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杣人yumi

Author:杣人yumi
弓道と楽しく向き合う杣人の弓道ブログ。お気軽にお立ち寄りください。

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お茶の時間

審査を受けてきました。結果は残念だったのですがこの間の練習に充実感を得ていますのでそれほど悔しさはありません。色々な意味で早く受かりたいという思いはありますがこの先の練習が私を何処に導いてくれるのか、そんな楽しみも感じています。
京都審査は行けませんので、次は仙台での審査でしょう。仙台は東日本大震災の後には行っていませんので時間が許せば足を延ばして気仙沼辺りまで行ってみたい気もします。遅くなりましたがお見舞いの気持ちです。

道場で練習していると先生が私に「お茶を飲め」とよく仰ってくださいました。私の練習があまりに酷いものでしたから先生も見かねて仰るのです。下手な練習をどんなに続けていても上手になるものではありません。時には気持ちを切り替えてみるのも大切なことです。

先生が全国からのお届け物を持って来ては私たちに思い出話を披露してくれます。京都大会の話、選手権の話など登場するのは私たちには雲の上の先生方との逸話です。でもそんな先生のお話はごく普通自然な話で自慢気なところは微塵もありません。むしろ自分の事を題材にしながら弓の世界の楽しみ奥深さを伝えてくださっているのです。
ある範士に呼ばれて「貴方は中ったから優勝したかもしれないが本当は〇〇さんの方が上手なんだよ」と言われたとか、絶対負けないと思っているのにある先生にはどうしても勝てなかったとか、「自分が上に上がれたのは大事な試合で中っただけ。」と私たちが憧れても行けない世界での活躍をごく普通の世界のように話、しかもその中での先生ご自身はいつも普通の弓引きさんのようです。何も知らない方が聞いたら勘違いしそうなくらいです。
そんな先生の話をお茶を頂きながらお聞きしているうちに、不思議です、私たちの練習が一歩も二歩も素直なものに近づいたような気になってゆきます。いきなり射が上手くなる訳ではないのですが、射位に立って引く気持ちに変化が起こってなんだが弓を引くのが楽しくなっているのです。
お茶の時間の効能でしょうか。

先生程の魔術はありませんが、弓仲間さんとのお茶の時間も大切です。射位に立って練習してこうかな?ああかな?って考えながら引いている疑問をお茶の時間なら先輩にも気軽に聞けます。普段無口な先輩もふっと会話に混ざってきて、この人こんな事考えて練習しているんだとぐっと身近に感じられるようになるかもしれません。

以前私の道場に、教士七段の大変もの静かな先生がいらして、その先生がいらっしゃると皆控えに上がって一手礼射をするのを拝見するというくらいオーラを持った先生がいました。その先生が道場に立つとまるで能舞台のように空間が生まれるので私なんかはただただ驚くばかりだったのです。
その先生は控えに上がると隅の方で弓や矢の道具の調整を静かにやられているのでなかなかこちらから声をかけにくいのですが、私は心の中で色々と教えていただきたいと思っていました。

あるお茶の時間、私が新しいカケを新調し先生方に見て頂いていた時のことです。カケの控えが固くて取懸けも今まで通りには出来ません。このカケどう使っていったらいいのだろうと少し不安も感じていると、先生がすっと近づいてきて「貸して」って手にとって自分の手にカケを挿して帯を巻きます。私は突然の事にえぇっと思いながらも、先生の様子を見るばかりです。
すると先生は道場に下りて一人的前に立ち、事も無げに的に中てます。カケは軽く飛び何の不自由もないようです。
先生は一本引いただけで戻ってきて「はい」って私に返してくれました。
私はその先生の一本で、カケへの信頼を深め先生のようにこのカケを使えるようにならなくてはと意欲を持ったのです。

道場では一人一人が自分の練習に打ち込み自分の世界で格闘しています。それが控えに上がってお茶の時間になると、ふっと素の自分に戻り仲間と弓の話をし、お互いの工夫を話したり教えてもらったりします。
練習を終えるとき、今日はいい話を先生から聞けたなと思う時があります。お茶の時間のちょっと得した嬉しさ。
私はそんなお茶の時間が好きですし、頂いた話を心の中の畑に蒔いていつか芽の出る事を楽しみにしたいと思います。

ではまた。
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テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

狙いと利き目

昨年末から狙いの修正をしている。先生から離れで弓手が動くのは狙いが間違っているからと指摘を受け、後ろから的付けを見ていただき狙いを直していただいた。それまで私が的についていると思っていた狙いがかなり後ろについていたことが分かり驚いたのだが、それ以来道場の仲間にも時々狙いを見てもらっている。
最近仲間からも修正が小さくなってきたと練習の成果が出て来ている言葉を貰った。

狙いの修正をしていく過程で引き分けが変わってきた。矢は大三から三重十文字と平行に引き分けてこなければならないが、それがより自然な感覚で引き分けられるようになったように思う。そして弓手の押す方向、馬手のかけ口の納まりも素直になって矢筋に引く感覚が安定してきた。

先日、仲間と引き分けの話をしていて図を書いて説明をしていたのだが、その後ふと狙いはどの目で見ているのだろうと思った。これまで両目で見ているのだからと眼の事を気にしなかったし、以前眼鏡を外して漠然と的を見るような事をやっていたように、胴造りが出来ていれば狙いは結果的につくものだと思っていた。そこで、調べていくうちに利き目の事に行きあたり、自分の利き目はどちらなのだろうかと調べてみる事にした。

道場で的の正面に立ち、腕をのばして指をたて的に重なるように両目で見る。次に右目をつぶり左目で見るとほぼ同じように見える。さらに今度は左目をつぶり右目で見ると的と重なっていた指が的一つ後ろに動いてしまう。つまり私の目は左目が利き目であり、両目で見た時には左方向に動いているという事だ。この事実を知らずに両目で狙っていたので狙が後ろについていたのだ。
利き目の話を仲間としたら、顕微鏡を覗いていて右では見えるのに左では見えない経験から利き目が分かったという話を教えてくれた。そこで双眼鏡を使ってやってみた。双眼鏡を両目で覗き、次に左目で見ると同じように見えるのだが、右目だけで見るとかなり離れた場所が目に入ってくる。指を立てて的を見た実験同様かそれ以上にはっきり違いが出て分かりやすい。

あらためて弓道教本一巻の狙いの所を読んでみると。
[ねらい] 「会」においては、矢は正しく的の中心線に向かっていなければならない。ねらいは両眼ともに開いたままで、左の目尻・右の目頭の視力を用い、左拳と弓の左側、的の中心点とを見通して定めるのが原則である。(図参照) 119頁 と書かれている。

左の目尻・右の目頭という表現が私にはよく分からないのだが、116頁の「的のねらい」の図、射法八節図解にある図などを見ると右目で的を見ている事がわかる。射法八節図解には「第一のねらい 鼻筋にて的を二つに割り右の目と的の中心に一線をひくねらいの線。」という注釈もある。
つまり弓道教本一巻は右目が利き目の人を標準に書かれているということなのだ。和弓の場合、矢は顔の右にあり、右目の方が矢に近いのだから右目で矢の延長線上にある的を見る方が理にかなっている。しかし、私のように自分の利き目を知らず正しく狙っているつもりで間違った事をしている場合もある。
自分の狙いに不安のある方や初心者の方は時々仲間に見てもらって自分の狙いを確認してもらう事を薦める。そしてその時に自分の利き目も一緒に調べ、狙いの癖を知ることが必要だ。

一緒に練習している仲間で顕微鏡の話をしてくれた方は綺麗に引き分けてきて的の中心に狙いがピタッとつく。悔しいくらいに上手につくのだが、右目が利き目だ。私の狙いも見てくれる大切な弓仲間だ。

一緒に練習する弓仲間を私は大事に思い、感謝しなければならない。

追記)
弓仲間さんが「打ち起こしで的はどこにある?」と尋ねてきた。半分心の中で垜にあるよと答えながら腕の高さと的の位置を確認する。「大三ではどこに的がある?」と再び尋ねるので位置を言うと、「あっそうか左目が利き目だったね。」と言うので私は左目をつぶってみた。すると的は左腕の肘の上に萬月の状態で接している。そのまま引き分けてくると腕に沿って動いてゆくではないか。思わず「あっっ、的が転がっていく!」と声にだして言ってしまった。射法八節図解にも第二のねらい、第三のねらいと左腕にそって的が転がり、会に至って狙いが定まる事が図に描かれている。的は両目で見るのだが、その前段として右目で狙いを定め確認することが必要だと今更ながら教えられた。

テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

三十三間堂

13日の日曜日、京都に出かけ三十三間堂の大的全国大会に参加してきた。今年は参加費が大きく値上がりしたせいか参加人数が少ない。

2017年 成人男子 889  成人女子 940  称号者 242
2018年 成人男子 851  成人女子 1018  称号者 302
2019年 成人男子 668  成人女子 747  称号者 176

それでも成人の部の様子を見に行こうと思ったら人混みで歩くのもままならず、途中で断念して戻って来た。お子さんの晴れ姿を写真に納めたい親に譲らなければという思いだが、人の話だとそれも入れ替えるようにしていたのだそうだ。
3回目の参加の今回。これまで1回目が甲矢、2回目が乙矢が中るも片矢だったので、今回は二本中てようと思っていたのだが、結果は二本とも外してしまった。
甲矢は的中心に真っ直ぐ飛んで音がしたのでいった!と思ったのだがきっと少し低かったのだろう。乙矢は離れを失敗し3時に外した。残念だったが自分のせいであり、離れて仕舞えば後の祭り。来年また頑張ろう。

今回甲矢を外してしまったのには少しばかり理由がある。普段使っている弓が壊れて強い弓に替えて行った事。昨年の台風で遠的場が使えず、全く練習をしないで参加した事。この二点に尽きる。
私は弓の強さを考え2015のジュラ矢に遠的用の鏃をつけているのだが、いつも使っていた19Kgの弓の狙い(それも去年の記憶)を考え少し狙いを下げた。今回使った弓が23Kg弱の強さだったからだ。しかし結果をみると十分に弓の力を生かせなかったのかもしれない。会でしっかり伸び、開こうと意識して狙いもつけたのだが残念だ。的芯に飛んだ事は良しとしたい。

今回は大会受付の前に鉄道博物館を見学したり、終ってからはホテルに戻りお仲間さんたちとお話、そして夜の宴会と楽しい時間を過ごしてきた。これも一緒に連れてきてくださるお仲間さんたちのお陰。感謝の大的大会でした。


 

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年の終わりに一年を振り返る

弓道人の楽しみの一つに年末の道場の大掃除がある。新しく入門した人は道場のすす払いや垜直しをしながら徐々に弓引きとして仲間になってきた一年を振り返るだろうし、経験者は掃除の手順や要領を伝授しながら仲間と過ごす喜びを感じる。
私も入門した道場で雑巾がけや垜直し、トイレ掃除とやりながらそんな思いを重ねてきた。

私の今年一年は昇格昇段はかなわず大きな大会での入賞も無かったが、それでも内容のある充実した練習をすることのできた年だった。
一つは自分の中にある中て気とどう向き合ってゆくのかという事に取り組みだしたことだった。眼鏡を外して的を漠然とみてみたりわざと会を長くしてみたりと様々な試行錯誤を繰り返しながら的に中てたい思いや的が誘ってくる声にどう向き合うのかを考えていた。的と対峙し自分を知る練習をしてきた。
もう一つは狙いを修正したことだった。これは11月になってからのことでまだ取り掛かったばかりの事なのだが、ある先生から狙いが間違っていることを指摘された。早速練習仲間にお願いして的付けの確認、狙いの修正を行った。これにより引き分けはもちろん弓手の押す方向も変わり射形は大きく変化することになる。現在もまだ仲間に見てもらいながら確認するようにしているが、最近狙いが体についてきたのを感じる事が出来るようになっている。

このような練習とともに今年の私の最大の喜びは一緒に練習する仲間を得たことだった。もちろんこれまでも仲間と練習をしているのだが、今年はある考えの下に徹底的に練習する仲間を得た。この仲間とは射技はもちろんの事弓を引く心の有り様を考えてきた。時には近く時には離れてお互いに弓に向かう心を学ぼうと思った。はっきりとそう言ってやっている訳ではないが気づきがあれば良いと思っている。
仲間との練習はこの先も続くしその先に新たな展開も想像している。今年がその礎であったと何年か先に振り返って思えるようであればと願っている。
出会いとは縁である。縁が結ばれて人は出会うのであるが、その意味に気づかず無為に過ごしてしまう場合が多い。私も振り返ってあの時の出会いをもっと大切にしておけばと反省することがある。あの時の出会いはそうゆう意味だったのかと後で思い知る事も多い。だから私は今出会っている仲間との縁は丁寧に扱い良いものに育てていきたいと本気で思っている。そんな仲間との出会いの有った年だった。仲間には心から感謝しお礼を申し上げたい。

先日、私の練習を見ていた先生が「それでいいよ」と仰ってくださった。いつもは私の悪癖を笑い話にしている先生なのだが、偶に、一年に何回もないが、仰っていただける事がある。先生がいらっしゃる時に引く弓は気の抜けない真剣勝負になる。たとえ何も仰っていただけなくてもこの真剣勝負が有り難くて、なるべく先生のいらっしゃる事を願っている。
実はその時の射は私も良い射だったと自覚があった。大三をとった時に組み立てが上手くいき、引き分けは澱む事引っかかることなく自然に詰合が出来、会では左右のバランスが均等に働いて結果体の中から自然と伸び合いが利いて割れた。自分で作為的にしたことは何もなかった。力みも緩みもなく優しい離れがあった。
まぁ次に続いた射は同じようには出来なかったのだが近いところを求める事が出来た。今年の最後、先生に見て頂いた射で言葉を頂いた事は私にとって何よりの喜びになった。

ある弓仲間さんが弓手の手の内について訊いてくれた。幾つか説明した後、私は「弓も素直に受けられるようになると自然と手の内が整ってくる。作為的に何かやるのではなく、弓の動き働きから手の内を考えてください。」と伝えた。
私たちは練習するときに、色々と工夫をする。でも弓は復元するように出来ているのだし、矢は真っすぐ飛ぶように出来ている。だから本当は私たちが弓や矢をそのように扱ってあげれば良いのだ。押したり引いたり捻ったりと色々と必要以上に考え操作してしまうから間違った事になるのだと最近思っている。矢は矢筋に飛ぶようにカケを使い、弓は上下のバランスよく押し開いてくれば離れと同時に素直に弦が戻るから矢を押し出してくれる。余計な事をする必要はないのだ。

そんな事を考えている時、NHKの「こころの時代」と言う番組で仏教の根本思想である「唯識」を取り上げているのを見た。唯識とは自分の存在や心の働きに焦点をあてた教えでとても難しいところもあるのだが、その番組のなかで「なりきる」という言葉が印象に残った。私なりにそれを「弓になりきる」「矢になりきる」と翻訳して射を考えてみてはどうかと直感的に思った。また浅知恵かも知れないが試してみたいと思う。


今年も有難うございました。
来年、皆さまにとって良い年でありますよう、そして私も真剣な気持ちで弓の道に学ぶことが出来るよう努力したいと思っています。
ではまた。

テーマ : 弓道
ジャンル : スポーツ

反省と練習 的つけの事

前々回の記事で「練習はなんでもあり」という事を書いた。色々な事を試して自分で考える事は教えられたことを鵜呑みにしてしまうよりは良いと考えている。これは先生の教えを素直に学ぶ事に反する事ではない。

しかし、色々な事を試しているうちに自分で勝手な理屈をつけて正しい事と思いこんでしまう事もある。今回はその反省だ。

私は的に中てるのが好きだ。二段ぐらいの時から道場では選手にしてもらい試合を楽しんできたせいもあり、中ることを大事に思っている。だがその過程で早気ぎみ(真正の早気ではない)になっていたり、射形の乱れを直すのに時間がかかったりという経験も人一倍している。
今年、私は的に誘われるのを矯正しようと的を確り見ない方法をとってみた。眼鏡を外して霞んで見える的。これには二つの目的があって一つは的に誘われて早く離れてしまう事を防ぐためと、中て気に誘われて射形の乱れ、離れの崩れるのを直すためだった。特に二つ目は的に中てることに意識が行き過ぎて手先に囚われるよりも体に意識を持ってくるようにするためと思っていた。結構切実な思いで眼鏡を外していたのだった。
そうゆう練習をしていて的が霞んでいる分的を胸の中に見ようと生意気な事も思っていた。

だが、練習が進み霞んだ的に慣れてくるとやはり的を見ようという意識が働いていることに気が付く。霞んではいるもののやはりよく見ようと目を凝らすのだ。的が胸の中に浮かんでくることを待とうという気持ちは維持していたがそれも当初ほどのものではなくなっていって、的が霞んでいても中りがある事に自慢げに満足している自分に気がつくようになっていった。

そんなときある先生に私の練習の話をしたところ「的はやはり確り見なければだめだよ」と言われてしまった。的を置く意味をもう一度考え直そうと思った。
今は眼鏡を外して霞むのではなく、見える的が自然に気にならなくなるにはどうしたら良いかと考えている。時々高段者の方と話していると的が近づくとか的が大きくなるとかゆう話が出てくるのだが、的は狙うためのものとして存在しながら的は何かを考えてゆこうと思っている。的は的だよという声が聞こえるような気もするのだが・・・。

さて、的の話についてもう一つ。
先日射会に出ていたところある先生から離れが乱れるのは的つけが間違っているからではないかと指摘を受けた。これまで私の重大な課題で散々苦労しているところだ。六段を頂いてからも時々現れるこの悪癖に色々なアプローチで臨んでいるのだが、その都度良くなったり戻ったりと自分としてこれだというのが掴めていない感じがあった。
今回先生から頂いた指摘は的つけを正すというこれまで見直していなかった点だった。先生は早速私の後ろから別の方に見てもらい的付けが正しいかどうかをチェックする。すると私の狙いはかなり後ろについていて、半月で9時、萬月で星であることが分かった。これまでそうゆう的の見方を意識していなかったので、これは新鮮な取り組みだ。
以前も書いた事があるが、私の狙いは肩、弓手、的を一直線に結び、矢筋の延長線が星にくるようにイメージするものだった。
今回、萬月の狙いが私の正しい狙いだと分かったわけだが、先生は1か月は人に的つけを見てもらいながら練習するようにと言われた。早速道場の練習で、仲間に事情を話し見てもらう。的付けの見方を覚えてもらうという場面もあったのだが、見てもらい正しい的つけで引くと幾つかの事が分かってきた。
その一つは弓を押す方向の違いだ。今までは肩からの線に乗せて真っすぐに押しているつもりだったのだが、感覚的には3時の所に押すような感じになっている。結果として角見が利いている気もする。
これが甘いと少し横に振った感じになり見ている人の話では瞬間後ろについて離れる事になるらしい。無意識に中るように引こうと離れの瞬間に操作してしまうのだろう。失敗の射だ。
さらに、この的つけを正しくする中で変わってきたのは引き分けだった。基本的に引き分けは三重十文字と平行に矢が下りてくるように弓を開くと思うのだが、的つけを正したことで引き分けが素直になった気がする。弓手の感覚も良いが、特にカケの捻り具合と弦に取られて力が抜けてくる感覚が安定したように思っている。会での納めた感じはまだ試行中で肩と肘の納まりの問題なので少し事情が違うと思うが、カケが軽い分肩肘への意識が高まって良い方向にあるのではないかと思っている。
もう一つ意識が高まったことを書いておこう。物見と頭の位置だ。当然ながらこれが正しくなければ的つけが安定するわけがない。私の頭は少し伏せ気味なところがあって顔向けも浅いのではないかという気がもともとあった。今回的つけを直す際に顔向けも見直している。

このように自分で正しいと思ってやっていた事も的つけ一つ直すことであちらこちらに修正箇所が見つかった。改めて基本の大切さを思い知った。そして先生という存在は恐ろしいもので私の問題点を見抜き、そこを指摘することで根本からやり直す切っ掛けを与えてくださったのだ。有り難い存在だ。

今回自分の反省としてかなり恥ずかしい話を書いた。きれいごとかっこいい事を言っていても何もプラスにはならない。
まぁ時には射会で良い成績を出して自慢げに報告もしたいが、練習について赤裸々な姿もさらして自戒の場としたい。

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