように引こうと離れの瞬間に操作してしまうのだろう。失敗の射だ。
さらに、この的つけを正しくする中で変わってきたのは引き分けだった。基本的に引き分けは三重十文字と平行に矢が下りてくるように弓を開くと思うのだが、的つけを正したことで引き分けが素直になった気がする。弓手の感覚も良いが、特にカケの捻り具合と弦に取られて力が抜けてくる感覚が安定したように思っている。会での納めた感じはまだ試行中で肩と肘の納まりの問題なので少し事情が違うと思うが、カケが軽い分肩肘への意識が高まって良い方向にあるのではないかと思っている。
もう一つ意識が高まったことを書いておこう。物見と頭の位置だ。当然ながらこれが正しくなければ的つけが安定するわけがない。私の頭は少し伏せ気味なところがあって顔向けも浅いのではないかという気がもともとあった。今回的つけを直す際に顔向けも見直している。

このように自分で正しいと思ってやっていた事も的つけ一つ直すことであちらこちらに修正箇所が見つかった。改めて基本の大切さを思い知った。そして先生という存在は恐ろしいもので私の問題点を見抜き、そこを指摘することで根本からやり直す切っ掛けを与えてくださったのだ。有り難い存在だ。

今回自分の反省としてかなり恥ずかしい話を書いた。きれいごとかっこいい事を言っていても何もプラスにはならない。
まぁ時には射会で良い成績を出して自慢げに報告もしたいが、練習について赤裸々な姿もさらして自戒の場としたい。
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テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

石雲院 三段的

11月26日。一年ぶりに石雲院の三段的に参加してきました。
静岡空港の隣にある石雲院では春と秋の二回、三段的という珍しい射会が行われます。垜を人が昇れるほど高くし、下段、中断、上段と的が掛かっていて、的の高さは通常の下の段は地上の雑兵、二段目は少し奥まって馬上の武士、一番上の的は城郭の弓兵を狙う設定なのだと聞いた事があります。奥行に関しては何か決まりがあるようですが私にはわかりません。人が矢取り出来るだけのスペースがありますから矢を射る人は高さと同時に距離にも注意を払う必要があります。

この日は開祖ご住職の命日だそうで毎年11月26日に射会が執り行われますが、お寺では法要が何回にも分かれて行われ、お茶を頂いたり、精進料理のお昼ご飯をいただいたりします。境内には近隣の農家さんでしょうか大根や白菜、鯛焼きやお菓子などの売店もあります。

そんな賑やかな石雲院なので車を静岡空港の駐車場をお借りして停めると会員の方が送迎の車を出して弓道場の下にある駐車場まで運んでくださいました。
一緒になった弓仲間さんと荷物を置き、頃合いを見て受付をします。私は早めの立が好きなのですがかといって早すぎると忙しないので様子を伺いながら申し込むとちょうど全体の4分の1ぐらいの立順になりました。

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競技の様子はこんな感じです。
射場を前と後ろ二射場に分けて、下と中段はそれぞれの的を狙います。中段は二人で一つ。上段は四人で一つの的を狙います。

下段の的は距離も大きさも普段の霞的を狙うのと同じなのですが、的の白いところが大きくて黒い線が細い的です。いつもの霞的よりも大きく感じます。中段、上段は少しづつ大きな的になっています。

私の立は前射場の一番。後には一緒に来た弓仲間さんが立ちます。三段的はこの普段慣れた下の的にちゃんと中てておくのが勝負のコツです。練習で気を付けていることを思い出しながら、大きく引く事を心がけて、狙いもごく最近修正したのでそれもやってみます。
下の的は上手い具合に〇〇と中りました。次は中段。狙いをつけますが少し不安がよぎります。でも遠的のように確り狙って勝手を矢筋に離すと矢は的に向かって飛んでゆきました。中ってももう一本と気合は抜けません。中段も幸い〇〇。
私の前に四本皆中した人がいなかったので初の拍手をいただき、缶ジュースを頂戴します。

とりあえず一立目は無事終了したので、他の方の射を見たり一緒の道場から来た弓仲間さんのビデオを撮ったりして楽しみます。

一立目が終了した段階で四矢皆中した人が4人。次は上段と下段とを狙う難しい立ちです。
まずは上段。一本目は中りましたが、二本目が少し後ろについてしまい、会で修正しようと思うところで矢が出てしまいました。9時に外します。次は下段です。一本目は上段の失敗の分注意を払いますので中りますが、二本目はやはり9時に外します。この立は落ち着きに欠けたようです。

自分の立ちが終って矢取を済ませるとお昼御飯です。お寺の中で精進料理をいただきます。実は去年、精進料理がどうも私の口に合わずお弁当をもって来たのですが初めて参加の弓仲間さんがいらしたので一緒にいただきます。今年は大丈夫。おかずのがんもどきやこんにゃく、野菜などをいただき食事終了。

私たちが食事の最中も射会は進み、二立目が終った段階で一本外しただけのY先生が暫定一位。私と同様の二本外した人が暫定二位で6人ほどいます。
弓仲間さんから応援メールも頂いて気合は入っているのですが、ここは心を落ち着けてと静かにします。実はこうゆうお祭り射会では皆さんとの交流も楽しいのですが、かといって勝負は勝負です。どうゆう状態に自分を持っていくかは微妙なところで楽しみ過ぎていると勝負になりません。遠方からいらしたR先生に射の話を伺いながら、勝負への意識を高めます。立ちが近づくとY先生に挨拶して立へ。実はこの時、私の中では外す気がしない落ち着いたものが出来ていました。
三回目の立ちは中上と中てますが、気合もちょうど良く整い。安定して四本中てます。これで自分で出来る事は終わりました。

後はY先生の結果待ちだったのですが、射終って出てきた先生、一本外してしまいました。となると、同中の6人の結果によって射詰を行う射手が決まります。私も誰と射詰をすることになるだろうかと楽しみにしていると、時々射会でご一緒するSさん一人が残り、Y先生、Sさん、私の三人と決まりました。

射詰の的を何処にするのかは射会の担当者の裁量です。今日は一番上の的を使うようです。
私が先頭で入場して一本目を射ると無事中りますが、二番目のY先生は僅かに上に外してしまいました。これは思わぬ事。見てる皆も楽しむように四回ぐらいはやろうねと射場に入る前に話していたのに・・・。続くSさんは6時に中ててきます。
私とSさんの二人で射詰を続けます。私は三本目を9時の縁近くに中てて少し狙いが変わってきたのを感じていましたが、Sさんは一本目の6時から修正をかけてきたのか確り中てています。
三本目がそれぞれ中ったので的を通常の尺二の大きさに替えて射詰を行います。
私が先に引いて7時の的ふちに外して、Sさんの射を待つと12時の中黒に中ててくださり、射詰終了。結果的に四回引く事が出来的替えもする充実した射詰となりました。

昨年のこの石雲院の三段的、私は射詰3人に残ったものの一本目を外して三位でした。今回はその時の優勝者さんに負けないつもりで来たのですが、優勝者さんは早々と戦線から去っていて私としては少し物足りない感じ。でもいつも色々な大会で成績を残されているY先生と射詰をするという初めての事に喜びも感じ、十分満足の二位でした。
今回から石雲院さんが優勝者にトロフィーと賞品を出してくださいました。射会の格が上がったようでとても嬉しい事です。会からのみかん10㎏の箱を貰って帰り、道場で皆におすそ分けです。

石雲院の方、会の皆さん、集まった弓引きの皆さんのおかげで三段的を楽しむ事が出来ました。有難うございました。

テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

練習はなんでもあり という話

先日の審査で一次通過もならず非常に悔しい思いをした。
審査は今出来る限りの精一杯をやって評価をいただくものと考えているが、正直なところ色々な事情が重なって精一杯をすることが出来なかった。これが私の今の実力かと思うと悔しいのだが終ってから悔やんでも仕方がない。悔やむくらいならその時に精一杯やれというのだが、そんな事の繰り返しだ。
審査前に講習会に参加し、講師の先生から指摘を受けた。その指摘は審査の場で意識し続けてやることが出来たのでそれを支えに次の練習を開始している。

練習では一つ一つ基本に立ち返り、私の何がいけないのかをチェックする。足踏み、胴造り、取懸け、打ち起こし・・・と確認してゆくのだが、今更ながらここはあそこはと見直すところが出てくる。

最初に気が付いたのは頭の位置で少し覗く癖のあるのを修正して試していると一緒に練習する弓友さんから疑問符付きの指摘を頂いた。一緒に練習する弓仲間というのは有難いもので、私の良いのも悪いのも見知っているので私がこれかなと思って修正していてもその方向の違い不具合を直ちに指摘してくれる。そんな仲間の声を参考にしながら工夫を繰り返している。

私は直す時は大胆かつ徹底的にやってみようと思っている。
例えば打ち起こしから大三、引き分けと運行する際に、仲間に私の頭の上に手を軽く置いてもらい、頭の位置を確認したりする。
自分の矢飛び(貫徹力)に疑問を持った時は射位から何メートルか後ろに立って狙いを変えずにちゃんと的に中るのかを確認する。遠くからでも中る為には気合もさることながら弓の性能をより引き出す技術が必要になるが、そうゆう確認を経て正規の射位に立てば貫徹力はより増しているのではないかと思ってそんな事もしてみる。
今日は、馬手の飛ぶ方向を確認したくなったので、射位に立ちながら的ではなく正面に置いてある鏡を見て離れた時の馬手の軌道を確認してみた。審査前の講習会でも指摘を受けていたし、私の癖の一つでもあるのでこの際徹底的に直したかった。鼻の頭をするのではないかと心配したが、そんな事は無かった。どうやら私の鼻は思ったほど高くないようだ。
鏡を見ながら離し、馬手の飛ぶ姿を見ると今までとの違いが分かる。その時の自分の体の使い方、意識の働きを記憶し覚える。何回か練習した後、普通に的を見ながら練習した。馬手に集中しているから弓手は少しいけないが手ごたえを感じるまで練習をする。意識と姿が一致するまで練習をする。

春から眼鏡を外して的前に立つようにしている。その発端は的に囚われる私の心を戒めるためだった。的が見えるとどうしても的に中てようという気になってしまう。そこで眼鏡を外し、的をぼんやりと(実際かすんで輪郭はぼやけている)見るようにして、胸の所に的が浮かんで来たら離れを出すように練習をしてきた。以外と早く的が見えている時と霞んでいる時とで的中率に違いは無いと思えたので試合などでも実践してきた。しかし最近この練習にも疑問が浮かんできている。見える的を消すから練習になるのであって見えないようにして練習しても的を消す練習にはならないのではないか。私のやっている眼鏡を外して的を意識の外に置こうとするのは邪道ではないのか。もうこうなると的が見える見えないの問題ではなく心をどう訓練するのかという問題なのだが、こうゆう練習は人に訊けるものではなく自分で工夫するしかない。

的を見ないという練習では別な試みもしている。というより少しお遊びなのだが。
会で的つけが出来たら目を閉じそのまま離す。胴造りと引き分けが正しく出来ているとこれは意外に良く中る。ところが、取懸けをしてすぐ目をつぶり、打ち起こし、引き分け、会とやって離してみると、これが中らない。的への狙いが出来てからなら中るのに、打ち起こしからなら中らないというのは何故か。運行の途中で自分の体で感じ得なかった何かが誤差を生じさせているのだろう。まだ正しい射の運行が出来ていない事の証拠だと忸怩たる思いだ。もし練習を積んで正しい射が出来るようになったなら、打ち起こしから目をつぶっていても体が正しく働き矢は的に中るはずだと考えている。

このように練習の時は何でもありの試行錯誤が楽しい。自分の今の射にこだわることなく、こうやったらどうなるだろうとあれやこれや試してみる。もちろん先生に指摘を受けた事や基本の練習はコツコツと続ける。だがその合間に工夫した稽古を入れる事によって普段気が付かなかったものに出会う事もある。そんな刺激を自分で見つけると練習が楽しくなるのだが、皆さんはどんな練習をしているのだろう。

ではまた。

テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

先生

先日東京で審査を受けてきた。結果は残念だったのだが連絡をとっていた旧友や思いがけなく再会した仲間に会えて気持ちの良い時間を過ごした。その一人一人が私の弓道の一部であり宝物だ。一緒に練習をし、試合に出、飲み明かし、時には浴衣を脱いで骨の組み立てを議論したり・・・今思い出しても思わず笑みのこぼれる仲間たちとの思い出。
そして何よりも感動したのは彼らの口から先生が私の事を思っている話を聞いた事だった。直接は私に言わないが、仲間との話の中で私の射や一緒に過ごした話をしてくださっている。

そこで、今回は私にとって先生とはどうゆう存在なのかという事を書いてみたいと思う。最近弓道を始めた方には異質な話に思えて理解出来ないかもしれないが、道場と先生の存在は私にとってどうゆうものかを少しでもお伝えしたい。

私は先生との出会いは縁だと思っている。先生も弟子もお互いの希望や思惑で関係が出来るのではなく縁によって結ばれてゆくものなのだ。私が最初に入門した道場は弓具店に教えられて伺ったところだった。私には何も予備知識が無く、どうゆう道場かも知らないで入門した。でもそこで私は先生と出会った。先生はご自身が挑戦の時で私はその姿に接し学んだ。しかし私は最初から先生と意識していたわけではない。道場には指導をしてくれる先輩が何人かいて若い私を教えながら次第に仲間に加えていってくれた。そして気が付くと先生は私の前に先生として立っていた、そんな感じだった。

つい最近「あの先生が良いから習いに行く」という話を聞いた。私の時代には自分の道場の先生が先生であって他所の先生に習いに行くなどという事はあり得ない話だった。もしあったとしても道場の先生に相談し許しを得て紹介状を書いてもらって・・・という話だろう。そうゆう考えの人は他に良い先生の話を聞くと行って習いたいと思うのだろう。そして結局何も学ぶことが出来ない事を知る。何故なら、最初から先生を品定めしているからだ。習う側が教える先生を品定めするなんて世界が何処にあるだろうか。
習うからには自分自身をさらけ出して先生の前に額ずき七転八倒の苦しみをさらし、正直な心で取り組まなければ教えを吸収するなんてことは出来ない。これを分からなければ学ぶことなど期待しないほうが良い。

一方先生はどうかというとこちらも弟子を選ぶことは出来ない。想像してみて欲しい。道場に居てどんな人間が入門を希望してくるかなんて分からないし、自分が教えたいような都合の良い人が来るとは限らない。では先生とはなにか。これは弟子によって先生になってゆくのだと私は思う。もちろん知識・技術が優秀で経験が豊富、人格的にも立派な方は先生と呼ばれるだろう。だが、先生というのは相手がいての事だ。自分一人で私は先生ですという人はいないだろう。つまり先生というのは弟子がいて初めて先生になるのだ。自分の前で苦しみもがく弟子を温かく見守りすこしばかり導くことで本人が道を見つけることを手助けするのだ。本気で弟子を見るから先生と弟子の間に縁が結ばれてゆくのだ。

このように、先生と弟子の関係というのはお互いに自分の思惑、意思を超えたところでお互いに取っ組み合うような練習の果てに結ばれてゆくものなのだと思う。そしてそれを可能にするのが道場であり道場で一緒にいる仲間なのだと思う。

現在、個人道場が減り弓道教室などで始めたり再開したりする方が多くなっているが、指導にあたる高段者・称号者の方たちを私たちは先生と呼ぶ。直接教わったりしていなくても称号者には先生と敬称として呼ぶ。それはそれで良い。だが、私が使う師弟関係の先生という意味とは全く違うものだ。
私が所属した道場では範士の大先生がいらして、その先生の下門下生が練習をしていた。教士錬士も大勢いたがみな〇〇さんと呼び先生とは呼ばなかった。呼ぶとうちの先生は大先生だけだと言われたものだった。そんな感じでも弓への取り組みは真剣で弓の前では皆が平等だった。でも長幼の序はあった。私は自分の経験談を話す時先生は〇〇先生と〇〇先生だよと二人の先生の事を話すのだが、だからといって他の範士や称号者、経験深い高段者の方を蔑ろにしている訳ではない。出来るわけもない。

さて、私は道場で弓を学ぶ仲間をとても大切に思っている。そのことについても触れておきたい。
私は高校生の頃から増谷文雄という東大の宗教学者の本を通じて仏教を学んでいるのだが、増谷先生の専門は原始仏教の研究でその中に『相応部経典』というのがありその一節に『善友』という話が出てくる。引用すると長くなるので抄出意訳すると仏陀が「太陽が昇る前に東の空が明るくなるのは陽ののぼる兆しである。修行者が正しい仏教の教えの道に進むときにも同じように兆しがあるが、それは善き友を持つことである。」と説く。続いてアーナンダという弟子が「善き友がいて善き仲間とともにあるということは聖なる道の半ばに相当しますね」と問うと、仏陀は「アーナンダよそれは間違いだよ。善き友、善き仲間とあることは聖なる道の全てだよ。善き友とは師であり教えだよ。」と答えたというのです。

もう一つ同じ経典の中に、『有偈品』というのがあり、その一部に『茉莉花』と題するお経がある。茉莉とはジャスミンのことだが、コーサラ国の王妃茉莉が王と交わした会話が伝えられている。王は「茉莉よ、あなたは自分自身よりもっとも愛おしい他のものを考える事が出来るか。」と問い、茉莉は「私は自分自身よりなお愛おしいものを考える事が出来ません。王様はどうですか。」と同じ問いを返す。すると王様も王妃と同じ答えだった。二人はしかしこの考えに不安を感じたのであろう、仏陀のところに行き自分たちの考えが間違っていないかどうか教えを請うた。すると仏陀は「人は自分よりも愛しいものを見つけ出すことは出来ない。それと同じように他の人々にも自己はこよなく愛おしい。だから自分を愛おしいと思う者は他の人を害してはならない。」と説いた。

この二つの話は私の好きな話なのだが、道場は道を学ぶ仲間で形成されその仲間によって自分の修行も支えられている。そう考えると善き友善き仲間とともに学ぶという事が全てだというのも理解できると思う。私たちが練習する道場も正しい道を求めて使えば自ずと感謝に満ちた使いかたが出来るだろう。
そして、自分がその道場で弓道の真実を求めて学び続けていれば、同じように学ぶ仲間に対して和敬の気持ちがおこり、自らを反省する気持ちも生まれ、共に学び合ってお互いを高めてゆこうという気持ちが育ってゆくはずだ。私はそうゆう道場を仲間と作っていきたいと思っている。


ちょっとお詫び。
「あの先生が良いから習いに行く」という考え方では先生を品定めしている事になり学ぶことが出来ない。と書いた。たぶんこうゆう表現は現代の人には非常な違和感を持たれるだろうし、反発をかう言い方かもしれない。今回それを承知で敢えて書いている。
先生と生徒(弟子ではない)の関係も昔と違うだろうから良い先生に習いたいと思って何が悪いのかと言われるかもしれない。ここ等あたりも難しい事だと思っている。じゃあどうしたらいいのかと問われるかもしれない。私は恵まれていたが範士の先生のいらっしゃらない県や高段者の少ない道場など日本中にある。そうゆう道場で必死に練習する方はきっと良い先生を探して遠くまで習いに出かけたりもするのだろう。そうゆう弓引きの方に正直なところ答えを用意している訳ではない。

私はどうゆう先生と出会うのかというのもその人の弓道の縁であり、その縁の中で何を学ぶのかがその人の修行の課題なのだ思っている。もし貴方が「この先生が良い」と思って門を叩いたのなら、その先生の前で本気で自分をさらけ出して稽古してゆけば先生との縁が伸びてきて結びつくかもしれない。縁は人智の超えたところで繋がっていると思うが、本気で稽古していれば縁が生まれるかもしれないではないか。自分の中の本気を信じたら良いと思う。そして一緒に練習する善き友と練習を続けているうちにいつの間にか先生が現れているものだ。本気の練習が先生を連れてくるのだ。
私は幸い二人の先生に導かれるようにして出会った。下手で下手でどうしようもない私なのだが、東京の先生は今も気にかけてくださっているし、当地の先生からは「練習やめてお茶を飲め」とよく言われた。私は自分の下手さ加減に何度も弓を諦めようと思ったことだろう。だが諦められず心の中で泣きながら弓を引いた。そして今はお茶を飲めとは言われなくなった。

今私は何人かの仲間と一緒に練習をする機会を得ている。彼らには私は正直に向き合い、一緒に七転八倒しながら練習をしたいと思っている。私が自分を思うように、仲間一人一人を大切に思い愛おしく思っている。
私は彼らの先生になる事が出来るかどうかは分からない。でも善き友、善き仲間でありたいと心から思い、彼らのために可能な限りのお手伝いをしたいと思っている。

ではまた。

テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

射礼の練習を楽しむ その2

射礼は審査の学科問題として「射礼の精神と意義について述べよ」というのがあり、『弓道教本1巻』の射礼のところを読んで勉強する。また、錬士の二次審査では射礼の一種である持ち的が行われるし、教士以上の二次審査では一つ的射礼が課される。そのような理由から四段ぐらいになると先生の指導の下持ち的射礼、錬士になると一つ的射礼の練習をするようになる。

私は射礼の練習はもっと早く段位にかかわらずに始める事が良いと考えていて、射礼の練習を通じて弓道の世界を知ることが出来ると思っている。

私たちが最も一般的に見る射礼は矢渡しだ。審査や大きな大会の開会式では必ず矢渡しが行われる。しかもそれは会の最高責任者であったり、責任者に準ずる経験豊かな高段者が務め、時には高齢の範士が務めるのだが、その技とともに私たちは気迫のこもった射を拝見し自ずと緊張し襟を正し背筋を伸ばす気持ちにさせられる。

さてそのような射礼であるが、ある先生は「思いやる心」が大切だと言う。射手一人の矢渡しでも介添えが射手を中心にして三人で動きを合わせる。それは射場に入る前から始まっていて、介添えに任命された者は射手に挨拶をし射手からの注意事項、替え弓や矢の受け渡しの時に射手が矢の何処を持つのか、射つけ節なのか先端なのかを確認したり、肌脱ぎ肌入れの際の介助に要望はあるのかなどを聞く。特に第一介添えは射手につき従い射場に入る前から介添えとしての意を尽くす。介添え同士も当然ながら手の位置や礼の深さをお互いに確認する。これらは全て射手をたてながらも三人が一つとなって行う事が出来るようにするためである。

同様に持ち的射礼や一つ的射礼においてもそれぞれの射手がそれぞれの役割を理解しながらお互いを尊重していなければならない。体配の呼吸を合わせ行う事は即ち相手の事を思う気持ちであり、敬愛和合の心が無ければ生まれるものではない。
お互いの技量、心の働きを感じながら思いやる心で調和を図る。そしてそれぞれの気を合わせて射場に気を満たせてゆく。射場は凛とした空気とともに美しい空間になってゆく。

もちろん日頃の練習と心の鍛錬がなければ出来るものではないので、立派な射礼を実現するには相応の経験が必要になることは自明だ。しかし、たとえ真似事の域であろうとも有志の仲間で練習をしていれば少しづつでも理解は進むと思う。何事も練習の積み重ねがあっての成功だと思う。これは私の反省の言葉でもある。


********

さて、最近私のブログについてご注意、ご心配を頂く機会があった。
その一つは具体的な内容から人物が特定できてしまうのではないかということ。これについては確かに私の地域近隣の方には分かってしまうところもあるのかと思う。ブログを読んだと声をかけれられる事もある。
ブログの内容が試合や大会、審査や講習会といったものに関しては同じ場にいらした方には一目瞭然だ。しかしそれらの記事にしても私は自分の反省として書いてはいるものの内容に否定的批判的な事は書かない。特に問題となるのは講習会で先生がどう仰ったかという事を書く場合だと思うが、全体講評や私への指導について備忘録として書いているのであって異議を唱えるもの(あるはずもないが)を書くような事はない。読まれる方においても匿名で書いていることを鑑みてご理解をいただきたい。

もう一つは発言が過激だと心配してくださるものだった。これは読み手の受け止め方によって温度差があると思う。自分の意見を書く以上発言に責任をもっているつもりだが、言葉が足りず誤解を生んでいるものもあるかもしれない。
私は基本的に世の中には様々な意見考え方があるという事を尊重している。だから私が現状に疑問をもった意見を書いていたとしてもそれをもって現状を否定しているのではない。むしろ楽しんでいる。
例えば以前書いた弓道誌から地連情報が消えた件を残念に思うと書いた時、多くの方から同じ意見だとお知らせいただいた。嬉しく思ったが、同時に私は編集部の考えも知りたりと書いている。編集部にも理解を示しているのだ。
私が意見を書く時、反対側にある意見を尊重するのは、違う意見の存在、そこにある事情に気を付ける事によって私が短絡的独善主義に陥らないようにするためだ。同時により幅広く見渡し良い考え方を見つけようと思っているからだ。私は自分の考えが絶対だなど全く思ってないし多くの方の考え方を知り、咀嚼吸収したいと思っている。
ただし、自分の意見は堂々と発言したいし、間違いや理解の足りないところがあれば反省し喜んで正しい事を吸収していきたい。

物事を学ぶときに大切なのは素直な気持ちだ。教えられる事をそのままに受け止め自分のものにする素直な心。しかし同時にこれは本当にそうなのだろうかと疑い探究する気持ちもとても大切な事だ。この二つを両立させてゆくことが学ぶ心を育ててゆく。
私は後者の方が少しだけ強い性格なので誤解を生みやすいところがあるようだ。

今回射礼の記事を書こうと思い立ったがなかなか書くことが出来なかった。この記事もあまり深く書くことが出来ない筆よごしだ。それは私が未熟なためなのだが、弓道が常に修行の途中にあるように、考え方、見識の深さ、物事に対する愛情の注ぎ方にも修行反省がある。
今の私をブログという場所で表明することで、未来の私の反省材料になればと思っている。だからどうかご意見のある方はコメントでも拍手でも良いので「お前の考え方はここが足りないよ」と叱っていただけたら嬉しい。甘えた言い方かもしれないが、それほどに私は自分の未熟に苦しんでいる。

ではまた。

テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ